第45話:防音室と、無知な共犯者たち
定食屋を出た後、俺たちは真っ直ぐ帰路につくはずだった。
だが、駅へ向かう商店街を抜けた先で、けばけばしいネオン管の看板が目に入り、俺の足は不自然に止まった。
カラオケボックス。
普通の高校生なら、休日の午後に当たり前のように立ち寄るであろう、定番の娯楽施設。
「……一般の高校生が休日に立ち寄る施設の構造と、平均的行動パターンの実地調査だ」
俺は、前を向いたまま、誰が聞いても苦しい、そして俺自身が一番信じていない理屈を口にした。
「我々が社会に溶け込み、周囲の目を完全に欺くためには、一般的な娯楽施設のシステムを把握しておく必要がある。これは、あくまで生存戦略の一環としてのシミュレーションだ」
詩織は、俺の隣で小さく息を吹き出した。
「ふふっ。はい。調査ですね、湊くん」
その返事だけで十分だった。
俺が何を誤魔化そうとしているのか、もう説明する必要もないらしい。
俺は耳の裏が急速に熱くなるのを感じながら、誤魔化すように舌打ちを一つして、そのビルの自動ドアを抜けた。
安っぽいシトラス系の芳香剤と、奥の厨房から漂う揚げ油の匂いが、冷房の乾いた風に乗って鼻腔を突いてきた。
受付カウンターには、気怠そうな大学生風のアルバイト店員が立っていた。
俺は、事前に頭の中で組み上げてきたシミュレーション通りに、淀みなく要件を伝えるべく口を開く。
「二名だ」
「いらっしゃいませー。ご利用時間はどうされますか? 今ならフリータイムもいけますけど」
「フリー、タイム……?」
初手で、想定外の単語が飛んできた。
時間は指定するものではないのか。フリーとはなんだ。いつまでいてもいいという意味か。そんな非合理的なシステムがこの商業施設で成立するのか。
「あ、いや、普通に時間制でいいっすか? 二時間とか」
「……ああ。二時間で頼む」
「はい。機種はどうされますか? DANとJAYSOUND、ご希望あります?」
俺の思考が、再びフリーズした。
ダンと、ジェイサウンド。
なんだそれは。音響設備のメーカーか? それとも部屋のグレードの隠語か? どちらを選べばリスクが少ない?
「……どちらでも構わない。平均的な方を」
「はあ。じゃあDANで。ドリンクバーあちらなんで、グラス持っていってください。お部屋204番でーす」
店員がプラスチックのバインダーと、空のグラスを二つ、カウンターに雑に置いた。
俺はそれを受け取りながら、自分がひどく滑稽なピエロにでもなったような気分だった。完璧な偽装どころか、システムすらまともに理解できていない。
横を見ると、詩織もまた、目を丸くして俺と店員を交互に見つめていた。
「……行くぞ」
短く促し、薄暗い廊下を進む。
両側の部屋からは、重低音の効いたBGMと、音程の外れた叫び声のような歌声が、くぐもった音となって漏れ聞こえてくる。
「なんか……すごい場所ですね」
詩織が、俺の背中に隠れるようにして小声で言った。
「平均的な娯楽施設だ。怯える必要はない」
204号室。
重い防音扉の取っ手を引き、中に入る。
部屋は、四畳半ほどの異常に狭い空間だった。壁際には黒い合成皮革のL字型ソファが置かれ、中央には小さなアクリル製のテーブル。壁には巨大なモニターが設置され、天井からは無数の色を放つミラーボールが、頼みもしないのにチカチカと光を乱反射させていた。
ガチャリ、と。
背後で防音扉が閉まった瞬間、廊下のノイズが完全に遮断された。
代わりに、部屋のモニターから、誰も頼んでいない最新のヒットチャートを紹介するPR番組が、耳をつんざくような爆音で流れ始めた。
「……っ、うるさいな」
俺は慌てて壁のダイヤルを回し、音量を極限まで下げた。
途端に、部屋の中に奇妙な静寂が落ちる。
防音室特有の、耳の奥が圧迫されるような密閉感。そして、合成皮革の安っぽい匂い。
俺と詩織は、L字型のソファに並んで腰を下ろした。
他に座る場所がないとはいえ、距離が近い。膝と膝が、少し動けば触れてしまいそうなほどの距離。
さっき、定食屋で隣に座った時とは、密度の質が違う。ここは、完全に外界から遮断された密室なのだ。
詩織の制服から漂う、家の洗濯機で使っているのと同じ柔軟剤の匂いが、狭い空間の中で俺の鼻腔をダイレクトに刺激する。
「……飲み物、持ってくる」
俺は耐えきれず、逃げるように立ち上がった。
廊下に出て、ドリンクバーの機械へ向かう。冷たい水で顔を洗いたい気分だったが、そんなことをすれば余計に不自然だ。
氷をグラスに放り込みながら、俺は深く息を吐き出した。
心拍数が、異常な数値を叩き出している。たかがカラオケに来ただけで、大人の監査を受ける時よりも動揺している自分が腹立たしかった。
メロンソーダと、ブラックコーヒーを注いで部屋に戻る。
詩織は、膝の上に両手を揃えて置き、モニターに流れる見知らぬアイドルの映像を、まばたきもせずに見つめていた。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
毒々しい緑色をしたメロンソーダをテーブルに置く。
俺は再び隣に座り、テーブルの上に置かれていたタブレット端末――受付の男が『デンモク』と呼んでいたもの――を手に取った。
「さて、調査開始だ」
俺は端末の画面を立ち上げ、詩織の前に差し出した。
「好きなのに入れろ。一般的に高校生が歌うような、最新の流行歌がいいだろうな。データ収集だ」
詩織は、両手でその重たい端末を受け取った。
画面には、『最新ヒットランキング』『年代別』『アニメ・ボカロ』といったカラフルなアイコンが並んでいる。
しかし。
十秒経っても、二十秒経っても、詩織の指は画面の上でピタリと止まったまま、一ミリも動かなかった。
「……どうした」
モニターの光が、彼女の顔を青白く照らしている。
詩織は、困り果てたような、泣きそうな顔で、ゆっくりと俺の方を向いた。
「……湊くん」
「なんだ」
「……私、テレビもスマホも、一応持ってはいたんですけど」
彼女の指先が、端末の縁をぎゅっと白くなるほど握りしめている。
「生活費の計算とか、明日のご飯のこととか……そういうので頭がいっぱいで。音楽番組とか、ほとんど見たことがなくて……」
そこまで言って、詩織は申し訳なさそうに俯いた。
「……最近の曲、一曲も、分かりません。……タイトルも、誰が歌っているかも、全然」
防音室の重い空気が、ふっと止まった。
テレビもスマホもあった。
それでも、そこに流れる歌を一つも知らない。
娯楽を楽しむ余裕そのものが、彼女の人生から切り取られていた。
「……そうか」
俺は、低く応えた。
「すみません……せっかくの調査なのに。……湊くん、何か歌ってください。湊くんが入れてくれたら、私、覚えますから」
詩織が、端末をそっと俺の方へ押し戻してきた。
俺はそれを受け取り、画面の『最新ヒットランキング』をタップした。
ズラリと並ぶ、見知らぬアーティスト名。英語と記号が入り混じった、暗号のような曲名の数々。
俺の指先もまた、画面の上でピタリと停止した。
「…………」
「……湊くん?」
俺は、端末を持ったまま、天井の無意味に回るミラーボールを見上げた。
「……俺の脳内ストレージに、他人の流行歌などという無駄なデータは、一文字も保存されていない」
沈黙。
詩織が、目を丸くして俺を見ている。
「スマホもパソコンもある。ネットのトレンドも、株価も、地域の犯罪発生率も毎日チェックしている。だが、俺の生存戦略において、流行のJ-POPなどという情報は、完全に排除すべきノイズだった。……だから、俺も一曲も知らない」
言い終えると、部屋の中に再び、ひどく間の抜けた静寂が落ちた。
俺たちは、顔を見合わせた。
端末を持ったまま、二人とも固まっている。
……。
……何しに来たんだ、俺たちは。
自分がひどく滑稽に思えて、俺は小さく息を吐き出した。
「……あの」
詩織が、おずおずと手を挙げた。
「……校歌なら、歌えますけど。一応、メロディ分かりますし」
「金払って休日の防音室で校歌歌うバカがいるか。修行僧かお前は」
俺が即座にツッコミを入れると、詩織が「ですよね」と恥ずかしそうに首をすくめた。
「だが……何もしないで二時間座っているのも、精神的に苦痛だ。何かないのか。お前が過去に、偶然耳にして、記憶に残っているメロディは」
詩織は、うーんと天井を見上げて考え込んだ。
やがて、ポンと手を打つ。
「あ、あれなら分かります。……昔、住んでたアパートで、夕方になるとよくテレビから流れてた、消臭剤のCMの曲」
「……消臭剤」
「はい。『シュッとひと吹き、お部屋爽やか~』みたいな。あれ、すごく耳に残ってて」
「……なんで俺たちは、高い金払って密室でトイレの芳香剤の宣伝をしなきゃいけないんだ」
「でも、それくらいしか……」
俺は深い溜め息をつき、端末の検索窓に、詩織の言う消臭剤の商品名を入力した。
……ある。本当にあった。無駄に充実したデータベースだ。
送信ボタンを押す。
数秒後、モニターの映像が切り替わり、デカデカと歌詞がテロップで表示された。
イントロなどない。いきなり、壮大なオーケストラ風の伴奏が部屋に鳴り響いた。
「歌え」
俺がマイクを差し出すと、詩織は慌てて両手を振った。
「む、無理です! マイクなんて持ったことないし、私、音痴かもしれないし……!」
「……チッ。貸せ」
俺はマイクを握り直し、モニターを真っ直ぐに睨みつけた。
無駄に設定された最大レベルのエコーが、俺の声を拾う。
「『シュッとひと吹き……お部屋、爽やか……』」
真顔だった。
便器が眩しく輝く映像を背負いながら、
俺は人生で一番真剣な顔で、消臭剤のCMソングを歌った。
エコーの効いた俺の低音が、無駄なビブラートを伴って部屋中に響き渡る。
「『……ニオイ、さようならァァ……』」
曲が終わった。
たった十五秒の、異様な時間だった。
俺がマイクをテーブルに置くと、隣で、不自然な震動が起きていた。
見ると、詩織が両手で口を強く押さえ、顔を真っ赤にして、肩を激しく震わせていた。
「……何がおかしい」
「ぶっ……ふふっ……あはははははっ!!」
耐えきれなくなったように、詩織が爆笑した。
俺がこれまで見てきた、大人の顔色を窺うような作り笑いでも、気を遣った微笑みでもない。
お腹を抱え、涙目になって、息ができないほど本気で笑い転げている。
「み、湊くん……っ、真顔で……エコー、響きすぎ……っ!」
「お前が歌えと言ったんだろうが」
「言ってないですぅ……っ! 湊くんが勝手に……あはははっ、お腹痛い……!」
ソファの上で転げ回って笑う彼女を見て、俺は文句を言い返そうとした。
だが、その間抜けな姿と、先ほどの自分の無駄に良い声のエコーを脳内で再生すると、どうしようもなく口の端が引きつってきた。
「……ふっ」
堪えきれず、俺の口からも笑いが漏れた。
一度漏れてしまうと、もう止まらなかった。
「……はははっ! なんだよそれ、俺はバカか。何しに来たんだ、ほんとに」
「あはははっ! 湊くん、最高です……っ!」
俺は、腹を抱えて笑った。
声を出して、息が苦しくなるほど、ただ無心に笑った。
いつ以来だろう。こんな風に、理屈も、リスクも、生存確率も全部忘れて、ただ目の前のくだらない出来事に腹を抱えて笑ったのは。
その後、俺たちは意地になって、お互いの脳の片隅に残っている「無駄な記憶」を端末に入力し続けた。
俺が入れたのは、スーパーの鮮魚コーナーでエンドレスで流れている、魚の名前を連呼するだけの謎のBGM。
詩織が入れたのは、夕方のローカルニュースのエンディング曲。
俺が入れた、深夜の通販番組で流れる筋トレ器具のテーマソング。
最新のヒット曲なんて、一曲も出てこない。
恋だの愛だの、青春だのを歌った曲なんて、一つもない。
ただ、生活の泥臭い記憶にこびりついた、どうしようもない音楽の切れ端だけを引っ張り出しては、二人でマイクを握り、真顔で歌い、そして呼吸ができなくなるほど笑い転げた。
*
一時間半が過ぎた頃。
喉が枯れ、笑い疲れた俺たちは、ソファに深く背中を預け、ただモニターで流れる見知らぬアーティストのミュージックビデオをぼんやりと眺めていた。
テーブルの上には、氷が溶けて薄まったメロンソーダと、すっかり冷めたブラックコーヒー。
部屋を照らすのは、無意味に回り続けるミラーボールの光だけ。
俺たちの間には、もう沈黙への恐怖や、過剰な緊張感はなかった。
ただ、心地よい疲労と、同じだけの「欠落」を共有した者同士の、穏やかな空気が流れていた。
「……湊くん」
氷の入ったグラスを両手で包み込みながら、詩織がぽつりと言った。
「なんだ」
「……私だけじゃないんですね」
「何がだ」
「……普通の青春、知らないの」
詩織が、モニターの光に照らされた横顔で、少しだけ嬉しそうに笑った。
「私、ずっと、自分だけが世界から取り残されてるみたいで、怖かったんです。周りの子がテレビの話とか、音楽の話とかしてても、全然入れなくて。……私は、一生そういうのとは無縁なんだなって」
彼女の言葉は、悲屈ではなかった。
ただ、過去の自分を静かに受け入れ、それを俺という同じ穴の狢に打ち明けている、安堵の響きがあった。
「……ああ。俺たちは、何も知らない」
俺は、ソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げたまま答えた。
「俺の脳みそは、親の遺産をどう計算して生き延びるかで容量の限界だった。お前の脳みそは、明日どうやって殴られずに生き延びるかで限界だった。……そこに、流行りの歌が入る隙間なんて、あるわけがない」
「……はい」
「俺たちは、見事なまでにポンコツだ」
「ふふっ。そうですね。……私たち、ポンコツです」
「ポンコツ」
その一言が、不思議なくらいしっくりきた。
知らないことは、恥じゃない。
欠落していることは、罪じゃない。
俺の隣には、俺と同じように、世界から切り離されてサバイバルしてきた、最高に不器用でポンコツな共犯者がいる。
俺は、薄暗い防音室の中で、かつてないほどの深い安堵に包まれていた。
この箱の中なら、誰にも見つからない。
誰にも評価されない。
立派な大人のふりをして、無理に背伸びをする必要もない。
俺は、心の中で、カレンダーの数字を思い浮かべた。
『十月十五日』。
詩織が十八歳になる、あの日。
これまでは、そこまで逃げ切れば終わりだった。
それだけの日付だった。
だが、今は違う。
隣で、メロンソーダのストローを咥えて小さく笑っている彼女の横顔を見ていると、その日付の意味合いが、俺の中で完全に反転していることに気づく。
――あの日を迎えれば。
そうすれば、俺たちはもう、こんな防音室に隠れる必要はなくなる。
誰の目を気にするでもなく、堂々と太陽の下を歩いて、堂々と、このどうしようもなく無知でポンコツな日常を、続けていくことができる。
それは、「生存」などという無機質な言葉ではない。
もっと熱く、もっと厄介で、もっと甘い――「希望」という名の毒だった。
俺は、その猛毒に自分の全身が浸かりきっていくのを感じながら、目を閉じた。
このまま、時間が止まればいい。
本気で、そう思った。
ジリリリリリリリリリッ!!!
唐突に。
部屋の壁に設置された内線電話が、鼓膜を劈くような暴力的なベルの音を鳴り響かせた。
「ひゃっ!?」
詩織が、ビクッと肩を跳ねさせてグラスの氷を鳴らす。
俺もまた、心臓を鷲掴みにされたように目を開け、反射的に身を固くした。
「……終了十分前の、コールだ」
俺は、呼吸を整えながら、受話器を持ち上げて無言で叩き切った。
ベルの音が止み、部屋には再び、知らないアイドルの軽薄な歌声だけが残された。
「……びっくりしました」
詩織が、胸を撫で下ろして苦笑いする。
「……ああ」
俺は、短く答えて立ち上がった。
魔法は解けた。
防音室の重い扉の向こうには、また、俺たちを切り分けようとする厄介な現実が待っている。
「帰るぞ。……次は、一曲くらい、まともな歌を覚えてから来い」
「湊くんこそ」
俺たちは、どちらからともなく笑い合い、そして、重い防音扉の取っ手を引いた。
未来への希望という、一番甘くて危険な感情を、胸の奥底に隠したまま。




