第44話:猫と、管理できないもの
隣町までは、電車で二十分だった。
乗り換えなしの各駅停車。土曜の昼前ということもあり、車内はそこそこ混んでいたが、運良く二人並んで座れるロングシートの端を確保できた。
ガタン、ゴトンと、一定のリズムで車体が揺れる。
詩織は窓際に座り、流れていく街の景色を、まるで初めて外の世界を見た子供のようにじっと見つめていた。
ドアップになっては後ろへ飛び去っていく薄汚れた電柱、切り取られた画一的な住宅の屋根、カンカンと音を立てる踏切の遮断機。何でもない、ただの退屈な郊外の風景を、彼女は宝物でも眺めるようなキラキラとした目で見ている。
「……外、好きなのか」
思わず聞いた。
俺の声に、詩織が弾かれたように振り向く。
「え? あ、すみません、ぼーっとしてました。……なんか、電車って久しぶりで」
「久しぶり? 学校の通学で毎日乗ってるだろ」
「それは、乗ってる、って感じじゃないんです。周りの人の邪魔にならないように、ただ息を潜めて移動してるだけで。……でも今日は、どこかに行くために乗ってるから」
俺は、その言葉の意味を少し考えてから、無言で前を向いた。
「……そうか」
どこかに行くために、電車に乗る。
世間の高校生にとっては当たり前の休日のお出かけが、彼女にとってはそうじゃなかった。俺の定めた『生存のためのルート』を外れて外を歩くことなど、これまでは許されていなかったからだ。
当たり前のことが当たり前じゃない人間が、世の中にはいる。
俺もそうだった。だから分かる。だが、それが分かるからこそ、今日、理屈を捨てて彼女をここへ連れ出したことが、少しだけ正解に近い気がした。
プシュ、という空気音とともに、電車が駅に滑り込む。
「ここだ。降りるぞ」
「はいっ!」
詩織が立ち上がる時、肩にかけた小さなショルダーバッグのストラップがカーディガンに絡まって、少し手こずっていた。俺はそれを黙って見ていた。手伝うべきかと思ったが、彼女は自分で直して、小走りで開いたドアに向かった。
その背中が、俺の定めた管理下にあった昨日までとは違う、彼女自身の意志で動いているように見えた。
ホームに降り立った瞬間、詩織が胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。
「……空気、違いますね」
「同じ都市圏だ。ただの気のせいだ」
「でも、なんか、違う気がします。……慣れてない街の匂いって、ちょっとドキドキしませんか」
「しない」
「湊くんは何でも慣れてますよね」
「お前が慣れなさすぎるんだ。歩くぞ」
改札を出て、スマートフォンで地図アプリを立ち上げる。目的地まで徒歩七分。駅前のロータリーを抜け、一本路地に入った商店街の中にある小さな店だ。事前に徹底的にリサーチした限りでは、観光客向けの大型チェーンではなく、地元の常連客が集まる穴場らしい。猫の数は十二匹。平均滞在時間は一時間半。予約は不要だが、土日は混むこともあると口コミにあった。
「どこに行くんですか?」
「地図見て歩いてるんだから、黙ってついてこい」
「……はい」
「……もう少ししたら分かる」
アーケードのない、昔ながらの商店街に入る。
チェーン店が少なく、それぞれの個人店が生活に根ざした勝手な匂いを漂わせている。八百屋の軒先に並ぶ土のついた根菜の匂い、豆腐屋の甘く柔らかな大豆の匂い、昔ながらの金物屋から漂う微かな鉄の匂い。
夕飯の材料を「補給」するためにスーパーを最短ルートで回るだけの俺たちにとって、この目的のない雑多なノイズは、ひどく新鮮だった。
詩織は、歩きながら小さく首を左右に動かして、目に入るものすべてを取り込もうとしていた。
「あ、あのお豆腐屋さん、なんか、すごくいい匂いがします」
「寄らないぞ」
「分かってます。……でも、今度来たら寄りたいです」
今度。
その言葉が、俺の胸の奥で微かに跳ねた。
今度、また来る。それは、今日を生き延びるだけで精一杯だった今の俺たちには、奇妙なほど自然で、そして甘い響きを持っていた。
商店街を抜け、少し寂れた路地に入る。人通りが減り、古い民家が並び始める。その一角に、小さな木製の看板が立っていた。
『猫とひだまり』
外観は、古い一軒家を改装したような造りだ。白い壁に、猫の手形のスタンプがランダムに押されている。磨かれたガラス窓の向こうに、橙色の照明が柔らかく灯っているのが見えた。
「……ここです、か?」
詩織が、看板と俺を交互に見た。
「ああ」
「猫カフェ……!」
「初めてか」
「はい。……なんか、思ってたより、こじんまりしてますね。でも、すごく、いい感じです」
俺は真鍮のドアノブに手をかけた。重いドアを開けると、ドアベルがカラン、と小さく鳴った。
*
店内は、想定していたよりもずっと温かかった。
動物特有の獣臭さはほとんどなく、代わりに清潔なリネンの匂いと、微かなコーヒーの香りが漂っている。照明はやや暗めで、アイボリーの壁紙と無垢材を基調とした内装が、外界の時間を遮断するような落ち着いた雰囲気を作っていた。
入り口でスリッパに履き替え、手洗い場で念入りに手を洗ってから、受付でシステムの説明を受けた。
一時間制で、ワンドリンク付き。延長は三十分単位で追加料金。
「猫ちゃんを追いかけるより、座っていると向こうから挨拶に来ることが多いですよ」
エプロン姿の女性スタッフがそう言って、木製の二重扉を開けてくれた。
中に入った瞬間、詩織が「わぁ」と小さく息を呑んだ。
広いリビングのような室内には、天井まで届くキャットタワーや、爪とぎで少し毛羽立った低いソファが配置されている。猫たちはそれぞれ思い思いの場所でくつろいでいた。丸くなって眠っている茶トラ、毛繕いをしているキジツヤ、窓際で外を歩く鳩をぼんやり眺めている白猫。全部で十二匹という話だったが、目に入っただけで七匹は確認できた。
「……すごい」
詩織が、両手を胸の前で組んで小声で言った。
「入って座れ。入り口で突っ立ってると邪魔だ」
「あ、はいっ」
二人で、窓際の低いソファに並んで座った。
詩織はバッグを膝に乗せたまま、部屋全体をキョロキョロと見回している。その目が、ビー玉のようにきらきらと輝いていた。
スタッフがオーダーを取りに来る。俺はブラックのホットコーヒー、詩織はメニューをしばらく睨みつけた後、イチゴのクリームソーダを選んだ。
「……クリームソーダなんて、いつ以来でしょう」
「好きなのか」
「うーんと……なんか、頼んだことなくて。でも、ずっと気になってたんです。あの、冷たいバニラとシュワシュワのソーダが混ざるやつ」
「注文したんだから、黙って来るのを待て」
「はいっ」
程なくして、スタッフがドリンクを運んできた。
詩織の前に置かれたクリームソーダは、鮮やかな赤いソーダの上に、真ん丸なバニラアイスが乗り、毒々しいほど赤いサクランボが添えられていた。グラスの表面に、すぐに冷たい水滴が浮かび上がる。
詩織が、それをしばらく無言で見つめた。
「……どうした。飲まないのか」
「……なんか、きれいで」
「……」
「写真、撮ってもいいですか」
「好きにしろ」
詩織がスマートフォンを取り出して、クリームソーダの写真を撮った。少しだけ角度を変えて、何枚か。シャッター音が、静かな店内に小さく響く。
「……誰かに送るのか」
「いいえ、自分用です。……こういうの、ちゃんと残しておきたいなと思って」
それから、彼女はストローに口をつけ、そっと一口飲んだ。
ソーダの赤と、溶け出したバニラアイスの白が、グラスの中でゆっくりと混ざり合い、淡いピンク色の境界線を作っていく。
「……おいしい」
「そうか」
「湊くんも飲んでみますか?」
「いらない」
「そうですか。……でも、おいしいですよ」
俺はコーヒーを飲んだ。苦い。いつもの、ただの黒い液体の味だった。
*
猫は、最初の十分間、一匹も俺たちのソファに近づいてこなかった。
詩織は最初こそ猫たちの方へ身を乗り出していたが、「追いかけないで待つ」というスタッフの言葉を守り、大人しくソファに座ってグラスの氷をカラカラと鳴らしていた。
俺も、同じように座っていた。
何もしない。ただ、座っている。
この三年間、俺の生活に「何もしない時間」は存在しなかった。
すべての時間にタスクを割り当て、無駄を排除し、最適な密度で充填してきた。立ち止まれば、大人たちに足元を掬われる気がして怖かったからだ。
だから今、こうして「ただ猫が近づいてくるのを待つ」という空白の時間を過ごしていると、身体の芯がソワソワとして、妙に落ち着かない気持ちになる。
「……湊くん、あそこ見てください」
詩織が小声で言って、俺のカーディガンの袖をちょんとつついた。
視線を向けると、一匹の小柄な三毛猫が、俺たちのソファの方に向かってゆっくりと歩いてきていた。床に鼻をつけながら、見慣れない客の匂いを確かめるようにして、一歩ずつ。
詩織が、呼吸を止めるようにしてじっと待っている。
三毛猫はソファの前で立ち止まり、詩織のスニーカーのつま先を一度嗅いでから、するり、と音もなくソファに飛び乗った。そのまま詩織の膝の上に収まり、クルリと丸くなる。
「……っ、来た……!」
詩織の声が、かすかに震えていた。
「動くな。逃げる」
「わ、分かってます。……でも、どうしよう、嬉しくて、無意識に動きそうになります」
「動くな」
「はい……」
詩織は、両手を空中に浮かせたまま、マネキンのように固まっていた。膝の上の三毛猫は、そんな彼女の極度の緊張を知ってか知らずか、目を細めて、ゴロゴロ、と喉を鳴らし始めた。
「……鳴ってます。喉の奥が、振動してます」
「ゴロゴロ音だ。機嫌がいい証拠だ」
「……湊くん、詳しいんですか」
「事前にリサーチした」
「猫カフェのために?」
「……うるさい」
詩織がくすっと笑った。
その拍子に膝が少し動いたが、三毛猫は逃げなかった。ゴロゴロという低い音は続いている。
「……撫でていいのかな」
「ゆっくり、上から手を近づけて、指先を嗅がせてみろ。嫌がったら無理するな」
「……はい」
詩織が、恐る恐る右手を猫の鼻先に近づけた。
三毛猫が少し顔を上げて、詩織の指先をひとつ、ふたつと嗅いだ。それから、自分から額を詩織の手のひらに押しつけてきた。
「……嗅いでくれた。……頭、押しつけてきてる」
「それは、撫でてほしいサインだ。頭から首の後ろにかけて、毛並みに沿ってゆっくり撫でろ」
詩織が、教えられた通りにそっと三毛猫の頭を撫でた。
ゴロゴロという音が、少し大きくなった。
「……すごい。……すごく、温かくて、ふわふわです」
俺はそれを隣で黙って見ていた。
詩織の横顔が、今朝のリビングとは別人のように緩みきっていた。
肩の強張りが完全に消え、目の奥にあった凍りついたような怯えが、猫の体温によってゆっくりと溶かされていくのが分かった。
よかった、と思った。
それは、計算の結果でも、合理的判断でもない。ただ、胸の奥に勝手に湧き上がってきた感情だった。
……こういうものを、俺はずっと「無駄なノイズ」として排除してきたはずなのに。
生存戦略でも、管理でもない。ただ、彼女が笑っていて、よかった、という、ひどく単純な感情。
その時、俺の足元に、別の気配が近づいてきた。
黒猫だ。
体の大きな、少し年を取った雰囲気の毛並みの黒猫が、俺の足元をゆっくりと歩いていた。俺はとりあえず、手を膝に置いたまま動かないでいた。
黒猫は俺の革靴を一度嗅いで、それから、よいしょ、という具合にソファの上に飛び乗った。
ちょうど、俺と詩織の間だ。
詩織が、目を丸くした。
「湊くんにも来ました!」
「……別に、こいつは俺じゃなくて、二人の間の温かい場所を選んだだけだ」
「でも、来ましたよ」
黒猫が、俺の方に顔を向けた。ビー玉のような大きな金色の目が、瞬きもせずに俺を見ている。
俺は、三毛猫に倣って、手をゆっくりと近づけた。黒猫は、俺の指先を一度嗅いでから、ふい、とくるり背を向けた。
「……」
「あ」
「……見ろ。完全に嫌われた」
「……逃げてはいないですよ。ただ、背中を向けただけで」
「同じことだ。無関心のサインだろ」
「違います。猫って、背中を向けるのは信頼してる証拠らしいですよ。さっきスタッフさんが言ってました」
「……そうなのか」
「はい。だから、湊くんのこと嫌いじゃないと思います。……湊くんって、そういう分かりにくい態度取るの、なんか似てますね」
俺は、何も言い返せず、黒猫の丸い背中を見た。
無防備に丸まって、スースーと規則正しい息をしている。
「……触れるか」
「そっとなら、大丈夫だと思います」
俺は、黒猫の背中にそっと手を乗せた。
暖かかった。
柔らかい毛の下に、硬い骨格があり、小さな肋骨の動きが伝わってくる。
生きている。
ただそれだけの当たり前のことが、今の俺にはひどく奇跡的なことのように感じられた。
黒猫は、背中を向けたまま動かなかった。
無防備だった。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられる距離なのに。
……それでも、ここにいる。
「……そういうものか」
思わず、呟いていた。
「……逃げないな」
「ほら。嫌いじゃないんですよ」
「……お前の猫は?」
「まだいます。もう、ずっとここにいたいくらいです」
詩織が、三毛猫のゴロゴロ音に合わせて指を動かしながら、とろけそうな声で言った。
俺は黒猫の背中を撫でながら、正面を向いたまま言った。
「……もう三十分延長する」
「え、いいんですか?」
「お前が、ずっとここにいたいと言った。なら、延長する」
「でも、お金が……」
「俺が払う。管理費だ」
「……また管理費になりましたよ、今」
「うるさい。さっきとは意味が違う」
「どう違うんですか」
「……黙れ」
詩織が、声を出して笑った。
その震動で三毛猫が少し体を動かしたが、やはり逃げることはなかった。
*
結局、一時間半いた。
店を出ると、外はすっかり昼下がりの光になっていた。
太陽が高くなり、商店街の方から、昼食を知らせる油と出汁の匂いが漂ってくる。
「……お腹、空きませんか?」
詩織が、お腹を押さえるような仕草をして言った。
「……言われてみれば」
「せっかくですし、どこかで食べてもいいですか。私、この辺来たことないので、どこがいいか分からないんですけど」
俺はスマートフォンを取り出した。隣町の飲食店を検索する。
商店街の中に、昔からやっているらしい定食屋が出てきた。口コミの星が四つ半。観光客向けではなく、回転が良いから土日でも待たずに入れることが多い、とある。
「定食屋でいいか。近くにある」
「はい、なんでも!」
「なんでもって言うな。お前が食べたいものを言え。我慢する必要はない」
「……じゃあ、生姜焼き定食があったらそれにします。湊くんは?」
「……同じもので構わない」
「同じにしてくれるんですか」
「たまたま、俺も肉の気分だっただけだ」
「ふふっ」
「笑うな、歩くぞ」
商店街を並んで歩く。
詩織が、さっきと同じように左右の店を珍しそうに見ながら歩いている。豆腐屋の前を通ると、また立ち止まりそうになった。
俺が「寄るなよ」と言う前に、詩織は「分かってます、次の楽しみにします」と言って歩き続けた。
次。
また、出た。
俺はそれを聞き流すふりをしながら、スマートフォンを握る手に少しだけ力を入れた。
定食屋は、思ったより小さかった。
テーブルが四つ、壁に向かったカウンターが五席。昭和の残り香がするような、長年の油と出汁が染みついた飴色の木のカウンターに、二人並んで腰を下ろした。壁には、手書きの黄色い短冊メニューがずらりと貼られている。
生姜焼き定食を二つ注文する。
冷たい麦茶の入ったコップが出され、それを飲んで待っている間、詩織が言った。
「……猫、ふわふわでしたね」
「ああ」
「黒いの、最後には湊くんの膝に乗ってましたよ」
「ただ暖かいから乗っただけだ。深い意味はない」
「でも、嬉しくなかったですか」
「……」
俺は、コップの結露を指でなぞりながら、少し黙ってから答えた。
「……まあ。悪くはなかった」
詩織が、また笑った。
今日は、本当によく笑う。
朝のリビングの顔とは、全然違う。
他人の顔色を窺う、用意された笑顔ではない。自分を守るために計算されたものでもない。ただ、心の中にある温かいものが、表情として自然にこぼれ落ちている。
詩織が笑う。
その顔を見て、胸の奥がわずかに熱を持つ。
理由は分からない。生存戦略としての正解も、大義名分としての根拠も、安全な方法論も、もう関係ない。
だが、視線を逸らす必要はなかった。ただ、この顔を見ていたかった。
「湊くん」
「なんだ」
「……今日、ありがとうございます」
「礼を言うな。俺の自己満足だ」
「でも、言いたいんです」
「……」
「湊くんが連れ出してくれなかったら、私、一生こんな土曜日来なかったと思うから」
俺は、前を向いたまま、カウンターの木目を見つめて答えた。
「……来月もある」
言った後で、自分でも少しだけ驚いた。
予定にない言葉だった。
「え?」
「来月の土曜も、どこかに行く。……だから、それまで、うまく息をしてろ」
詩織が、言葉を失ったように黙る。
その不自然な沈黙の重さに、俺はようやく気づく。
――俺は今、「未来」を勝手に確定させた。
管理でも、計画でもない。
ただの、約束だ。
後戻りのできない種類の。
「それと、猫カフェの予約、次は事前に入れる。土日はやっぱり少し混む」
「……じゃあ、また行けるんですか」
「また行くと言った」
詩織からの返事はなかった。
不自然な沈黙に、俺は横を見た。
詩織が、カウンターの木目を見つめたまま、唇をぎゅっと噛み締めていた。
瞳が、いっぱいに潤んでいた。
「……泣くな」
「……泣いてないです」
「目が光ってる」
「……光ってないです」
「……」
「……ちょっとだけ、光ってるかもしれないです」
「定食屋で泣くな。周りに迷惑だ」
「……はい。……でも、全部、湊くんのせいですよ」
「俺は何もしていない」
「来月もって言ったじゃないですか」
「……それの何が悪い」
「嬉しいじゃないですか」
俺は答えなかった。
代わりに、カウンターの上に置かれた冷たい麦茶を一気に煽った。
ちょうどその時、厨房から「お待たせしました」という声と共に、定食が運ばれてきた。
湯気を立てた山盛りの生姜焼きと、豆腐のみそ汁、つややかな白飯。質素だが、食欲をダイレクトに刺激する整った匂いがする。
「……食え」
「はい。……いただきます」
「ああ」
二人で、並んで定食を食べた。
余計な会話はなかった。だが、その沈黙はもう、朝のような息苦しいものではなかった。
昨日の朝と同じ無言でも、今日のそれは、確かな熱と信頼を持った、全然違う温度の沈黙だった。
甘辛いタレの絡んだ生姜焼きは、思ったよりずっと美味かった。
俺は、白飯をかき込みながら、今日一日のことをぼんやりと思い返していた。
電車の中で外を見ていた詩織の横顔。
三毛猫に触れた瞬間に震えた声。
混ざり合うクリームソーダの写真を撮っていた姿。
逃げられるのにここにいた、黒猫の背中の温かさ。
「湊くん、この生姜焼き美味しくないですか」
「……ああ。悪くない」
「ですよね。また来ましょうよ」
また。
俺はみそ汁を一口飲んで、小さく頷いた。
「……考えておく」
詩織が嬉しそうに笑って、また生姜焼きを口に運んだ。
窓の外、隣町の午後の光が、商店街のアスファルトに長く、柔らかな影を落としていた。
時計の針は動いている。
破滅へのカウントダウンは、止まらない。
それでも。
少なくとも今、この時間だけは。
誰にも奪わせないと、俺は決めた。




