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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第46話:未来への設計図

 夕闇が迫る街を、並んで歩く。

 スーパーのレジ袋も、日用品の詰まったエコバッグもない。買い物でも用事でもない。ただ、遊びに出かけて帰るだけの道のり。

 たったそれだけの行為が、足裏にはやけに重い現実として残っていた。


 沈みかけた西の太陽が、アスファルトの上に二つの長い影を落としている。

 斜め後ろを歩く詩織の足取りは、今朝のリビングでの強張りが嘘みたいに軽かった。微かに漏れる鼻歌。

 ――よりによって、あの消臭剤のCMソングだ。


 聞いた瞬間、防音室でエコー全開で歌い上げた自分の声が脳内で自動再生される。思わず吹き出しそうになるのを必死で飲み込んだ。

 唇を噛んで、表情筋を固定する。だが、歩くたびに隣から『シュッとひと吹き』と聞こえてきて、容赦なく自制心を削ってくる。


「……おい」

「はい?」

「……その歌はやめろ。思い出すだろ」

「あ、すみません。……でも、湊くんのビブラート、本当に面白くて……っ、ふふっ」


 思い出し笑いを堪えきれず、詩織が肩を震わせる。

 舌打ちをして顔を背けたが、耳の裏が熱くなっているのは自分でも分かった。

 不格好で、論理的価値なんて皆無の記憶。だが、その滑稽な時間だけが、俺たちの間に静かに残っていた。


 自宅の前に着く。

 鍵を回し、ドアを閉める。

 ガチャリ、という音が薄暗い玄関に響いた。


 これまでは「外の悪意と視線を遮断した」という、外界との境界線を引く合図だった。だが今の俺には、それが「俺たちだけの世界を密閉した」という、ひどく甘くて温かい響きに聞こえる。


 リビングの電気をつける。

 見慣れた家具、整頓されたテーブル、生活感の薄い空間。だが、そこに詩織がいるだけで、空気の密度がわずかに変わる。

 カーディガンを脱いでソファに投げ出し、短く息を吐いた。


「……夕飯、どうする」

「あ、作ります。昨日買っておいた鶏肉があるから、照り焼きでいいですか?」

「ああ。任せる」


 詩織がキッチンに立ち、エプロンをつける。蛇口から水が出る音、まな板でネギを刻む軽快な音がリビングに満ちていく。

 ソファに深く沈み込み、その音をBGMにして目を閉じた。


 今日の出来事が、静かに脳裏をよぎる。

 電車から外を見つめる彼女の目。三毛猫の体温に触れて震えた声。防音室で腹を抱えて笑い合った、あのどうしようもなく無駄で、どうしようもなく楽しかった時間。


 三年間、『何事も起きないこと』だけを最優先にして、感情を殺し、理屈の鎧を着込んで生き延びてきた。

 だが、もう戻れない。ただ息をするだけの無機質な生活には。

 この熱を、この笑い声を、この不器用な日常を、どうしようもなく「続けたい」と願ってしまっている。


 目を開けると、壁のカレンダーが視界に入った。

 黒い数字の羅列。


 十月十五日。

 ただ待つだけの日付ではない。

 そこへ至るまでに、必要な準備を洗い出す。

 生活。金。進学。誕生日。

 頭の中で、自然と工程表が組み上がっていく。


 *


 夕食が終わり、食器を片付けた後。

 リビングのテーブルに向かい合って座り、食後の温かいお茶を飲んでいた。

 湯気が白く立ち昇っては消えていく。テレビはつけていない。時計の秒針が刻む音だけが、やけに鮮明に聞こえた。


「……調査、お疲れ様でした」


 湯気の向こうから、詩織がクスッと笑う。


「ああ。ひどいデータが取れた。一般の高校生の生態からはほど遠い、エラー値だらけのサンプルだ」


 マグカップを両手で包み込みながら、少しだけ自嘲気味に返す。

 穏やかな時間だった。今日一日で、俺たちの間の境界線は、気づけば意味を失っていた。

 だからこそ、今、言わなければならない。

 お茶を一口飲んで喉を潤し、壁のカレンダーへと視線を移す。


「……十月十五日」


 低い声に、詩織の動きがピタリと止まった。

 彼女もまた、その日付が持つ意味の重さを誰よりも理解している。


「お前が、十八歳になる日だ」

「……はい」

「その日を迎えれば、お前は法的に成人として扱われる。契約も、生活も、全部自分で選べるようになる。誰もお前を強制的に連れ戻せなくなる」


 感情を交えない、事実だけの羅列。

 そうでもしなければ、口が勝手に本音を吐き出しそうだった。


「……そうなれば、お前は自由だ」

「……」

「俺の管理下から外れて、ここから出ていくことも、お前の選択肢に入る」


 言ってしまった。

 心臓が、肋骨を内側から殴りつけるように激しく脈打つ。

 彼女の目を見ることができず、陶器の底に視線を固定した。

 彼女が出ていく。その可能性を言葉にした瞬間、胃の奥が冷たく縮み上がる。

 だから、防衛本能に従って、口が勝手に姑息な言葉を紡ぎ出し始めた。


「……まあ、いくら自由になるといっても、高校生が一人ですぐに生活するのは現実的じゃない。資金も、保証人の当てもないからな」


 早口で並べ立てる。

 ……やっていることは、あの連中と変わらない。

 選ばせると言いながら、出ていけない理由を突きつけ、恐怖を煽って依存させようとしている。俺が忌み嫌っていた大人たちの「支配の論理」そのものだった。


「あくまで、理論上の話だ。俺は、お前に選択肢があるという事実を提示しただけで……」


「湊くん」


 静かな、けれど確かな芯を持った声が言い訳を遮った。

 恐る恐る顔を上げると、詩織はマグカップをテーブルに置き、真っ直ぐに俺を見ていた。

 その大きな瞳には、かつて顔色を窺っていた怯えも、萎縮も、一切ない。

 あるのはひどく穏やかで、俺の不器用な本質をすべて見透かしたような、深い透明な光だけだった。


「……湊くんは、私に、ここから出ていってほしいですか?」


 真っ向からの問いだった。

 息を呑む。理屈の盾が、たった一言で粉々に砕け散る。


「俺は……」


 喉がカラカラに乾いていた。


「俺は、そういうことは……一言も、言っていない」


 それが精一杯の白状だった。

 出ていってほしくない。そばにいてほしい。そんなストレートな言葉は捻じ曲がったプライドが許さなかったが、その否定の裏にある震えを、彼女はもう見抜いている。


 ふふっ、と小さく笑って。

 詩織は、テーブルの上の自分の手を、少しだけ俺の方へ滑らせた。


「……じゃあ。十八歳になっても、ここにいていいですか?」


 空気が、一瞬で詰まる。

 言葉が脳内で反響する。自由になる権利を得てもなお、彼女は俺の隣を選ぼうとしている。


「……」


 耳の裏が火傷しそうなほど熱くなるのを感じながら、震える声帯を必死に制御して、短く答えた。


「……ああ」


 だが、追撃はそれだけでは終わらなかった。

 さらに少しだけ身を乗り出し、下から覗き込むようにして彼女は言う。


「高校を卒業するまででも?」


「……ああ」


「ずっと、いっしょでも?」


 ドクン、と。

 血液が一気に沸騰する音がした。

 ずっと。

 その一言の重さに、ただ真っ直ぐに彼女の目を見て、答えた。


 俺は一度だけ目を閉じた。


「……当然だ」


 聞いた瞬間、詩織の口の端がたまらなく嬉しそうに、そして小悪魔のように弧を描いた。


「……言質、取りましたからね」


「っ……!」


 絶句した。

 言質。それは、俺がよく使っていた言葉だ。

 俺の土俵である『論理』を使って退路を完全に断ち切り、彼女は俺の「本音」を確定させた。


「……お前な」


 真っ赤にして睨みつけると、「あははっ」と声が上がる。

 不器用な予防線も、必死の強がりも、すべて丸見えだ。

 その上で、彼女は自ら俺の隣を選び取ってくれた。

 この最高に厄介で愛おしい共犯者に、俺は完全に敗北した。そしてその敗北は、これまでの人生の中で、どうしようもなく心地よかった。


「……お茶、冷めるぞ。早く飲め」


「はいっ。……湊くん、顔赤いですよ?」


「うるさい。部屋の温度が高いだけだ」


 マグカップを煽り、残っていたお茶を一気に胃袋へ流し込む。

 火照った顔を隠すように立ち上がり、逃げるように自室へと向かった。背後から聞こえるくすくすという笑い声が、いつまでも背中を追いかけてきた。


 *


 バタン、と自室のドアを閉め、そのままベッドに倒れ込んだ。

 仰向けになって天井を睨みつける。

 心臓がまだうるさい。耳の奥で、血液が流れる音がする。


『ずっといっしょでも?』

『言質、取りましたからね』


 言葉のフラッシュバックが、理性を何度も焼き切ろうとする。

 顔を手で覆い、ベッドの上で身をよじった。

 格好悪い。無様すぎる。十八歳になる女子高生に、完全に手玉に取られている。


 だが。

 覆った手のひらの下で、どうしようもなく笑っていた。

 彼女が、俺を選んだ。

 ならば、やるべきことはただ一つだ。


 跳ね起き、デスクに向かってパソコンの電源を入れる。

 暗い部屋の中、モニターの青白い光が顔を照らした。

 キーボードに指を置き、深く息を吸い込む。


 今まで、自分の生存確率を上げるためだけに持っている頭の全部を使ってきた。

 だがこれからは違う。

 あの『十月十五日』を、彼女の人生の中で最高の日にするためにリソースを注ぎ込む。それが、俺のやるべきことだ。


 ブラウザの検索窓に、無駄に回る指で文字を打ち込んだ。


『高校生 誕生日 プレゼント 予算 何をしたら喜ぶ』

『検索結果:約2,340万件』


「多すぎる」


 エンターキーを叩く。

 一秒足らずで、無数の検索結果が表示される。


「……なんだこれは」


 並ぶ記事のタイトルを見て、眉間を深く寄せた。


『絶対泣かせる! 彼氏からのサプライズ・フラッシュモブ!』

『夜景の見える高級フレンチで、憧れのブランドネックレスをプレゼント♡』

『テーマパークのホテル貸し切り! リムジン送迎プラン!』


「……狂っているのか、世間は」


 思わず画面に向かって毒づいた。

 フラッシュモブ。不特定多数の人間を巻き込む、最悪の自己満足だ。

 高級フレンチ。予算の無駄。あいつは今日、定食屋の八百円の生姜焼きで最高に幸せそうな顔をしていた。

 リムジン送迎。身を隠すという大前提を根本から否定している。


「……参考にならん。ノイズだらけだ」


 舌打ちをして、検索ワードを変更する。


『女子高生 18歳 誕生日 ささやか 安全 感動』

『プレゼント 実用的 女子受け リスク低い』


 出てくるのは『おしゃれなカフェでのケーキプレート』や『少し高価なボールペンやパスケース』といった無難な情報。

 悪くはない。だが、決定打に欠ける。

 腕を組み、モニターを睨みつけながら深く考え込んだ。


 詩織は、何を欲しがっている?

 ずっと一人で、狭くて暗い世界で生きてきた。

 今日、カラオケでメロンソーダを飲んで、ポンコツな歌を歌って、あれだけ笑っていた。

 彼女が欲しいのは、金で買えるような豪華なサプライズや、ブランド物のバッグじゃない。


 ふと、ドアの向こうから微かな物音が聞こえた。

 明日の朝食の準備をしている音。あるいは、戸締りを確認している音。

 その音だけで、もう十分だった。


 そうだ。

 彼女が求めているのは、俺と一緒にいる、この「なんでもない日常」だ。

 大人の目を気にせず、殴られる心配もなく、明日食べるものに困ることもなく。ただ今日みたいにくだらないことで腹を抱えて笑い合える、安全で少しだけ温かい時間。


 俺にできるのは、明日も同じようにここで笑うことくらいだ。

 あとは、テーブルの真ん中に小さな丸いケーキを置き、いくつか蝋燭に火を灯し、息を吸い込ませる。ずっと知らなかったものを、少しだけそこに置いてやるだけでいい。


「……あと二ヶ月、か」


 モニターの光から目を逸らし、暗い部屋の天井を見上げた。

 やるべきことは山積みだ。

 誕生日の具体的なプランの立案。プレゼントの選定と調達。

 彼女が『ずっといっしょでも?』と聞いた時、俺は『当然だ』と答えた。

 言質を取られた以上、俺にはこの無知でポンコツな日常を、最高の形で更新し続ける義務がある。


「……忙しくなるな」


 口から出た言葉は文句のようだったが、口の端は、どうしようもなく上がっていた。


 時計の針が進む音がする。

 十月十五日。

 ただの逃走のゴールは、今、俺の手によって「希望への設計図」へと書き換えられた。

 再びキーボードに手を伸ばし、今度は少しだけ柔らかなタイピングで新しい検索ワードを打ち込む。


『美味しいケーキ屋 隣町 予約』


 画面に無数に映し出される、色鮮やかなケーキの画像。

 一つの小さなホールケーキにカーソルを合わせる。


 未来は、まだ白紙だ。


 だからこそ、これから自分で描けばいい。


 俺は静かにクリックした。


 未来への設計図、その最初の一行を書き始めるように。

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