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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第41話:砂糖とカウントダウン

 夕暮れのスーパーマーケットは、不特定多数の『日常』が密集する場所だ――今の俺にとっては。


 入り口の自動ドアを抜けた瞬間、人の視線と油の匂い、無数の生活音がまとめて押し寄せてくる。夕飯時の店内は、人の流れが途切れることなくぶつかり合っていた。

 これまでの俺には、ただの補給地点だった。事前に完璧な動線を頭に叩き込み、誰とも視線を合わせず、誰の記憶にも残らないように立ち回る。


 だが今は、違う。

 俺の斜め後ろ、周囲の視線を避けるようにして、詩織がついてきている。

「二人でスーパーに買い出しに行く」。ただそれだけのことですら、今の俺たちにとっては、一歩踏み外せば終わる綱渡りだった。


 昼休みの教室で、自分の手で台無しにした、これまでの平穏。

『……今日は、二人で詰めたんだ』

 あの不用意な一言が、クラスの中に「同居疑惑」という猛毒を撒き散らした。そして、それを静かに観測していた担任の、冷たい、切り分けるような目。


 あの目に見られた時点で、俺たちの「一時的な身元サポート」という建前は崩れかけている。

 もし今、ここで顔見知りに遭遇し「一緒にお買い物?」と声をかけられれば、どんな言い訳も通用しない。夕暮れ時に同じカゴへ明日の食パンを入れ、並んで歩く高校生の男女。それはどう取り繕っても、同じ屋根の下に帰る『同居』の証拠だった。


 その時だった。

 遠くの野菜コーナーの通路を、見覚えのある紺色の布地が横切った。

 うちの高校の、指定ジャージだ。


 ドクン、と心臓がひどく不快な音を立てて跳ね上がった。

 誰かは分からない。気のせいかもしれない。だが「バレる可能性が現実にそこに存在している」という事実だけで、喉の奥がカラカラに乾き、冷や汗がにじむ。


「……湊くん、あの」


 背後から、詩織の不安そうな声が小さくかかった。

 俺の足が一瞬、止まりかける。本当なら、振り返って「大丈夫だ」と言ってやりたい。

 だが――。


「喋るな」


 俺は振り返ることなく、喉から絞り出すような低い声で遮った。

 詩織は弾かれたように口を噤んだ。そして俺の背中を見つめたまま、小刻みに歩幅を合わせてついてくる。その健気な足音が、今の俺には重く、痛かった。


 俺は陳列棚の角を曲がるたびに、神経を針のように尖らせて周囲を索敵した。カートを押す主婦の視線すら、咎めに見えた。

 息が詰まる。早く、早くこの場所から抜け出さなければ。


 視界の端に、プラスチック容器に入ったショートケーキが二つ、投げ出されるように並んでいた。

 そこで、足が止まった。

 ――こんなものを、買っている場合じゃない。

 分かっている。なのに、気づけば俺は、その二つをひったくるように掴んでカゴの中に落としていた。


 レジでの会計を終え、逃げるようにスーパーを出る。

 外はすでに、濃い群青色の夕闇に包まれていた。街灯とヘッドライトが、俺たちの影を長く引き延ばしては消していく。

 帰り道、俺たちは一言も言葉を交わさなかった。スーパーのビニール袋が、俺の太ももに当たるたびに、ガサ、ガサと耳障りな音を立てる。その音だけが、二人の間の不気味な静寂を際立たせていた。


 ガチャリ、と重い金属音を立てて、自宅の玄関の鍵を閉める。

 チェーンをかけ、内鍵のつまみを回した瞬間、強張っていた全身の筋肉がどっと弛緩し、俺はドアに背中を預けて深く息を吐き出した。

 外の音が、分厚い扉の向こうに沈む。だが、この平穏がいつまで続くのか、もはや誰にも分からない。


 靴を脱ぎ、リビングへと向かう。スーパーのビニール袋が擦れる安っぽい音が、静かなダイニングに響く。

 買ってきたのは、明日の朝食用の食パンと、牛乳、そして――普段はあまり買わないショートケーキが二つ。


「……お茶、淹れますね」


 詩織は少し弾んだ声でそう言うと、小さな背中を向けてケトルに火をかけた。

 蛍光灯の下、シュンシュンと湯気が柔らかく立ち上る。彼女の横顔は、今日学校で起きたあの致命的な「失策」や、スーパーでの息詰まるような緊張など、すべて忘れてしまったかのように穏やかだった。

 彼女にとって、この家は、外の悪意が届かない場所だった。俺が、そう信じ込ませてきた。


 その無防備さが、今の俺には、鋭利な刃を喉元に突きつけられているよりも恐ろしかった。

 俺は、テーブルの上に置かれたカレンダーを一瞥し、目の前のケーキに視線を落とした。

 イチゴの乗った、小さなショートケーキ。

 さっきまでただの甘いものだったそれが――今の俺には、時限爆弾のタイマーのようにしか見えなかった。


「……詩織。少しいいか」


 不意に呼んだ名前に、彼女の肩が小さく跳ねた。

 ケトルを置く音が、やけに大きく響く。彼女は驚いたように、けれどどこか嬉しそうに目を細めて、ゆっくりと俺の正面に座った。


「はい。……湊くん」


 俺は、出されたマグカップに口をつけることなく、プラスチックのフォークでスポンジの端を切り崩しながら、喉に詰まった鉛のような言葉を吐き出した。


「今日、学校で取り返しのつかないミスをした。俺たちの『更生』という建前は、今日、俺自身の手で壊した。佐藤の言葉をきっかけに、クラスの中には確実に『同居』という名の異物が投げ込まれた」


 詩織のフォークが、空中でピタリと止まる。彼女の瞳孔が微かに揺れ、楽しげだった空気が一瞬にして凍りついた。


「いいか。俺たちは今日、安全圏から完全に足を踏み外したんだ。本当の同居を知っているのは、矢島だけだ。崩れれば――真っ先に責任を問われるのは、あの人だ。未成年の俺が一人で暮らすことを認め、書類を整えてくれた、あの人が。」


 冷酷な事実だけを、羅列していく。

 詩織の顔から血の気が引いていくのが分かった。だが、ここで俺が言葉を濁せば、彼女を本当に守ることはできない。俺は、テーブルの端に置かれたカレンダーを引き寄せ、ある日付のマスを指の腹で強く叩いた。


「……十月十五日。お前の、十八歳の誕生日だ」


 詩織が、息を呑む。


「ここがゴールだ。十八になれば……いや、正確にはその日を過ぎれば、だ。お前はもう、どこにいるかを他人に決められなくなる。親権や他人の管理下から外れて、居場所を自分で選べる権利が手に入るんだ。……そこまで逃げ切れば、俺たちの勝ちだ」


 十月十五日の午前零時。そこまで耐えれば、詩織は誰かに連れていかれる存在じゃなくなる。自分の意志で、ここにいると決められる。だから俺は、それまでを守る。たった数ヶ月。それだけの時間を、間違えずに乗り切ればいい。


 俺は一度言葉を切り、震えそうになる指先を机の下で固く握った。自分の体温が、嫌に高く感じられた。


「……今まで、お前をロボットみたいに管理して、感情よりも安全だけを優先する接し方をしてきたのは……全部、これが理由だ。お前に自由を与えれば、お前は『普通』に笑う。そうすれば、周囲に隙を見せることになる」


 俺は、彼女の目を見て、逃げずに言葉を続けた。


「お前を閉じ込めた。感情を殺させた……。偽物で塗り固めておけば守れると、本気で思っていたんだ。

 ……お前の心がどれだけ削れていたか、気づきもしなかった。

 全部、上手くいっていると信じ込んでいた。自分の理屈が正しいと、ただ盲信していたんだ。

 ……俺は、お前の尊厳なんて見ていなかった。ただ……この家での『生存』という、冷たい結果だけを数えていたんだ」


 言い終えると、部屋が耳鳴りがするほどの静寂に包まれた。

 壁掛け時計の針が刻む音だけが、不気味に強調される。カチ、カチという音が、十月十五日までの残された時間を無慈悲に削り取っていくように聞こえた。


 詩織は、俯いたままじっと俺の言葉を聞いていた。

 彼女の膝の上で、小さな両手がぎゅっと握りしめられている。俺は、彼女からどんな罵倒を投げつけられても、それを受け止める覚悟を決めていた。


 やがて、彼女はゆっくりと顔を上げると、震える手で自分のケーキにフォークを刺した。

 そして、静かに、口を開いた。


「……湊くん。私、ちゃんとやります。明日から学校では……えっと、絶対に距離を取ります。一言も喋りません。見ないし、近づかないし……絶対に、バレないようにします。そうすれば、ずっと一緒にいられますよね? だから……」


 詩織は、泣き出しそうなのを無理やり抑え込んだ、歪な笑顔を俺に向けた。


「だから……私、あの……」


 一瞬だけ、言葉が途切れた。

 彼女の瞳の奥で、微かに恐れと、何か別の仄暗い感情が揺れたのが見えた。だが、それはすぐに笑顔で塗り潰された。


「……大丈夫です。すごく、幸せです。湊くんが、私と一緒にいるために、そんなに苦しんで……私のために、鬼になってくれてたんだって、わかったから。私、平気です」


 ――違う。

 俺の胸の奥で、警報がけたたましく鳴り響いていた。


 俺は「失敗すればすべてが終わる」という破滅の恐怖を語ったはずだった。俺がいかに傲慢で、お前の心を壊す最低の人間であるかを告白したはずだった。だが、彼女の耳には「十月十五日まで耐えれば、ずっと一緒にいられる」という、甘い約束にしか聞こえていない。俺の罪悪感すらも、彼女は「自分を守るための愛情」として、その胸の奥底で肯定してしまったのだ。


 俺は未来のリスクを見ていて、彼女は現在の体温しか見ていない。

 生存戦略としては、もはや致命的なズレだ。俺が提示した過酷なルールを、彼女は「愛の証」として受け取ってしまった。それは――一番壊れやすい形だった。


「……そうか」


 一度はそう口にしたが、すぐに思い直す。

 明日から、赤の他人のように振る舞う?

 昨日まで弁当の話をしていた二人が、ある日突然、視線すら合わせなくなる。そんなことが「普通」の高校生にあり得るか。

 そんな極端な拒絶は、周囲に『俺たちは特別で、隠さなければならない事情がある』と喧伝するようなものだ。


 学校側に求められているのは「健全な支援関係」であり、不自然な空白ではない。

 詩織の真っ直ぐな、けれど危うい目を見据えて、俺は言葉を絞り出した。


「待て。……完全に無視するのはダメだ」


 詩織が、不思議そうに首を傾げる。


「急に他人になれば、かえって目立つ。……『不自然』なのが一番不自然なんだ。昨日までのように接しろ。ただし、一線は引け。恋人でも、同居人でもなく……ただの、少し仲の良いクラスメイトとして振る舞うんだ」


「適度に仲良く、でも踏み込みすぎない。……うまく誤魔化せ。できるか?」


 そんな高度なバランスを、この張り詰めた感情を抱えた今の彼女に求めるのは、残酷すぎる。分かっている。だが、今の俺たちにはその針の穴を通るような偽装しか残されていない。


 詩織は一瞬、戸惑ったように瞬きをしたが、すぐに深く頷いた。


「……わかりました。頑張ります、湊くん。私、上手にやりますから」


 上手に、という言葉が不吉な予感として胸に刺さる。

 俺が提示した生存戦略は、出した瞬間に破綻していた。

 近づけば同棲を疑われ、離れればその不自然さで自壊する。


 冷蔵庫の駆動音だけが、逃げ場のない二人の沈黙を埋めていた。


 残ったケーキを口に運ぶ。

 生クリームのひどくチープな甘さが、舌の上にべったりと張り付いて、いつまでも消えなかった。

 スーパーで見つけたときは、少しの救いになるかと思ったこのショートケーキが、今はただ、喉を塞ぐ泥のように重かった。


 生き残るための、唯一の最適解を提示したはずだ。

 だが、一番危険なのは、外部の監視でも、担任の疑念でもない。


 破滅の足音にすら幸福を見出してしまう、この「関係性」そのものだ。


 俺の舌には、ひどくチープな生クリームの甘さが、べったりと張り付いて消えない。

 壁掛け時計の針が、夜の静寂とともに、確実に時間を削り取っていく。

 俺たちは今日、終わりの始まりを、あのケーキで分け合った。


 口に残るこの甘さは――明日ひとつで、消えるには遅すぎた。

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