第40話:思考と心音
月曜日、朝。
玄関の扉を開けた瞬間、夏の匂いが混じった五月の風が、遠慮なしに肺の奥まで入り込んできた。
世界は、いつの間にか春を脱ぎ捨てようとしていた。
庭先の生垣からは名前も知らない虫の鳴き声が聞こえ、アスファルトの上では、陽炎がかすかに景色を歪ませている。
俺はいつものように、三歩先を歩こうとして――。
不自然に、コンクリートの上で足を止めた。
これまでは、彼女の歩く速さを測り、周囲の視線から遮断するための「最も正しい位置」が、反射みたいに体に染み付いていた。三歩前、斜め右。考える前に体が動くレベルで、そこが詩織の怯えを最小化し、俺の管理を最大化する聖域だと信じ切っていたんだ。
だけど今は、その位置取りが、霧に包まれたみたいにどこにも見当たらない。
最適解が見えない。その一歩を間違えれば、親が遺したこの家で、二人静かに暮らすために積み上げてきた平穏も、大人たちへの欺瞞もすべてが瓦解する。そんな、足元から冷気が這い上がってくるような不安だけが、妙に生々しく残っていた。
「…………」
「…………」
並んで歩き出して、わずか五十メートル。俺たちの間には、これまでの「静かな朝」とは似ても似つかない、ひどく居心地の悪い沈黙が居座っていた。一分一秒が、泥の中に沈んでいくみたいに重い。
「……なあ」
「……はい」
呼びかけて、また言葉が詰まる。喉の奥まで出かかった言葉を、一つ一つ、今の自分のナマの感情で測り直そうとすると、頭の中が熱くなって、処理が追いつかない。
「……詩織は、前は『脳みそ』を使ってなかったんだな」
絞り出すように出たのは、自分でも驚くほど身も蓋もない暴言だった。詩織が弾かれたように足を止め、膨らんだ頬をさらに強調しながら俺を睨みつけた。
「……湊くん。それ、今のなし。やり直しです」
震える声でそう告げると、彼女は俺の目の前に仁王立ちになった。陽光を浴びて上気した彼女の顔には、かつてのような「捨てられる恐怖」は微塵もなかった。代わりにあったのは、純粋な、一人の人間としての怒りだ。
「ひどいです。私、湊くんの言うことを一文字も聞き逃さないように、あんなに一生懸命だったのに。朝起きる時間も、食べる順番も、お皿の並べ方まで……。それを『脳みそを使ってなかった』なんて、あんまりです」
「……言葉が悪かった。訂正する」
俺は視線を泳がせ、住宅街の生垣の隙間に逃げ場を求めた。心臓が、さっきからドクドクと不規則な音を立てていて、ひどく落ち着かない。
「前のお前は……俺の決めた『正解』を、ただなぞってただけだ。それは自分で考えてる感じじゃなかったし、俺がそう仕向けていたんだ。そして、俺も同じだ。お前を『守らなきゃいけない対象』としてしか見てなくて、あらかじめ用意してた台詞を喋ってただけだ。……俺たち、どっちも……ちゃんと相手を見てなかった」
「……湊くん……」
「……でも、今は違う。お前が今何を感じて、俺の言葉にどう反応するか。それを一々、自分の頭で、ナマの感情で測ろうとすると……どうすればいいか、さっぱり分からなくなる。難しいな。マニュアルなしの会話って、こんなに疲れるものだったんだな」
情けない告白。これまで俺が「非効率」だと切り捨ててきた、答えのないやり取り。だが、それを口にした瞬間、胸のつかえが少しだけ取れたような気がした。詩織は毒気を抜かれたように、ふっと肩の力を抜いた。そして、まだぎこちない手つきで、俺のブレザーの袖口を、ほんの一瞬だけ指先で弾いた。
「……ふふ。……私も、同じです。頭が熱くて、パンクしそう。……でも、いいですね。何も考えないで息をするより、湊くんの言葉を一生懸命考える方が……私、生きてる感じがします」
「…………」
――なんだ、それ。俺の心臓が、また勝手に跳ねた。
校門をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。
「あ、阿久津だ。今日も冬馬さんと一緒か」
「さすがだよな。あんな事件の後でも、完璧に守りきってる感じがするわ」
ヒソヒソという声が、耳にまとわりつく。
学校には「一時的な身元サポート」としか伝えていない。同居の実態までは――伏せてある。
あくまで「行き過ぎた世話焼き」という建前の上で、彼らの目には、俺は以前と同じ、迷いのない「完璧な管理者」に映っているのだろう。
下駄箱の前。彼女が一人で廊下へ踏み出す背中を見る。以前なら即座に介入し、視線を遮る壁になったはずだ。だが今の俺は、その介入が彼女の意志を削ぐことを恐れ、踏み出せない。管理不能な状態。それがこれほどまでに心細いものだとは。俺は自分の上履きを履く手が少しだけ震えるのを、必死に隠した。
昼休み。俺は、今朝二人で作った「少し歪な弁当」を机に広げた。
「お、阿久津! おはよう。冬馬さんも、なんか今日、顔色いいじゃん。お前の『徹底した栄養管理』が効いてる証拠だな!」
後ろの席の佐藤が、いつもの調子で覗き込んでくる。
これまでの俺なら、ここで「当然だ。メニューの構成は俺がすべて掌握している」と返し、周囲に『管理する側と、される側』という偽装を上塗りしていたはずだ。それが、この生活を守るための唯一の防衛策だったから。
だが。
「……今日は、二人で詰めたんだ。中身の味付けも、こいつがした」
――言った瞬間に、背筋を凍りつくような悪寒が走った。
心拍が、不快な速度で跳ねる。
……バカか、俺は。
俺が一方的に管理し、彼女がそれに従う。その「主従」の建前だけが、大人たちの目を塞ぐ唯一の盾だったのに。
――それを、自分で壊した。
「え……? 二人で詰めた?」
佐藤の動きが、ピタリと止まった。
「……ちょっと待て、阿久津。お前、いつも完璧に作ってきた弁当を……今日は一緒に詰めた? まさかお前ら……朝から一緒に準備してんのか?」
佐藤の無邪気な、だが決定的な一言が、周囲へと波及していく。
笑い声が、一瞬で止まった。
次に聞こえてきたのは、押し殺したような小さな声だった。
――誰も、笑っていなかった。
バレれば終わる。本当の同居を知っているのは、矢島だけだ。崩れれば――最初に責任を問われるのも、あの人だ。
担任が動き、学校が介入すれば、俺が死守してきたこの家での生活は一瞬で解体されるだろう。
脳内で警報が鳴り響く中、俺は周囲の突き刺さるような視線を正面から受け止め、努めて平坦な、かつての『冷徹な管理者』のトーンを引っ張り出した。
「……下衆な勘繰りをするな。俺が彼女の生活態度をどこまで管理し、指導の領域を広げているか、お前たちに一々報告する義務はない」
「い、いや、別にそこまで言ってねえけど……」
「なら口を慎め。無駄な詮索だ。散れ」
氷のような声での、強引なシャットアウト。
以前の俺なら、誰もがその「鉄の規律」に圧倒されて引いていただろう。だが、今の言葉は、自分でも反吐が出るほど薄っぺらく、空虚だった。
誤魔化しきれていない。強圧的な態度は、かえって「図星だからムキになっている」という疑惑の種を、クラスの中に確実に蒔いてしまった。
今、俺が保身のためにこれ以上「彼女の意志」を否定するような言葉を重ねれば、彼女を再び「空っぽな人形」に引き摺り戻すことになる。
……言い直せ。まだ間に合う。
「ただの家事手伝いだ」とでも嘘を重ねれば、全部守れる。
それでも――口は動かなかった。
俺は、まだ何か言いたげな佐藤たちをあえて無視し、隣で不安そうに俯きかけた詩織の目の前で、あの不揃いな卵焼きを口に運んだ。
理屈が、完全に感情に敗北した瞬間だった。
「……不味いな。やっぱり」
「……でも、私の味、ですよね。湊くん」
「……ああ。お前の味だな」
俺がそう呟くと、隣の詩織がくすくすと笑った。その危うい熱が、今はどんな「正解」よりも俺の心臓を動かしていた。
――ふと、教室の後ろ扉のガラス越しに、担任が立っているのが見えた。
ただ廊下を通りかかっただけ――そのはずだ。
だが、その足は止まっている。視線は、俺と詩織の間に置かれた、あの不格好な弁当を真っ直ぐに射抜いていた。
ほんの数秒。
だが、その視線は「通りすがり」じゃない。生徒の他愛ない日常を眺めるような、評価でも、興味でもない。
――あれは、平穏に混じった異物を、切り分ける目だ。
やがて担任は、何事もなかったかのように歩き去っていく。
……遅かった。
俺の奥底で、冷え切った本能が明確にそう判断していた。
「……どうした? 阿久津」
「……いや、なんでもない」
答えながら、箸を持つ指先に、わずかな力が入った。見られた。さっきまで口の中に残っていた甘さが、急に鉄のような冷たさに変わった気がした。
放課後。図書委員の仕事があるという詩織を待つため、俺は廊下の窓際で立ち尽くしていた。沈んでいく夕日が、廊下をオレンジ色に染め上げている。
「……あんた、今日ちょっと隙があるわよ。阿久津くん」
不意に背後からかけられた声。春奈奈々だ。
「……春奈か」
「以前のあんたは、誰にも触れさせない『無臭の石ころ』だったのにね。
今は違う。冬馬さんの一言で顔に出るし、考えすぎて動けなくなる。……あんた、本当に分かりやすくなったわよ」
春奈は手すりに背中を預けて、俺の横顔を覗き込んできた。そして、夕日に目を細めながら、刺すような低音で続けた。
「……最近、担任、あんた達のことやけに見てるわよ。気づいてないの、あんただけじゃない? 噂なんて、広がるのは一瞬よ」
外部視点からの、容赦のない事実。
「今のあんた、すごく『17歳』って感じがするわよ。……完璧なヒーローごっこよりはマシだけど、覚悟しておきなさいよ。……ほらね。あんたが気付く前に、もう向こうは動き出してるわよ」
彼女はそう言って、ひらひらと手を振って、去っていった。
校門を出る。帰り道、夕焼けがアスファルトを長く伸ばしている。
俺たちは、また並んで歩き出した。肩が触れそうな距離で、お互いの歩調を確かめ合いながら。
「……なあ、詩織。明日も、また、考えよう」
「……はい。一緒に、パンクしましょう。……何度でも」
俺が今日選んだのは、安全な「偽装」ではなく、危うい「真実」だった。
その代償が、俺たちが最も守りたかった「平穏」を奪うことになるとしても、それでも、二人で迷うことを決めたんだ。
檻の鍵の在処なんて、もう思い出せない。
俺たちはただ、隣り合う肩の熱さと、少しだけ不器用な歩幅のままで、夕闇の向こうへ一歩を踏み出す。
空は、夕焼けに染まって、どこまでも広かった。
俺たちが自ら選び取ったその自由は――美しすぎて、無防備だった。




