第39話:不確かな献立
窓の外からは、夏の匂いが混じった風が、容赦なく吹き込んでくる。
庭先に植えられた街路樹の緑は、暴力的なまでにその色を濃くし、昼下がりへと向かうアスファルトの上では、逃げ水のような陽炎がゆらゆらと揺れていた。
世界は、俺のことなんてお構いなしに、勝手にどんどん進んでいく。
なのに、この四畳半のリビングの空気だけは、昨夜からずっと、泥のように重く止まったままだ。
俺はキッチンで、ただ突っ立っていた。
指先が、さっきから微かに震えて止まらない。
深呼吸をしても、肺の奥が妙に熱くて、酸素がうまく入ってこない感覚。
白湯の温度。味噌汁の具材。トーストを焼く時間。
これまでなら、迷うことなく決められていたはずの「いつもの朝」が、今はひどく遠いものに感じられた。
いや、見ようとするたびに、罪悪感が首を絞めてくる。
……何も、決められない。
これまで俺は、ここを自分の「司令部」だと思ってた。
詩織を管理して、守って、外からの刺激をすべて遮断して、完璧な毎日を組み立てるための、完璧な場所。
だけど今は、ただの狭くて、少し水垢のついたキッチンだ。
隣に並んでいる詩織は、俺の指示を待つだけの人形じゃない。
何をしていいか分からず、手持ち無沙汰に指を絡ませ、落ち着かなげに重心を入れ替えている、一人の女の子。
沈黙。
換気扇の回るゴーッという音だけが、耳元でやけにデカく響く。
「……あの、湊くん」
「……ああ。……なんだ」
呼びかけに応じる。それだけで、言葉が詰まった。
次、なんて言えばいい?
おはよう? お腹空いたか?
……ダメだ。何を言っても、またあいつを縛る「命令」になりそうで、怖い。
俺の言葉ひとつで、こいつがまた自分を消して「正解」を演じ始めるんじゃないかと思うと、指先まで凍りつきそうになる。
「……ええと。……何か、手伝いましょうか」
「……そうだな。……いや、でも、何を作るか、俺もまだ決めてなくて」
包丁を握る手が、嫌な汗で滑りそうになる。
詩織も、冷蔵庫の前でオドオドしたまま、取っ手に手をかけた状態でフリーズしていた。
視線が、ふと重なる。
火傷しそうなほどの熱量。
俺たちは弾かれたように、真逆に顔を背けた。
俺は意味もなく蛇口をひねって水を出し、詩織はさっきから十回くらいエプロンの裾を直している。
なんだこれ。
これまで過ごしてきた時間が嘘みたいに、この家が、急に見知らぬ他人の家みたいに思えてくる。
「……なあ」
「……はい」
乾ききった喉を無理やり鳴らして、俺は声を絞り出した。
「……俺たち、変だな」
戦略も、計算も、気の利いたレトリックも何もない。
ただの、マヌケで情けない現状報告。
詩織は一瞬、きょとんとして俺を見た。
それから。
ぷっ、と、こらえきれないみたいに噴き出した。
「……ふふっ。……はい。……本当に、変です。……湊くん、さっきから、水、出しっぱなしですよ」
「……っ。あ」
慌てて蛇口を閉めると、詩織は肩を揺らして、もっと楽しそうに笑った。
その笑い声は、これまで俺が聞き慣れていた「穏やかな微笑」とは、明らかに違っていた。
「……ずっと一緒にいたはずなのに。まるで今日、初めて会った人たちみたい。どうしていいか分からなくて、オロオロして……」
「……笑うな。俺だって、こんなに喋るのが難しいなんて思わなかったんだよ」
格好悪い。最悪だ。
マニュアルを捨てた瞬間、化けの皮が剥がれた気がした。
俺は詩織を導けるほど完璧な人間じゃない。
ただ、必死に正解を探していただけの、どうしようもない十七歳だった。
だけど、耳が熱くなるのを感じながら、俺は少しだけ息がしやすくなった。
胸のつかえが、少しだけ、冷たい水で流されたような感覚。
「……マニュアル、ないからな。次に何て言えばいいか、どこにも書いてない」
「……はい。私も、何て答えるのが『正解』か、分からなくて。……でも」
詩織が、少しだけ顔を赤らめて俺を見た。
「……今の『変だな』っていう湊くんの言葉……今までで一番、普通で、好きです」
ドクン、と心臓が跳ねた。
理屈の殻を脱ぎ捨てた後に残ったのは、剥き出しの、俺の本心だけだった。
「……分からないんだ。マニュアルなんて、もうどこにもない。お前に何て言えばいいのか、明日をどう過ごせばいいのか。……正直、真っ白で、何も分からない」
換気扇の音。風で揺れるカーテンの音。
俺は、隣にいる少女を、逃げずに真っ直ぐに見つめた。
「……でも。お前の笑顔が見たい。理由も、根拠も、方法も、何も分からないけど。……ただ、笑ってほしい。……そう思った。それだけなんだ」
不格好な、ただの祈り。
詩織は、まな板の上の玉ねぎを見つめたまま、動かなくなった。
やがて、彼女はゆっくりと包丁を置いて、濡れた手をタオルで拭いた。
顔を上げた彼女の瞳は、少しだけ潤んでいて。
だけど、唇は拗ねたように尖っていた。
「…………湊くん、ずるいです」
聞いたこともない、拒絶の響き。
困惑と、不満と、隠しきれない愛おしさが混ざった、熱い拒絶。
「……そんなこと言われたら、私、またどうすればいいか分からなくなります。笑顔って、頑張って作るものじゃないですよね。……でも、笑いたくなっちゃうじゃないですか。卑怯ですよ、湊くん」
「……卑怯か」
「はい。ものすごく。……管理してるときより、ずっと、タチが悪いです」
これまでの俺の言葉は、彼女を制御するための「鍵」だった。
でも、今の言葉は鍵ですらない。ただ自分の弱さをさらけ出して、相手の懐に無防備に転がり込んでいく、文字通りの「不器用な叫び」だ。
詩織はそう言って、笑いを堪えるような、変な顔で俺を睨みつけた。
結局、出来上がった朝食は、さんざんだった。
俺の焼いたパンは真っ黒に焦げて、詩織が作ったスクランブルエッグは、砂糖と塩を間違えたせいで妙に甘ったるい。
俺は、フォークでその「失敗作」を口に運んだ。
「…………」
「…………どう、ですか」
「……不味い」
俺が正直に言うと、詩織は今度こそ爆笑した。
「あはは……! ですよね。お砂糖、間違えちゃったし……玉ねぎ、辛いし……」
「……焦げたパンも、苦いぞ。最悪の朝飯だ」
俺も、つられて笑っていた。
味は最悪だったけど、胸の奥に詰まっていた重苦しさが、笑い声と一緒に消えていくのが分かった。
「……湊くん」
「なんだ」
「……明日も、一緒に作りましょう」
焦げたパンの苦さを飲み込んで、俺は答える。
「……ああ。……そうだな。明日、考えよう」
キッチンのヤカンが、シュンシュンと鳴っている。
俺は、彼女の冷たい手に、そっと指を絡めた。
まだ、少しだけ震えている指先。
シンクで皿を洗う。
横に並んで、一人は皿を洗い、一人はそれを拭く。
これまでなら俺一人で五分で終わっていた作業が、二倍以上の時間がかかっている。
効率は最悪。全くの無駄。
だけど、隣から伝わってくる詩織の体温が。
カチャカチャと鳴る皿の音が。
どうしようもなく、俺の鼓動を速めていた。
「……今日、何か予定はありますか?」
「……いや。何もない」
「……そうですか」
「……何か、したいことはあるか?」
詩織は、少しだけ首を傾けた。
「……分かりません。何がしたいか、まだ、自分でも分からなくて。……でも、湊くんと一緒にいられるなら、何もしなくても、いい気がします」
皿を拭く手を止めて、俺は深く息を吐いた。
「……そうだな。俺も、同じだ」
窓から差し込む光が、跳ねた水しぶきをキラキラ反射させていた。
不味い卵料理と、焦げたパンの匂い。
俺はふと、何か大事なことを忘れているような感覚になった。
檻の鍵。管理。将来。
……まあ、いいか。今は。
喉元まで出かかった理屈を、俺はそのまま飲み込んだ。
皿を拭く自分の手のひらの、不器用な熱さだけを、今は信じていたかった。
檻の鍵の在処なんて、もう誰も思い出していなかった。
――片付けを終えた後、俺たちは特に何をするでもなく、リビングのソファに腰を下ろした。
テレビをつける気にもなれず、ただ開け放った窓から聞こえる、遠くの車の走行音や、鳥のさえずりを聞いていた。
沈黙。
けれど、さっきまでキッチンで感じていた「気まずさ」とは、また少し違う。
それは、お互いの存在を確かめ合うような、静かな時間。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「……空、すごく青いです」
詩織が、窓の外を指差して言った。
見上げれば、吸い込まれそうなほど鮮やかな五月の青が、そこにあった。
「ああ。そうだな」
「……少しだけ、外、歩きませんか? 目的も、何にもなくていいんですけど」
それは、マニュアルには一度も存在しなかった、彼女からの「自発的な誘い」だった。
俺の心臓が、また一つ、不器用な音を立てる。
かつての俺なら、紫外線量や熱中症のリスク、人混みによるストレスの可能性を瞬時に計算して、却下していただろう。あるいは「管理された散歩コース」を提示していた。
だけど、今の俺には、そんな計算をする資格も、気力も、必要もない。
「……いいな。行こうか」
俺たちは立ち上がり、玄関へと向かった。
適当に選んだTシャツ。履き慣れたスニーカー。
玄関の扉を開け、外に踏み出す。
肌を撫でる風は、家の中よりもずっと生ぬるく、それでいて心地よかった。
「あ……」
詩織が、ふと足を止めた。
マンションの敷地内に咲く、名前も知らない小さな花。
「これ、綺麗ですね」
「……そうだな。今まで、気づかなかった」
何百回と通ったはずの道なのに。
俺が見ていたのは、いつも最短ルートの地面か、スマホの中の数値だけだった。
詩織が、その花の横でしゃがみ込む。
揺れる髪。陽の光を反射する白いうなじ。
その、あまりにも「普通」の光景が、今の俺には何よりも鮮烈だった。
彼女が立ち上がり、俺の方を向く。
「湊くん、次はあっちに行ってみませんか?」
「ああ。いいよ」
行き先なんて、どこだっていい。
迷うことも、無駄な時間を過ごすことも、今の俺たちにとっては、失っていた「命」を取り戻すための大切な儀式のような気がした。
不味い朝食を食って、笑って、特に意味もなく散歩をする。
そんな、どこにでもある、ありふれた今日。
俺は、彼女の隣を歩きながら、自分の手のひらの不器用な熱さを噛みしめていた。
檻の鍵なんて、もういらない。
俺たちは、ただの、迷子のままでいい。
二人で一緒にいられるなら、この不確かな世界のどこだって、そこが俺たちの「正解」なんだ。
空は、どこまでも青かった。




