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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第38話:正解の廃棄

 五月。窓の外では、季節がまた一歩、夏の熱をはらみ始めていた。

 だが、リビングに流れる時間は、昨夜の凍結した空気のまま、重く止まっているように感じられた。


 俺は、キッチンに立ち、立ち尽くしていた。

 指先が、わずかに震えている。白湯の温度。味噌汁の具。トーストの焼き加減。それらを決定するための論理回路が、昨日、完全に焼き切れてしまったからだ。


 俺が何かを決めれば、それは詩織にとっての「絶対的な神託」になる。俺が良かれと思って差し出す一欠片の気遣いさえ、彼女にとっては「自分を消して従うべき正解」という名の呪いになる。そう気づいてしまった今、俺は、ただの一杯の水を出すことさえ、彼女を閉じ込める新たな檻の鍵になるのではないかと、恐怖していた。


 背後で、微かな衣擦れの音がした。詩織が起きてきたのだ。


「……湊くん。おはよう、ございます」


 彼女は、俺の顔色を窺うように、キッチンとリビングの境界線で足を止める。

 そして、テーブルの上にあるはずの「いつもの整然とした朝食」がないことに、目に見えて動揺した。その細い肩が、ぴくりと震える。


「……あ、あの。すみません。私、何か、間違えましたか? ……起きるのが、遅かったから……? すぐに、準備します。湊くんが、いつも通りに、食べられるように……」


 反射的に「謝罪」を口にし、自分を削ってでも俺に合わせようとする。その痛々しいまでの従順さが、今の俺には、どんな暴力よりも残酷な刃となって突き刺さった。


「……違う。お前は何も間違っていない、詩織」


 俺は、震える声で遮った。そして、手元にあったヤカンを置き、彼女と向き合った。俺は、ポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置いた。


「……これ、一緒に見てくれないか。……春菜が送ってきた、あの日の記録だ」


 俺たちは、昨夜の地獄のような静寂が流れていたあのソファに、再び並んで座った。

 俺のスマホの画面に、春菜奈々が「世界に二つとない最高傑作」と称して送りつけてきたフォトアルバムを表示させる。液晶が放つ眩い光が、薄暗いリビングを不自然に照らした。


 画面をスワイプすると、そこには鮮烈な「四月の熱」が溢れ出した。

 一ページ目。新緑の公園。おずおずと、けれど幸せそうに、箸で掴んだ唐揚げを俺に「あーん」と差し出す詩織。


「……この唐揚げの時、本当に恥ずかしかったんだぞ。人生の中で、こんなイベントが自分に起きるなんて、想像できるか?」


 俺が自嘲気味に呟くと、詩織が、画面の中の自分の顔を、指先でそっとなぞった。そこには、今の彼女が持っている「正しく、穏やかな笑顔」ではない、もっと不格好で、生命力に満ちた、溢れんばかりの幸福が写っていた。


「……湊くん、ずっと……そんな風に思ってたんですか?」


 彼女の声は、まだぎこちない。でも、俺の言葉を待つのではなく、彼女自身の戸惑いが言葉になって漏れ出していた。


「……当たり前だ。あんな人混みの真ん中で。……でも、悔しいくらいに美味かった。理屈じゃないんだ、あんなのは。……お前の作るものは、いつも、俺の予想を裏切ってばかりだった」


 俺が笑うと、詩織の唇が、僅かに綻んだ。彼女は画面の隅にある、耳まで真っ赤になった湊の顔を指さした。


「……本当に、真っ赤ですね。……私、湊くんが困ってるのを見るの、なんだか……少しだけ、好きだったかもしれません。……『どうしよう』って顔をする湊くんが、すごく、一人の男の子に見えて……」


「……性格が悪いな。俺がどれだけ必死だったと思ってる」


「ふふっ。湊くんに、言われたくないです。……でも、本当に楽しかった……」


 小さな、あまりにも小さな言葉の応酬。

 だが、そこには昨日までの「最適化された出力」ではない、生身の感情の火花が散っていた。画面をめくるごとに、彼女を縛り付けていた透明な『正解』の殻が、パラパラと音を立てて剥がれ落ちていく。


 芝生の上。俺が詩織の膝に頭を預けている写真。


「……膝枕なんて、ドラマの世界だけの話だろ。実際やってみたら、思考を回復させるどころか、心拍数が上がりすぎて死ぬかと思ったぞ。……人間の体温って、あんなに熱いものなんだな」


 俺が溜息をつきながら白状すると、詩織も、つられるように声を漏らした。


「……私だって、死ぬかと思いました。……でも、湊くんの髪がすごく柔らかくて、びっくりして……。……ずっと、こうしてればいいのにって、本当に思ってました。……台本じゃなくて、私が、そう思ったんです」


 詩織の横顔に、あの日のような、不器用で温かい色が戻り始めていた。

 最後の一枚。逆光の中で、とびっきりの笑顔で振り返る詩織。


 俺は、その写真から目が離せなくなった。

 液晶の向こう側にいる彼女は、俺を信じ、俺に焦がれ、眩しいほどに自分自身の意志で輝いている。

 それに引き換え、俺の隣に座っている今の彼女は、どうだ。


(……この笑顔だ)


 俺の心臓が、痛いくらいに脈打つ。

 俺が良かれと思って積み上げてきた「正しさ」の瓦礫の下で、この光が今にも窒息しそうになっている事実に、俺は今更ながら打ちのめされた。

 救っているつもりで、俺は、彼女に笑い方を忘れさせていた。


「……しおり……っ……!」


 耐えきれず、俺の口から彼女の名前が溢れ出した。後悔。慚愧。

 視界が白く、不透明に滲んでいく。


「……ごめん。……ごめん、詩織……! 俺のせいで、お前を……。……俺が、全部台無しにした……」


 俺は、顔を覆って俯いた。管理者の仮面はもう、粉々に砕けていた。そこにいたのは、愛する少女を自分の手で壊しかけてしまったことに絶望する、ただの格好悪い一人の男だった。


 その時。柔らかな重みが、俺の身体を包み込んだ。温かな、けれどどこか震えている腕が、俺の背中に回される。


「……湊くん。大好きですよ」


 腕の中で、詩織が掠れた声で囁いた。その言葉は、俺の鼓膜を震わせ、凍りついていた心臓を容赦なく叩き起こした。


「…………っ、……」


 俺は、言葉を返せなかった。喉の奥が熱く、せり上がってくる感情に肺が圧迫される。

 それでも、背中に回された彼女の手の温もりが、俺の後悔と罪悪感を、すべて許すように包み込んでいく。


「……私、分からなくなってました。……湊くんが正解をくれるから、自分でも、それが幸せなんだって言い聞かせて……。でも、湊くんがこうして、私のために困って、泣いてくれることの方が……ずっと、あったかいです」


「……詩織……」


 俺は、彼女の細い体を、壊さないように、けれど二度と離さないように、強く抱きしめ返した。


「……へへ……変ですよね。……湊くんが困ってるのを見て、安心するなんて。……私、やっぱり、おかしいです……」


 詩織が、俺の腕の中で、ふっと、力なく笑った。

 それは、写真の中の輝きには程遠い。泣き腫らした顔で、震えながら、かろうじて浮かべた、あまりにも不器用な表情。


 だが、その瞬間。俺たちの間に立ち込めていた、あの冷たい霧が、一気に晴れていくのを感じた。


「……湊くん。私、……もう一度、あの写真みたいに……湊くんと、笑いたいです。……次は、私が、湊くんを困らせてあげますから」


 彼女は、俺の顔を覗き込み、涙に濡れた顔で、もう一度、笑った。

 昨日までの、一ミリの狂いもない完璧な笑顔ではない。どこかぎこちなくて、歪で、今にも泣き出しそうな、でも、間違いなく彼女自身の意志で灯した、本物の笑顔。


(……そうだ。これを失くしかけてたんだ)


 俺の心臓が、痛いくらいに脈打つ。


 かつての「ポンコツ」な詩織が、瓦礫の下から、必死に手を伸ばしている。その、あまりにも美しく、愛おしい姿。


「……ああ。……一緒に、取り戻そう」


 俺は、掠れた声で答えた。

 正解のない明日を、不完全なまま、二人で。


 窓の外、初夏の風がカーテンを大きく揺らす。

 スマホの画面はいつの間にかスリープに入り、暗転していた。


 俺たちの檻の鍵の在処は、まだ、分からなかった。だが、その檻の鍵が、実は最初から開いていたのかもしれない。


 俺は、彼女の柔らかな重みを感じながら、自らもまた、この不自由な自由へと、身を任せていく。

 そこにあるのは、俺が決めた献立でも、俺が引いたレールでもない。二人で「何を食べようか」と迷い、笑い、時折転ぶための、眩しいほどに不確実な未来だった。


「……詩織。……俺も、お前と笑いたい」


 その言葉が、俺の喉から溢れ出した。

 それは正解でも、最適解でもない。ただの、一人の男の、不格好な願いだった。


 詩織は、一瞬だけ目を見開いて――

 それから、小さく、でも確かに頷いた。


「……はい。一緒に、探しましょう」


 その言葉は、まだ頼りなくて、少し震えていた。

 けれど、誰かに与えられた答えじゃない。

 彼女自身が選んだ、はじめての“これから”だった。


 時計の針は、静かに朝を刻み始めていた。


 どこに辿り着くのかなんて、分からない。

 何が正しいのかも、もう決められない。


 ――それでも。


 俺たちは、同じ方向を見ていた。

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