第27話:管理者、浴室に散る
「ただいま」の後の沈黙は、さっきまでの夕焼けの色を塗りつぶすように深かった。
親が残し、今は俺がたった一人で維持している、広すぎる一軒家。いつもなら、孤独の匂いしかしない冷え切った空間だ。だが今は、リビングに漂うかすかな石鹸の残り香と、脱衣所の向こうから聞こえる水の音が、この家の「温度」を根底から書き換えていた。
ソファに座る俺の耳に、シャワーの音が届く。使い古した蛇口を捻れば出る、ただの温水。この家で俺が何千回、何万回と聞いてきた、ありふれた生活音。
なのに、なぜだ。なぜ、こんなにうるさく聞こえる。
俺は無意識に、テレビのリモコンを強く握りしめた。画面にはバラエティ番組が映っているが、芸人の笑い声もテロップの文字も、すべてがすりガラスの向こう側のようにぼやけている。頭の中に残っているのは、さっきまで繋いでいた彼女の手のひらの、柔らかくて、少しだけ湿っていた熱だけだ。
シャワーの音が、床を叩く。そこに、冬馬詩織がいる。
ただそれだけの事実が、俺の心臓を、逃げ出したくなるほどの速度で叩き続けていた。俺は立ち上がり、台所へ向かった。冷蔵庫を開け、冷えた麦茶を喉に流し込む。冷たいはずなのに、胃の奥にある熱は一向に引いてくれない。
――ガシャン!
突如、脱衣所の向こうで何かが硬い床に叩きつけられる音が響いた。
「きゃっ、あ、……湊くんっ!」
悲鳴。それも、いつものおっとりした声とは明らかに違う、切実な声だった。
「詩織!?」
考えるより先に身体が跳ねていた。怪我か、それとも貧血か。最悪の想定が脳裏をよぎり、俺は廊下を駆け抜け、脱衣所のドアを叩いた。
「おい、大丈夫か! 開けるぞ!」
「あっ、だ、ダメ、待って……あ……!」
止める声が聞こえた時には、俺の手はすでにドアノブを回していた。理性というブレーキが、一瞬だけ仕事をした。だが、それを上回る余裕のなさが俺の指先を突き動かした。
勢いよく開いたドアの先。そこには、湯気の中に立ち尽くす冬馬詩織の姿があった。
「あ……」
視界が、白く爆ぜた。
洗面台の端から落ちたシャンプーボトルのことなんて、もうどうでもよかった。彼女は、まだバスタオルを巻く前だった。慌てて手に取ったタオルで、胸元を隠すのが精一杯。湿った空気、剥き出しの肩、上気した肌、そして濡れて肌に吸い付く髪。鏡越しに目が合った彼女の瞳は、驚きと恥じらいで大きく揺れていた。
――見るな。
――謝れ。
――出ていけ。
分かっているのに、身体が動かない。命令系統は完全に死んでいた。網膜に焼き付いたその白すぎる光景が、俺の全回路を強制終了させていた。
「ご、ごめんなさい、湊くん……滑って、その……」
詩織が泣きそうな顔で顔を伏せる。その拍子に、彼女が必死に押さえていたタオルが、危うい角度でズレた。
「……っ!!」
俺は、雷に打たれたような勢いでドアを叩きつけた。
暗い廊下。バクバクと暴れる心臓の音が、家中を揺らしているんじゃないかと思うほどうるさい。俺は壁に手をつき、そのまま膝から崩れ落ちた。呼吸の仕方を忘れたように、浅い空気を何度も貪る。
今の、なんだ。なんで、あんなに。
顔から火が出るどころか、全身が燃えている。俺は両手で顔を覆い、自分の浅い呼吸を聞き続けることしかできなかった。
それから数分後。俺はソファに座り、テレビの音量を無意味に上げていた。やけに遅く感じられた時間の後、おずおずとした足取りで、詩織が脱衣所から出てきた。俺が貸した大きすぎるTシャツの裾をぎゅっと掴み、細い脚を隠すように歩くその姿は、小動物のように震えている。
「……湊くん。あの、さっきは……ごめんなさい」
彼女は俺から数メートル離れた場所で立ち止まり、俯いたまま絞り出すような声を出した。その肩が微かに揺れているのを見て、俺の中の「大人でいなきゃいけない」という防衛本能が、最悪の方向に作動した。
「……気にするな。別に、たいしたことじゃない」
俺はテレビから視線を動かさず、わざと重厚で低い声を出した。三年間、誰にも踏み込ませずに生きてきた。これくらいで取り乱してたまるか。
「でも、私……見られちゃって、すごく恥ずかしくて……。湊くん、全然動じてなかったから……なんだか、私に魅力がないのかなって」
「……は?」
想定外の角度からの言葉に、俺の仮面がピキリと音を立てる。
「湊くん、すごく堂々としていたから……。私だけがこんなにパニックになって、自信なくしちゃいます」
「……ああ、まあ。俺は少し、精神的に大人だからな」
言ってしまった。引くに引けなくなった。心臓が猛烈な抗議の音を立てているというのに、俺は浅はかにも大人という名の仮面を被り続けてしまった。
「そっか……湊くんは、大人なんですね。……私、子供っぽかったですね」
詩織が顔を上げた。その瞳には、いつもの遠慮がちな色ではなく、小さな反撃の意思が宿っていた。
「じゃあ……湊くん、お風呂入ってきてください。次は私の番です」
「……。お前の番って、なんだ。もう入っただろ」
「逆襲、です」
詩織は真っ赤な顔で、けれど真っ直ぐに俺を見つめた。
「湊くんは大人だから、恥ずかしくないんですよね? ……さっきのお詫びに、私、湊くんのお背中流します。……いいですよね? 大人、なんですから」
「……はぁっ!?」
冬馬詩織が? 全裸の、俺を?
「……ちょ、待て。それは……」
「大人なら、普通のことですよね? 私、一生懸命流しますから」
詩織は確信犯的な瞳で、俺を逃さない。自ら被った大人の仮面が、今や俺を縛り付ける呪いの装備へと変わっていた。断れば「やっぱり恥ずかしかったんだ」とバレる。肯定すれば、理性が死ぬ。
「……。……。ああ、……わかったよ」
俺は死地に向かう兵士のような足取りで、浴室へ向かった。扉が閉まる音が、死刑台のレバーを引く音のように聞こえる。
湯気に満ちた空間。視界が白く霞んでいるのが唯一の救いだった。俺は洗い場の椅子に腰を下ろし、ただひたすら目の前のタイルの目地を見つめていた。背後には、湯気に濡れた俺のTシャツを纏った詩織が立っている。
「……湊くん。失礼します」
ひんやりとしたボディーソープの泡が、彼女の手を通して背中に広がる。
「……っ」
背筋に電流が走った。詩織の掌は、驚くほど柔らかく、そして小さい。その小さな手が、円を描くように俺の背中を撫でていく。
「……湊くん、すごく、がっしりしてるんですね」
詩織の声が、耳元で弾んだ。湯気のせいで、彼女の吐息までが熱を持って肌にまとわりつく。
「……毎日、重い買い物袋を提げて歩いてるからな」
精一杯の言葉を絞り出す。だが、声は掠れ、余裕なんて欠片もなかった。
「……あ、でも。心臓の音、背中まで響いてますよ?」
詩織の指が、俺の肩甲骨のあたりで止まった。トク、トク、と。暴走する機械のように打ち鳴らされる鼓動。
「……これは、浴室の温度が高いせいで……」
「ふふっ。湊くん、やっぱり可愛いところありますね」
可愛い? 俺が?
詩織の掌が、今度は俺の肩に置かれた。
「……さっき見られちゃった時、湊くん、全然動じないんだもの。少しだけ、寂しかったんです」
泡のついた彼女の手が、俺の肩甲骨の上でピタリと止まる。耳元で弾んだその声は、湿度を帯びて妙に耳の奥にまとわりついた。
「……動じてないわけじゃない。必死に、理性で抑えてただけだ」
つい、言い訳のような声が出る。強がりだと分かっていながら、俺は大人ぶった仮面を剥がせなかった。すると、背後の詩織がふっと小さく息を漏らす。
「……お前、わざとやってるだろ」
喉まで出かかった言葉を飲み込み、鏡越しに彼女を見る。湯気に煙る鏡の向こうで、詩織は真っ赤な顔のまま、悪戯っぽく微笑んでいた。
「……どうでしょうね。湊くんはどう感じました?」
挑発された。鏡越しに目が合う。彼女の瞳は潤んでいて、俺の答えを待っている。
「……魅力が足りないとか、本気で思ってるのか」
「ふふっ、湊くんから言わせたいです」
彼女はまた、わざとらしく背中を撫で始める。その手つきは、どこか俺の動揺を試すようだった。
「だって、さっきの湊くん、あまりにも平気そうだったから。……私だけが慌てて、恥ずかしくて。なんだか、私ばかりが湊くんを意識しているみたいで」
彼女の声から、からかいの響きが消える。その代わりに混じったのは、言いようのない切実さだ。
「だから、少しだけ悔しかったんです」
「……悔しい?」
「……私も、湊くんが同じようにドキドキしてくれて……嬉しいです」
――トクン、と。
言葉の刃が、胸の奥を正確に射抜いた。背中越しに伝わる体温、耳元をくすぐる吐息、そして彼女の指先の震え。
それらすべてが、「俺だけが冷静でいられる」という幻想を、容赦なく切り裂いていく。
自分は感情を管理できる側だなんて、傲慢だった。ただ、認めるのが怖かっただけだ。この熱に浮かされていることを、彼女と同じ速度で心臓が跳ねていることを、誰よりも俺自身が一番分かっていたはずなのに。
鏡の中の詩織が、俺の背中を見つめながら、困ったように眉を下げた。
「……ダメ、ですか?」
その顔を見て、ようやく悟った。
これは、冷やかしや仕返しなんかじゃない。彼女はただ、俺と同じ場所に立ちたかっただけなのだ。冷めた傍観者でいた俺を、彼女の手のひらが、無理やりにでも引きずり降ろそうとしている。
俺は、背中に残る掌の温度を受け入れながら、観念したように短く息を吐いた。
「……降参だ」
浴室に響くのは、俺の乱れた呼吸と、彼女の小さな鼓動の音だけ。強がっていた仮面は、もう跡形もなく溶け落ちていた。
俺の負けだ。完敗だった。長い間守り続けてきた自負も、大人の仮面も、石鹸の泡と一緒に排水溝へと流れ去っていく。一口食べたプリンの甘さとは違う、もっと強烈で、逃げ場のない熱。俺はただの17歳のガキとして、背中に感じる少女の温もりと、止まらない鼓動の熱に、身を任せることしかできなかった。
「……先に出てる」
なんとかそう言い残し、俺は彼女の反応を待たずに浴室を飛び出した。
冷えた空気が、火照った肌に突き刺さる。脱衣所で服を着込んでいる間も、背中がジリジリと熱い。鏡に映った自分の顔は、案の定、茹で上がったように赤かった。
――呼吸を整えろ。落ち着け。……もう、元には戻れないぞ。
リビングに辿り着くと、先ほどまでテレビから流れていた喧騒が、ひどく遠い世界のことのように思えた。数分後、詩織も風呂から上がってくる。俺たちが揃ってソファに沈み込むと、部屋は再び静寂に包まれた。
並んで冷めた茶をすする。一口飲んで、二人とも無言でコップを置いた。うまく言葉にできないまま、俺は空になったプリンのカップを見つめた。指先にはまだ、あの石鹸の泡の感触がこびりついている気がして、無意識に何度も膝の上で掌を擦り合わせた。
静まり返った部屋。時計の針が刻む音だけが、やけに大きく響く。石鹸の匂いを纏った、俺ではない誰かの呼吸が、この家の空気を揺らしている。
「……湊くん」
詩織が、俺の顔を伺うように、でもどこか満足げに微笑んだ。俺はそれに応える言葉を持たず、ただ、わざとらしく大きくため息をついて、背もたれに深く体を預けた。
……明日から、どうやってこいつと向き合えばいいんだ。
理屈も計算も、全部あの浴室の排水溝に流してきた。残ったのは、情けないほど跳ね続ける心臓の音と、この広すぎる一軒家が、ほんの少しだけ狭く感じるようになったという、逃れようのない事実だけだった。
俺は、天井の木目を睨みつける。
……腹が立つくらい、喉が渇いていた。




