第26話:ただいまと言える場所
月曜日、午後四時。放課後を告げるチャイムの音は、やけに刺すような鋭さで鼓膜の奥にこびりついた。
いつもなら、この音は単なる「一日の終わり」を意味する事務的な信号に過ぎない。義務教育の延長線にある、この拘束時間からの解放。無味乾燥な授業から解き放たれ、自分一人の領域へと帰還するための、聞き慣れたルーチン。
だが今日に限っては、四方を囲む見えない壁がさらに狭まってくるような、そんな逃げ場のない息苦しさの始まりだった。
教室のドアを開け、一歩廊下へ踏み出す。その瞬間、それまで背後で響いていたはずの喧騒が、示し合わせたかのように不自然に凪いだ。
水面に大きな石を投じた後のような、重く、粘りつくような静寂。
視界の端で、誰かが肩を寄せ合い、こちらの様子を伺うように視線を這わせる気配がする。廊下ですれ違う奴らは、あからさまに歩調を緩め、俺の横を通り抜けてから数歩先で必ず振り返る。ヒソヒソという低い音の塊が、空気を震わせて俺の背中に吸い付いた。
「……おい、マジかよ。昨日、公園で……」
「阿久津が、冬馬さんの手をあんなに……」
解像度の低い、それでいて無邪気な好奇心の囁き。それが目に見えない無数の針となって、制服の繊維を突き抜け、俺の剥き出しの肌をじりじりと刺す。
じっとりとした汗が、首筋を伝って制服の襟を濡らした。
三年間、空気のように過ごしてきたこの学び舎。目立たず、関わらず、ただ自分一人の静かな暮らしを維持することだけに神経を研ぎ澄ませてきた場所。昨日までの俺にとって、ここはただの通過点だったはずだ。だが、今のこの空間は、得体の知れない熱を帯びた檻のように俺を焼いていた。
他人の視線というものが、これほどまでに重く、物理的な質量を持って圧し掛かってくるものだとは知らなかった。
校門を抜け、住宅街へと続く緩やかな坂道を下り始める。百メートル、二百メートル。ようやく背後にある視線の包囲網から脱した実感が湧き、俺は肺にある濁った空気をすべて吐き出すような、深く、重いため息をついた。
「湊くん、お疲れ様です。……ふふっ、今日はなんだか賑やかな一日でしたね」
隣を歩く冬馬詩織の声が、不意に耳に届いた。
彼女はいつものように笑っていた。夕日に照らされた横顔は、不自然なほど穏やかに見えた。
俺は何も言わず、ただぶっきらぼうに前を見据えた。
この街の喧騒も、遠くの幹線道路を通り過ぎる車の音も、今はすべてがぼやけて聞こえる。彼女のその無邪気な、それでいて一点の曇りもない声だけが、張り詰めた俺の耳に、心地よい音として届いていた。
詩織は俺の顔を覗き込むようにして、小首を傾げる。
夕日に照らされた彼女の横顔は、不自然なほど透き通って見えた。俺の頬が熱を帯びていることに気づいているのか、いないのか。彼女は何も言わずに、俺の制服の袖をぎゅっと掴んだ。
指先から伝わってくる確かな重み。かつてはそこに、理由が必要だと思っていた。だが今、その小さな引っ張りが、俺の内側をかき乱していたざわつきを、ゆっくりと、確実に静めていく。
「……湊くん、手が、少し震えてますよ?」
「……うるさい。歩きすぎて疲れただけだ」
そんな嘘が通用しないことくらい分かっている。
それでも、彼女は「そうなんですね」と笑って、さらに強く袖を握りしめた。
その体温だけが、今の俺にとって唯一の、揺るぎない正解だった。
寄り道らしい寄り道もせず辿り着いた、いつものスーパー「サンエール」。
自動ドアが開いた瞬間、店内に流れる安っぽいBGMと、少し湿った、それでいて清潔な冷気が顔を撫でた。山積みの野菜の匂いと、誰かの生活の残り香。その何の変哲もない日常の匂いに、ようやく肺の奥まで空気が入った気がした。
詩織は慣れた手つきでカゴを取り出す。
「今日は、お肉が安くなっているみたいですよ。湊くん、何がいいですか?」
彼女の声に促されるように、俺たちは精肉コーナーへと向かう。
詩織がパックを手に取ろうとする。だが、その動きが、ふと止まった。
並んだ二種類の豚肉を見比べ、一度は脂身の少ない、綺麗な赤身の肉に伸ばしかけた手を、静かに引っ込める。そして、その隣にある、少しだけ小ぶりで、グラム単価が数円安い切り落としの袋をカゴに入れた。
ほんの一瞬、彼女の眉間が、ほんの少しだけ寄った。
それを、俺はただ隣で見ていることしかできなかった。
彼女は俺に負担をかけまいと、自分を後回しにして「最適」を選ぼうとする。自分には贅沢をする権利なんてない。ただ生かされているだけの存在なのだと、その背中が語っているようで、俺の胸が、行き場のない感情に締め付けられた。
「……それは、硬いぞ。こっちの方が美味い」
「えっ、でも、湊くん。こっちの方が百円近く安いですし、工夫すれば柔らかくなりますよ?」
「いいから、それを戻せ。今日は、俺がこっちを食いたいんだ」
子供じみた言い訳をしながら、俺はさっき彼女が諦めたパックを強引にカゴに戻した。詩織は驚いたように俺を見上げ、それから申し訳なさそうに、けれど少しだけ嬉しそうに「……ありがとうございます」と小さく、震える声で呟いた。
乳製品のコーナーを通りかかる。
俺は足を止め、棚の一角へ視線を落とした。
そこには、期間限定の文字が踊る、金色の蓋がついた高いプリンが並んでいた。
俺は値札を見た。
――高い。
一瞬だけ、指が止まる。離す理由が、浮かばなかった。
そのまま、プリンを二つ、カゴの中に落とした。
トスン、という小さな音が、カゴの底から俺の心臓に直接響いた気がした。
指先に、わずかに力が残ったまま、離れない。
呼吸の仕方を、一瞬だけ見失った。
「わっ……湊くん、それ……」
詩織が驚いたように、それから、今まで見たことがないほど困ったような顔で俺を見つめた。
俺は彼女と目を合わさず、棚の品出し情報を確認するふりをして、わざとらしく視線を逸らした。
「……たまにはいいだろ。それ、人気らしいぞ」
「でも……私、そんな……」
「……いいから。俺が、お前と一緒に食べたいだけだ」
それ以上は、もう言葉が出てこなかった。
レジへと向かう俺の背中を、彼女がどんな顔で追いかけてきているのか、確かめる勇気もなかった。会計を済ませる俺の横で、彼女はプリンの入った袋を、まるでお守りのように両手で包み込んでいた。
店を出ると、街は燃えるような茜色に染まっていた。
アスファルトに、長く、長く伸びた二人の影が落ちている。影の形は、歩くたびに近づき、離れ、また近づいていく。
かつて、俺が一人で、ただ生き延びるためだけに歩いていたこの道。
頭の中にあるのは、数字と効率だけだった。
だが今は、すぐ隣に、俺の歩幅に合わせて歩く誰かの呼吸がある。
「……湊くん」
詩織が、俺の顔を伺うようにして笑った。
その手には、さっきのプリンが入ったレジ袋が、壊れものを扱うように大切に抱えられている。
「……買い物なんですけど。私にとっては、最高のデートみたいで、すごく、嬉しいです」
不意に、心臓が跳ねた。
夕日の赤さに助けられている自覚がある。俺の顔は、きっと今、西の空よりも赤くなっているはずだ。
これまで俺を守ってきた言い訳は、もう、いらない。
俺は、ただ手を伸ばした。
「……ああ」
それだけを絞り出し、俺は詩織の、少し冷えた指先を、迷わずに包み込んだ。
詩織の指が、ビクリと大きく跳ねた。
一瞬の硬直。それから、震えるような吐息が俺の耳をかすめ、彼女は俺の手を、痛いほどぎゅっと強く握り返してきた。
繋いだ手のひらから、ドクドクと速い鼓動が伝わってくる。
どちらの鼓動か分からない熱が、手のひらを通して重なっていく。
重なり合った二人の影が、夕闇に溶けゆく家路を、ゆっくりと進んでいった。
やがて、見慣れた自宅の屋根が見えてきた。
親が残し、今は俺がたった一人で維持している、広すぎる家。
門をくぐり、玄関の前で立ち止まる。
ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチリ、と乾いた音が静かな住宅街に響いた。
ドアを押し開けると、かつては孤独の匂いしかせず、ただ自分を律するためだけに帰ってきた冷え切った玄関に、夕方の柔らかな風が滑り込む。
「ただいま……」
無意識に漏れたその言葉に、自分で少しだけ驚いた。
すぐ後ろで、「お邪魔します……」と、遠慮がちな声が重なる。
――違うだろ。
喉まで出かかった言葉が、引っかかる。
何が違うのか、自分でもうまく説明できないくせに、それだけは、はっきりと分かった。
ここはもう、「邪魔」する場所じゃない――はずだ。
そう思った瞬間、妙に息が詰まった。
「……」
一歩だけ、踏み出す。
逃げるみたいに、でも止まらないように。
「……それ、やめろ」
「えっ……?」
「その……『お邪魔します』ってやつ」
言ってから、遅れて後悔が追いつく。言い方が雑すぎる。
けど、もう引っ込められなかった。
「……別に、その……」
何を言えばいいのか分からないまま、言葉だけが先に崩れる。
「……ここ」
一瞬、言葉が詰まる。
「……来るときは」
息を吸って。
「……『ただいま』でいい」
沈黙。
背中越しに、空気が揺れる。
「……はい」
かすかに震えた、けれど嬉しそうな声。
「……ただいま、湊くん」
心臓が、変な打ち方をした。
「……ああ」
それだけ返して、俺は逃げるようにリビングへ向かった。
顔が熱い。理由なんて、考えるまでもなかった。
窓の外では、街の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。
夜が来る。冷たい孤独が支配する、いつもの夜が。
だが、もうその暗闇に怯える必要はない。
広すぎるはずのこの一軒家も、テーブルに並べられた二つのプリンと、向かいに座る彼女の体温があれば、何よりも確かな「居場所」へと変わる。
一口食べたプリンの甘さは、驚くほど強烈だった。
今の俺たちには、少し不釣り合いなくらいの。
俺は思わず小さくむせ、それを隠すようにして顔を背けた。
詩織がくすくすと笑い、それから「……本当、甘いですね」と小さく呟く。
「……ああ。……甘すぎるな」
うまく言葉にできないまま、スプーンを口に運ぶ。
静かな部屋。
甘さだけが、やけに残った。




