第25話:プライベート・キーの死守
月曜日、午前七時三十分。
俺、阿久津湊は、自室の姿見の前で、今日だけで三度目となるネクタイの結び直しを行っていた。
鏡に映る自分は、相変わらず無愛想で、何を考えているのか分からない面白みのない高校生だ。
三年間、誰とも深く関わらず生きてきた仮面。
だが今はもう、その内側から壊れかけていた。
昨日の、あのオレンジ色に染まった公園。
冬馬詩織の熱に触れた記憶が、今も肌に焼き付いている。
深呼吸を繰り返しても、心臓は早鐘を打ち続け、喉の奥が熱い。
「……落ち着け。阿久津湊。昨日のことは、あくまで突発的な事態であって、今日からはまた……」
鏡の中の自分に言い聞かせる声が、微かに震えていた。
自分でも呆れるほど、俺はただの「一人の男」として、恋という名の制御不能な熱に侵略されていた。
逃げるようにリビングへ向かうと、そこにはすでにエプロン姿で朝食の準備をしている詩織がいた。
彼女は、昨日スワンボートの中で流れていたラブソングを鼻歌まじりに奏でながら、楽しそうに腰を揺らしている。
足音に気づいた彼女が、ふわりと振り返った。
「あ、湊くん。おはようございます! 朝ごはん、温かいうちに食べてくださいね」
その瞬間。
俺の網膜に、昨日の夕暮れ、黄金色の逆光の中で微笑む彼女の顔が鮮烈にフラッシュバックした。
――負けだ。
脳内で完全な敗北宣言が再生される。
俺は慌てて視線を逸らし、味のしないトーストを無言で口に押し込んだ。
「……お、おはよう。冬馬。準備はいいか。今日は……春奈が何を仕掛けてくるか分からん。とにかく、気を引き締めていこう」
「ふふっ、湊くん。朝から眉間におシワが寄ってますよ?」
「笑い事じゃない。俺は……俺たちは、あいつに弱みを握られているんだぞ」
「……そんなに、私のことが心配ですか?」
言葉が、止まった。
詩織が少し首を傾げ、上目遣いで俺を見つめている。
その瞳には、今まで見たこともないような、明確な「いたずらっぽさ」が宿っていた。
俺の思考プロセスは、彼女のちょっとした仕草一つで完全に停止してしまった。
「ふふっ。ほら、早く行かないと遅刻しちゃいますよ!」
彼女は俺の背中をぽんと押し、軽やかな足取りで玄関へ向かった。
俺が必死に守ろうとしていた「平静」なんてものは、彼女の笑顔一つの前では、砂の城のように脆く崩れ去ってしまった。
*
午前八時十五分、教室。
俺は、地雷原を歩く最前線の兵士のように慎重な足取りで、自分の席へと着いた。
周囲を見渡すが、クラスメイトたちはいつも通りだ。
まだ、決定的な情報の漏洩は起きていないらしい。
だが、そのわずかな安堵は、背後から聞こえた聞き慣れた足音によって打ち砕かれた。
「おっはよー、湊くん! 随分と顔色が優れないじゃない?」
わざわざ周囲に聞こえるような声で、春奈がそう言った。
普段は「阿久津くん」と呼ぶはずの彼女が、あえて下の名前を口にしたその意図を察し、俺の背中に嫌な汗が流れる。
春奈奈々。
この世界のすべてを面白がっている、意地悪なゲームマスターだ。
「……春奈。ひどい隈だぞ。一晩中何をしてたらそんな顔になるんだ」
「ふふふ……まずは約束の動画削除、ね。ほら、完了報告」
彼女は机の下で、俺にだけスマホの画面を見せた。
あの動画の消去ログだ。
だが、安堵する間もなく、彼女の指が画面をスワイプした。
次に表示されたのは、一晩かけて異常な熱量で編集された『フォトアルバム』のデータ群だった。
「……本当に、動画は消したんだな」
「約束だもん。その代わり、世界に二つとない最高傑作ができちゃった。詩織ちゃんにはさっき送っておいたけどね。……ねぇ、湊くん。自分の『素敵な姿の記録』、ちゃんと見た?」
彼女の徹夜明けの瞳は、ゾッとするほど鋭く、楽しげに俺を射抜いている。
「…………見ていない。見る必要もない」
「強がるねぇ。せっかくだし、このクラスのみんなにも見せちゃおっか?」
その時だった。
「春奈さん! おはようございます!」
詩織が、まるで宝物でも扱うようにスマホを両手で握りしめ、駆け寄ってきた。
「あ、詩織ちゃん! おはよー! さっき送ったデータ、見れた?」
「はい! 学校に着いてから通知に気づいて……何度も何度も見ちゃいました。本当に素敵で……私、あんなに楽しそうに笑ってたんだって、自分でもびっくりしちゃって」
詩織の瞳が、感動で潤んでいる。
春奈は俺をちらりと見て満足げに頷くと、わざとらしく周囲にも聞こえるような声のトーンに切り替えた。
「でしょー? あんなに綺麗な湊くんの顔、初めて撮ったもん。ねぇ詩織ちゃん、せっかくだし、このクラスのみんなにも――」
「クラスのみんなにも……!!」
詩織の声が弾んだ。
彼女は一切の悪意がない、純粋な善意で目を輝かせたのだ。
「そうですね、湊くんの素敵な姿を、みんなにも知ってもらえるチャンスですもんね!」
――ッ!!
心臓が跳ね上がった。
春奈の悪意よりも、詩織のこの「無自覚な自慢テロ」の方が、今の俺には致命的だ。
彼女は本当に、心から俺のことを自慢したいと思っている。
「待て、冬馬! じゃなくて……ッ!」
思考するよりも先に、身体が動いた。
反射的に立ち上がり、詩織がスマホを掲げようとする手を、自分の両手で優しく、しかし確実に包み込むように押さえた。
その瞬間、教室の時が止まった。
「え……ちょっと、阿久津!?」
「嘘だろ、あいつら手繋いでる!? 教室の真ん中で!?」
「「冬馬さんの手を阿久津が……がっつり握ってるんだけど……!」
周囲の女子たちが机を叩いて立ち上がり、隣のグループの男子が驚きでスマホを床に落とす。
教室中にガタガタと椅子を引く音と、カオスな喧騒が巻き起こった。
もはや視線は逃れられない。
俺は騒ぎを遮断するように、彼女の耳元へ顔を寄せた。
「……詩織」
「ひゃっ……」
距離にして、数センチ。
昨日の地獄のようなデートで学んだ、理屈を超えるための「熱」の伝え方。
「……これは、二人だけの大切な思い出だ。できれば、二人だけの胸のうちに秘めておきたい。……ダメか?」
俺の掌越しに、詩織の身体が震えたのが分かった。
俺の口から出た、あまりにも不器用で、独占欲にまみれた言葉。
それを教室のど真ん中で聞かされた彼女は、耳の付け根まで真っ赤に染め上げた。
だが、詩織はただ恥じらうだけではなかった。
俺の服の裾を、きゅっと強く掴み返してきたのだ。
「……うん。私だけの……秘密、にします」
彼女は誰にも見せないようにスマホを胸元に抱え込むと、寄ってきた女子たちに「ごめんなさい、なんでもないんです!」と必死に手を振り始めた。
致命的なデータ流出は防げた。
だが俺は、自分の口から飛び出した「大切」という言葉の熱に自ら焼かれ、完全にショートしていた。
「……湊くん、必死だねぇ」
振り返ると、春奈が頬杖をつきながら、勝ち誇ったように笑っていた。
*
昼休み。
俺はクラスの好奇の視線に耐えきれず、逃げるように屋上の片隅へと避難していた。
そこに、缶コーヒーを持った春奈奈々が再び現れた。
「……動画は消した。これ以上、何を観測するつもりだ」
恨み言をこぼす俺の隣で、彼女は手すりに背中を預け、遠くの街並みを眺めた。
「……私ね、湊くん。あんたが誰かの色に染まっていく、その熱を一番綺麗な解像度で残しておきたいだけなの」
彼女の言葉に、いつもの意地悪な響きはない。
「二人が最高に幸せな瞬間に、どうしても私を混ぜておきたかったの。……それを独り占めして、二人に押し付ける権利くらい、あってもいいと思わない?」
「……春奈。お前は」
「私は二人みたいな物語の中心にはなれないけど……でも」
彼女は一瞬だけ、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「あの写真を撮って、最高のアルバムに仕上げたのが私だってこと、一生忘れないでよね、湊くん。君たちの幸せの始まりには、常に私が隣にあったんだってこと」
ふっと視線を空へ逃がすと、飲み干した缶コーヒーを握りしめた。
パキリ、と乾いた金属音が響く。
彼女は少しだけ寂しげに笑うと、握りつぶされたアルミ缶をゴミ箱へ放り投げ、俺を置いて屋上を後にした。
それは彼女なりの意地であり、俺の記憶の片隅に自分を永遠に縛り付けておこうとする、あまりに強烈な執着だった。
*
放課後。
夕日に照らされた帰り道。
俺と詩織の距離は、昨日よりも確実に縮まっていた。
「……冬馬。いや、詩織」
「はい、湊くん」
「……なんとか誤魔化せたとは思うけど、たぶん、もうクラスのみんなにはバレてるよな。明日から、変な目で見られるかもしれないけど……」
「湊くん」
詩織がふいに足を止め、俺の制服の袖をぎゅっと引っ張った。
「……昼休み、春奈さんに下の名前で呼ばれてましたよね? さっきも。……屋上で何話してたんですか?」
「えっ? あ、いや、それは……アルバムの件と、動画の削除確認だよ」
「……私だけの秘密、ですよね? あのアルバム」
詩織が少しだけ唇を尖らせ、上目遣いで俺を睨む。
ただの「いい子」だと思っていた彼女が見せた、明確な独占欲と、可愛い嫉妬の色だった。
「あ……ああ。そうだ。お前だけのものだ」
俺の理屈が、完全に消し飛んだ。
「……ふふっ。なら、いいです」
詩織は満足そうに微笑むと、引いていた俺の袖を、今度はそっと握りしめてきた。
「私、みんなにバレたとしても……湊くんが隣にいてくれるなら、全然怖くありません」
その言葉は、俺のすべての不安を焼き切る、絶対的な肯定だった。
俺のポケットのスマホが振動する。
春奈からの最後の一通だろう。
『次は――修学旅行の計画でも立てようか?(笑)』
そんな予感はあっても、もう構わない。
「……やれやれ」
俺は、握られた袖の熱を感じながら、彼女の小さな手をしっかりと握り返した。
「……阿久津湊、最終結論。……もう、理屈なんてどうでもいい」
ただ、この温もりを離したくない。
この笑顔を、誰にも譲りたくない。
そんな、あまりにも単純で、あまりにも人間臭い答えが、今の俺のすべてだった。
「これからは……二人で、歩いていこう。詩織」
「えへへ……はい、湊くん!」
夕暮れの通学路。
長く伸びた二人の影は、昨日の公園よりもずっと深く、幸福そうに一つに重なり合っていた。
理屈は、笑顔に勝てない。
その笑顔を守るためなら、俺は何度でも、自分自身の理屈を喜んで裏切り続けるだろう。
俺は、もう逃げない。
それでいいと思った。




