第24話:高校生カップルの生態調査
【極秘調査指令:フェーズ02】
調査名: 高校生カップルにおける「公開給餌」及び「親密度」の定点観測
被験者: 被験体A(阿久津湊・17歳)、被験体S(冬馬詩織・17歳)
必須タスク:
1. 相互給餌の実行。
2. 噴水広場中央での秘匿情報の交換(内緒話)。
3. 三番目の地獄。スワンボート内における閉鎖空間での長時間対面。
4. 思考力を回復させるための膝枕(15分間維持)。
5. 被験者A自らによるツーショット写真の撮影。
備考: 被験体Sには調査の事実を伏せ、自発的デートであると誤認させること。
四月中旬。北半球のこの緯度では、紫外線量は三月の約一・五倍に急増する。メラニン色素の沈着を避けるべく日焼け止めを塗りたくり、カップルの吐く二酸化炭素で空気が濁っているのではないかと本気で疑いながら、俺は公園へ足を踏み入れた。
ポケットの中にあるスマートフォンが、執拗に、からかうようなリズムで振動する。
『実験開始。早くレジャーシートを広げなさい、管理者さま。観測データが不足しているわよ(笑)』
俺の行動を逐一記録しようとしている、あの邪悪なトラブルメーカーの顔を想像するだけで、胃のあたりに鋭い痛みが走る。
「……あ、湊くん!こっちです!ここ、ここが一番日当たりが良くて、レジャーシートを広げるのに最適ですよ!」
数歩先を歩く詩織が、新緑の木立の中で眩しそうに目を細めて振り返った。彼女は、この実験という名の拷問の正体を一切知らない。俺が、例の放流動画を人質に取られて、不本意ながら言わされた拙い嘘を、一欠片の疑いもなく信じているのだ。今の俺には、その純粋さが刃物みたいに胸に刺さる。
「……阿久津湊、観測メモ。項目一:場所の選定。周囲の視線による羞恥指数は、すでに限界値だが、閉鎖空間である教室のそれを大幅に上回る八五%と推定。……生存戦略上、極めて不利な地形と言わざるを得ない」
「えっ?湊くん、また何か難しい独り言を言いましたか?」
「……いや。血糖値の低下による判断力の減衰を懸念しただけだ。速やかに、栄養補給を開始しよう」
俺は震える手で、彼女が手渡してきた重箱の蓋を開けた。
その瞬間、出汁の効いた卵焼きと揚げたての唐揚げの香ばしい匂いが四月の風に乗って広がり、俺の鼻腔を支配した。
「ふふっ。今日は湊くんがこの前『美味しい』って言ってくれたおかずを、もっと改良して詰め込んでみたんです。……はい、湊くん……あーん」
――きた。指令項目一。相互給餌の実行。
詩織が、頬を薄桃色に染めながら、割り箸で丁寧に掴んだ唐揚げを俺の口元へ差し出してくる。俺は一度、絶望的な気分で周囲を見渡した。隣のシートでは幼児が走り回り、その背後では老夫婦が微笑ましくこちらを眺めている。俺がここで口を開ければ、三年間かけて強固に積み上げてきた「孤高の管理者・阿久津湊」という概念は、名実ともにこの公園の肥やしになる。
「……っ、……あ」
俺はもはや思考を放棄し、目を固く閉じ、処刑を待つ囚人みたいに無防備な姿で口を開けた。
――美味い。
悔しいほどに、肉汁と彼女の「真心」という名の理屈じゃない温かさが、俺の口内を潤していく。
「阿久津湊、観測メモ。……羞恥指数はすでに限界値だが、摂取した栄養素の味覚評価は、俺の知るどんな料理よりも……美味い」
「わあ、よかった!……じゃあ次は、湊くんからも……いいですか?私、待ってます」
詩織が、潤んだ瞳で俺を見つめる。
これが、春奈の書いた計画の真髄だ。俺に、俺自身の手で、自らのプライドに最後の手向けをさせようというのだ。俺は震える手で黄金色の卵焼きを掴み、彼女の小さな唇の方へ、スローモーションのような速度で差し出した。
「……ほら。……食え」
「んっ……。……ふふ、幸せです。湊くんに食べさせてもらえるなんて、夢みたい」
幸せ……だと。
俺の心臓は、もはや制御不能なほどの熱暴走を起こし、血液が沸騰する音が耳の奥で轟々と鳴り響いていた。
*
だが、春奈奈々という悪魔の観測者は、これしきの崩壊では満足しなかった。
食事を終え、最も人通りが多い公園中央の噴水広場へ移動した際、次なる指令が画面を埋め尽くした。
『中間タスク。人混みの真ん中で、詩織ちゃんの耳元に唇を寄せて、甘い言葉を囁きなさい。内緒話のフリをすれば、周りからはもっと怪しく見えるから(笑)』
「……湊くん?何か、私に言いたいことがあるんですか?ずっとそわそわして……」
詩織が不思議そうに顔を近づけてくる。噴水の水しぶきが午後の光を乱反射させ、彼女の白い肌を幻想的に輝かせていた。俺は全神経を集中させ、周囲の音を無視して、震える手で詩織の肩を引き寄せた。柔らかな髪が俺の頬を掠め、耳元に温かな吐息が触れる。
「……っ」
俺は、もはや正気とは思えないほど掠れた声で、彼女の耳元に唇を寄せた。
「……今日の、お前の弁当……世界で一番、美味かった。……本当だ」
――ッ。
詩織の体が硬直したのが腕越しに伝わった。白い首筋が、見る間に鮮やかな朱色に染まっていく。彼女は真っ赤な顔をして俺から数歩飛びのき、声にならない声を漏らしながら、自分の両耳を必死に手で隠した。
「阿久津湊、観測メモ。……甘言の投下による被験者の反応は、想定値を大きく上回る。……及び、神経系が限界に近い状態だ……」
*
続けて、三番目の地獄。スワンボート。
「……阿久津湊、観測メモ。ボート内は推定一・五平方メートルの極小空間。物理的距離が限界まで縮まっており、心理的防壁が機能しない」
ペダルの無機質な音が、スワンボート内に虚しく響く。正面に座る詩織の膝が、俺の膝と幾度も軽く触れ合う。
「わあ、湊くん!ほら、あっちにカモの親子がいますよ!可愛い!」
詩織が身を乗り出すたびに、ボートが大きく左右に揺れ、彼女の身体が俺の方へと傾く。甘い香りがボート内に満ち、俺の思考を奪うにはそれで十分だった。
「……湊くん、さっきの噴水の前での……内緒話、本当に嬉しかったです」
詩織が上目遣いで俺を見つめる。
「……あれは、その、気圧のせいだ。忘却を強く推奨する」
*
四番目の指令。春奈の悪意の集大成。『お昼寝タイム。ちゃんと詩織ちゃんの膝、借りてね? 耳の赤さでバレるよ(笑)』
岸に戻り、再び芝生の上へ。俺は、もはや絞り出すことすら困難な声で告げた。
「……思考力を回復させるための、十五分間のメンテナンス……いや、休息を、取る」
「えっ……じゃあ、あの……」
詩織が恥ずかしそうに、けれどどこか嬉しそうに、自分の膝をぽんぽんと叩いた。俺は、もはや自分の意志とは無関係に動く身体で、彼女の膝に頭を預けた。
――ッ!
後頭部に伝わる、人間の圧倒的な体温。白ニット越しに伝わる、驚くほどの柔らかさ。
その接触は、どんな防壁よりも容易く、俺の脳内に張り巡らされていたプライドを根底から粉砕した。
「……湊くん、お疲れ様です……おやすみなさい」
彼女の指先が、おずおずと俺の額にかかった前髪を分けた。俺は目を固く閉じ、必死に脳内で「これは実験だ。理屈じゃないだけだ」と唱え続けたが、言葉なんて役に立たなかった。
*
夕闇が、新緑の公園を橙色に包み込み始めた頃。俺たちは出口へ向かっていた。
春奈からの最終指令。『自らツーショットを撮影し、送信せよ。構図は密着限定』
「……詩織。写真を撮る。……今日の、その、記念だ」
「いいんですか?湊くん……本当に?」
俺は震える手でカメラを起動した。「……もっと、寄れ。あいつがうるさいんだ」
俺は彼女の肩を、ぎこちなく抱き寄せた。白ニット越しに伝わる彼女の微かな震え。詩織は、俺の胸元にぴたりと顔を寄せ、俺の服の裾をぎゅっと握りしめた。
――カシャッ。
画面に保存されたのは、真っ赤な顔をして、それでもどこか誇らしげに彼女を抱き寄せる俺と、この世のすべてを手に入れたかのような笑顔の詩織の姿だった。俺は画像を即座に春奈へ送信した。『ミッション・コンプリートだ。……死ね、春奈』
「……湊くん。今の写真、私……私の一生の、宝物にします……」
泣きそうなほど嬉しそうに微笑む彼女に、俺の理屈はついに灰となった。
*
再び、スマホが震えた。
春奈から、一言。
『お疲れ様。最高のデータが撮れたよ。月曜日の学校、楽しみにしててね!』
俺の背筋に、冷たい予感が走った。あいつがこの写真をバラまく可能性は否定できない。平穏だったはずの俺の学校生活に、これ以上のどんな「非論理的」な事態が待ち受けているというのか。
*
ふと、前を歩いていた詩織が立ち止まり、軽やかにステップを踏むようにして振り返った。
「湊くん!」
その声に、吸い寄せられるように顔を上げる。
逆光だった。沈みゆく残照が彼女の白ニットの輪郭を黄金色に縁取り、風に舞う散り際の桜吹雪が彼女の周囲を祝福するように舞い踊る。
「今日は……本当に、本当に楽しかったです!」
彼女が、今日一番の、とびっきりの笑顔を浮かべた。
その瞬間、俺の理屈は消えた。
――俺の知っていた世界が、静かに崩れた。
今まで俺が見ていた世界は、ただの記号化された無機質な図表だったのか。
彼女の笑顔という、論理を焼き切るほどの光が、厚く固めていた俺の心の壁を、鮮烈な色彩で塗り替えていく。
心臓の音がうるさくて、熱くて、苦しい。
(……ああ。……負けだ)
自分が信じていた「正しい世界」が崩れ、彼女が中心に立つ「新しい世界」が生まれる。その光景の美しさに、俺の喉の奥から、言葉にならない震えがせり上がってきた。
皮肉なことに、俺は心の中で、あの性格の悪い観測者に、本気で感謝していた。
(……これに関しては。あいつに、礼を言わなきゃいけないな)
俺一人の理屈では、一生かけても辿り着けなかった。彼女にこんな顔をさせる、たった一つの正解に。
「……ふっ、……ははっ」
唇から、力の抜けた笑みが零れた。三年間守り抜いた「阿久津湊」という城が跡形もなく消え去ったことへの、清々しいまでの敗北宣言だった。
「……あーっ!湊くん、今、何がおかしいんですかー!教えてください!」
詩織が頬を膨らませて詰め寄ってくる。その不満げな表情すら、今の俺には世界の中心だった。
「……なんでもない。本当に、なんでもないんだ」
俺はまた、笑った。
阿久津湊、最終観測メモ。
――理屈は、笑顔に勝てない。
そして、俺という管理者は、一人の少女によって、完璧に、最高の形で、侵略された。
オレンジ色の空の下、俺は初めて、スマートフォンをポケットの奥深くへと仕舞い込み、鼻歌まじりの彼女の手を、無意識に、けれどしっかりと、握りしめていた。




