表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/46

第23話:理屈の盾、真心の一撃

 昼休みが始まって、まだ二分も経っていなかった。


 俺の机の上には、既に淡い水色の巾着袋が、逃げようのない事実として鎮座している。

 そこから漏れ出す、出汁の効いた優しい匂いは、俺がこれまで必死に維持してきた境界線を、いとも容易く踏み越えていた。


 それは、コンビニのパンや学食の脂っこい匂いとは決定的に違う、隠しようのない「誰かの手」の温もりを含んだ匂いだ。


 そして、ポケット越しに感じた、不吉な振動の残滓。数分前に届いた、あのトラブルメーカーからの短いメッセージが、呪いのように俺の脳内を支配している。


 『落城、おめでとう(笑)』


 添えられたあの動画。俺が詩織の笑顔に毒気を抜かれ、羞恥に震える姿が記録されたその存在が、いつこの教室の平穏を、俺の積み上げてきた平穏を根底から覆す爆弾として投下されるか。その恐怖が、俺の背中を嫌な汗で湿らせていた。


「ねえ、阿久津くん。正直なところを聞かせてよ」


 好奇心を隠そうともしない女子生徒数人が、俺の机を囲むように身を乗り出してきた。彼女たちの瞳の奥には、残酷なまでの期待が灯っている。


 背後では、他の連中も「やっぱりそうだよね」「最近、詩織ちゃん、なんだか急に綺麗になったって評判だったし」と、勝手な推測をひそひそと囁き合っている。


「綺麗になった」。


 その言葉が、俺の腹の底に、ひどく冷めた不快感を抱かせた。


 誰にも気づかれないよう、俺の隣だけで再生させていたはずの彼女の変化を、他人が勝手に見て、評価を下している。


 自分だけが知っていればいいはずの変化が、いつの間にか公のものになっている事実に、俺の指先が微かに震えた。


 それは、嫉妬という名の幼稚な感情ではない――と、自分に言い聞かせる。


 ただ、俺の守っていた場所が、勝手に土足で踏み荒らされていくことへの、耐え難い苛立ちだった。


 俺は無意識に強まった奥歯の噛み締めを解き、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


 耳の裏側が、昼休みのあの「あーん」の瞬間から続く余熱で、沸騰したまま冷める気配がない。


 俺は全神経を研ぎ澄ませ、この状況を収束させるための、最も事務的で隙のない言い訳を一気に吐き出した。


「……あんまり、こんなことをいちいち説明することでもないが。勘違いするな」


 一度、眼鏡のブリッジを押し上げ、周囲を威圧するような冷めた視線を向ける。


 喉は砂を噛んだようにカラカラだったが、俺の声は自分でも驚くほど早口で、事務的だった。


「これは現在進行中の、生活の負担を減らすための試行錯誤の一環だ。外食や購買のパンに頼り続けるより、余った食材を有効活用してお弁当を作る方が、経済的にも栄養面でも理にかなっているという結論に達した。彼女は、その、調理という役割を担当しているに過ぎない」


 言い終えた瞬間、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。


「生活を共にしている」という事実をあえてぼかし、ビジネスライクな役割分担として彼女との繋がりを否定する。


 これなら、周りの連中も「なんだ、阿久津のいつもの偏屈な屁理屈か」と呆れて引き下がるはずだ。


 春菜が動画を晒す前に、俺がこの場の主導権を握る。そう確信し、安堵の息を吐こうとした、その時だった。


「えっ? ……ええと、湊くん」


 ――教室の空気が、止まった。


 まただ。こいつは、当たり前のように俺を下の名前で呼ぶ。


 さっきの混乱の中で聞き流そうと必死だったその三文字が、俺が必死にひねり出した「ビジネスライクな言い訳」を、一瞬でただの「下手な嘘」へと変えていく。


「阿久津くん」ではなく、「湊くん」。


 俺が昨日まで必死に守り抜いてきた、名字という名の防壁を、彼女はたった三文字の音色で跡形もなく消し飛ばした。


 一秒。二秒。永遠にも感じられる静寂の後、ダムが決壊したような悲鳴と怒号が教室を揺らした。


「……みなと、湊くん……!?」

「名前呼び!? 呼び捨てに近いレベルじゃん!」

「阿久津、お前! いつの間にそんな関係になってんだよ!」

「詩織ちゃん、今、湊くんって言った!? 湊くんって!」


 女子たちの黄色い悲鳴と、男子たちの地を這うような呻き。俺は椅子がひっくり返りそうな勢いで後退したが、そこには既に好奇心の壁が築かれていた。


「湊くん、そんなに驚かなくても……。私、何か変なこと言いましたか?」


 詩織が、困ったように小首をかしげた。その瞳には、嘘や計算など一滴も混じっていない。


 ただ純粋に、俺がまた「難しい言葉で、昨夜の本当のことを隠そうとしている」ことへの、澄み切った困惑だけがあった。


「湊くんが昨日の夜、あんなに……熱く、私のことを……大切だって言ってくれたから。お返しに、私ができることをしたいなって思っただけなんです」


「…………ッ」


 心臓の音が、耳の裏側で激しく打ち付けられた。教室から、一切の雑音が消えた。


 入り口で足を止めた矢野の驚愕した顔。弁当の蓋を空けたまま固まる女子たちの、見開かれた瞳。それらすべてが、物理的に止まったかのような錯覚に陥る。


 詩織はさらに、俺の制服の袖をちょんと指先でつまみ、潤んだ瞳で俺を見上げた。窓から差し込む初夏の光が、彼女の長い睫毛を透かしていく。


「ね、湊くん、唐揚げも美味しかった? ……少しだけ、朝の湊くんの熱に当てられちゃって、味付け濃すぎなかったかなって心配で……」


「湊くん」。「昨夜」。「熱く」。「大切」。そして、「朝の熱」。


 彼女の口から零れた単語の一つ一つが、俺の積み上げた論理を、プライドを、そして三年間かけて守り抜いた自分の居場所を、無慈悲に、跡形もなく粉砕していく。


「お、……おい、今の聞いたか? 『湊くん』に『熱い夜』に……」


 矢野が、顔を引きつらせながら、信じられないものを見るような声を上げた。


「阿久津、お前……名前で呼ばせて、熱い夜を過ごして、朝からそんな当てられっぱなしで登校したってことかよ!」


 男子生徒たちの嫉妬が、怒号となって降り注ぐ。


「やだ、詩織ちゃん……阿久津くん、家では湊くんって呼ばせてそんなに熱いの?」


 女子たちの歓声が、黄色い悲鳴となって教室を揺らした。


 違う。朝の熱というのは、単に告白後の俺の動揺による熱気であって、それから――。


 言い訳をしようにも、唇が凍りついたように動かない。喉はカラカラに乾き、唾を飲み込むことすら困難だった。


 胃のあたりから酸っぱい何かがせり上がってくるような、猛烈な羞恥心。


 耳の裏側が、皮膚の一枚下で血液が沸騰しているんじゃないかと思うほどに熱い。


 視界の端で、詩織が「あれ? 私、また何か変なこと言いました?」と、不安そうに俺を見つめている。


 その、この世で最も愛おしく、そして今の俺にとって最も恐ろしい「天然の追撃」に、俺の理屈は完膚なきまでに敗北した。


「……阿久津ー。お前、ちょっと後で顔貸せよ。……生活指導の範囲内かどうか、じっくり精査してやるからな」


 背後から、矢島先生の、あきれ果てた笑いを含んだ声が聞こえた。


 俺は、真っ赤になった顔を隠すように、空になった弁当箱を乱暴に巾着へと押し込んだ。手のひらに残る弁当の温かさと、隣に座る彼女の柔らかな気配。


 今日一日で積み上げたはずの自尊心。周囲の嘲笑。大人たちの介入。それらすべてを差し引いても。


 ……この唐揚げが、不合理なほど美味かったことだけは、否定できそうになかった。


 午後の授業は、もはや針のむしろの上で過ごしているのと変わらなかった。


 休み時間のたびに突き刺さるニヤニヤとした視線。「湊くん、湊くん」と茶化すような囁き。廊下ですれ違うたびに投げかけられる、「お熱いねえ、湊くん」という冷やかしの声。俺は教科書の隅にある、落書きのような微細なシミを凝視しながら、ひたすら放課後のチャイムが鳴るのを待った。


 隣の席の詩織は、時折申し訳なさそうにこちらを見てくる。その視線を感じるたびに、俺の心臓は不規則なリズムを刻み、喉の奥が引き攣るような感覚に襲われた。結局、一度も彼女と目を合わせることができなかった。


 放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、俺は詩織を促して教室を飛び出した。これ以上の追撃は耐えられない。


「……湊くん、そんなに急いで……。私、やっぱり何か悪いことしちゃいましたか?」


 校門を出て、住宅街の影に入ったところで、詩織が不安そうに俺の袖を引いた。夕闇が迫る中、安っぽい柔軟剤の匂いと、微かな夕餉の準備の匂いが混じり合う。


「……いや、お前が悪いわけじゃない。……俺の、予測が甘かっただけだ」


「でも……私、湊くんのこと、湊くんって呼ぶの、ダメでしたか?」


「…………っ」


 不意打ちだった。

 上目遣いで、消え入りそうな声で問われ、俺の心臓は再び、昼休み以上の負荷をかけられた。


 ダメなわけがない。

 だが、それを手放しで肯定すれば、俺がこれまで必死に構築してきた「自分は自立した大人だ」という幻想は完全に崩壊する。


 俺は、焼けつくような喉の奥から言葉を絞り出そうとした。「明日からは学校では阿久津に戻せ」と、冷徹に命じるために。


 だが、その言葉が喉元までせり上がった瞬間、俺の脳内にある危機管理モニターが、無情な結果を弾き出した。


(……待て。一度クラス全員という広範囲の連中に『湊くん』という情報が共有された以上、明日から『阿久津くん』に戻すのは、周りから見て明らかに不自然だ。それは『何かを隠そうとしている』という新たな興味を惹きつけ、噂がもっとややこしくなるリスクが極めて高い)


 不本意だ。

 あまりにも不本意だが、今の俺が取れる最善の防衛策は、一つしかなかった。


「……明日から、急に呼び方を変える方が、不自然に目立つ。……これまで通りでいい。変えるな」


「えっ……。じゃあ、明日からも、学校で湊くんって呼んでいいんですか?」


 詩織の瞳が、パッと明るく光った。


「……許可した。ただし、……極力、俺に近づきすぎるな。これ以上、かき乱されるのは……俺の余裕を削るだけだ」


「はい! ありがとうございます、湊くん!」


 嬉しそうに、けれど今度はしっかりと俺の名前を呼んで、詩織が隣で歩調を早める。俺は、真っ赤になった顔を、カサカサと乾いた初夏の夕風に晒した。


 俺の社会的評価は、今日一日で暴落した。明日からも、俺は誰かに「湊くん」と呼ばれるたびに、この地獄のような熱に焼かれることになるだろう。


 だが、弾むように隣を歩く彼女の足音を聞いていると、その損失さえも、どこか許容範囲内であるかのような錯覚に陥る。


 ◇


 スーパーの裏にある、古びた公園。

 滑り台の上に陣取った春奈は、俺の姿を見つけるなり、意地の悪い笑みを浮かべてスマートフォンを振った。


「やあ、阿久津くん。……今日はえらい賑やかだったみたいじゃない。職員室まで噂が回ってるよ? 『管理者』さまが、同居人に『湊くん』なんて呼ばれて陥落したってさ」


「……陥落などしていない。俺はただ、不必要な注目を避けるために、現状の維持を決定しただけで……」


「はいはい、その言い訳、世界一苦しいよ? ……それより、大事なのはこの動画の扱いだよね。これ、もしクラスのグループラインに流れたら、阿久津くんのプライド、マイナス一億点くらいになっちゃうかも?」


 彼女は、まるで俺の逃げ道をすべて塞いだことを確認したように、満足げな笑みを浮かべた。

 俺は背中に嫌な汗が流れるのを感じながら、その顔を睨み返す。


「……要求を言え。お前の狙いは、単なる嫌がらせではないはずだ」


 春菜は、スマートフォンの画面を指先でなぞりながら、ふっと口角を上げた。その仕草一つに、俺の首根っこを掴まれているという現実が突きつけられる。


「嫌がらせ? 違うよ。私はただ、阿久津くんがその『強固な理屈』を、どこまで守り通せるのか見たいだけ」

「……意味が分からない」

「分からなくていいよ。でも、一つだけ忠告してあげる」


 彼女はスマホを放り投げるようにしてキャッチし、俺を射抜くような鋭い眼差しを向けた。


「詩織ちゃん、今日のお弁当作り、かなり頑張ったんじゃない?」

「……」

「それなのに、阿久津くんは『面倒が増えた』みたいな顔をしてる。……最低だね」

「違う」


 反射的に口をついて出た。その即答に、春菜が愉悦に歪んだ笑みを浮かべる。


「ほらね」

「……何がだ」

「本当に迷惑で、どうでもいい存在なら、そんな必死に即答しないよ。君の防衛本能は、君自身よりも正直だね」


 心臓がドクリと跳ね、喉に鉛を飲み込んだように言葉が詰まる。


「ちゃんと伝えたら? 『ありがとう』とか、『楽しかった』とか。ごく単純な、人間らしい言葉を」


 そこで彼女は、教科書に書かれた正解を教えるような、慈悲深い意地悪な笑みを浮かべた。


「まあ、今の阿久津くんにとっては、エベレストに素手で登るより難しい課題だろうけど」

「……」

「それができたら、動画は消してあげる」

「……本当か?」

「うん。ただし、私が納得できるくらい、詩織ちゃんをちゃんと『喜ばせる』こと。これが最低条件」

「……曖昧な条件だな」

「だって実験だもん」

「またそれか」

「そう。阿久津湊という人間が、どこまで人間らしく『変化』できるのかを追う……高校生カップルの生態調査。君はその第一被験者だよ」


 ふざけた口調。だが、その瞳だけは氷のように冷徹で、観察者の質感を帯びていた。


「じゃあ、頑張ってね」


 背を向けて歩き出す彼女の背中に、俺は苛立ちをぶつけることもできず、ただ立ち尽くすことしかできない。


「あ、言い忘れてた」


 振り返った春菜が、夕陽を背景に意地悪く微笑む。


「詩織ちゃん、土曜日、暇そうだったよ。……誘うなら早めにした方がいいんじゃない? せっかくの『実験成果』を聞き出す機会を、無駄にしたくないでしょ?」


 彼女が去った後も、公園の冷たい空気が肌にまとわりつく。


 俺は、まだ自分が何をすべきか整理しきれていなかった。

 このままでは動画が流出するという恐怖。春菜という得体の知れない存在に踊らされている屈辱。


 それなのに。


 土曜日、詩織を誘わなければならない。

 動画を消すためでも、春菜の実験に付き合うためでもない。


 ……たぶん。


 俺自身が、そうしたいと強く渇望しているからだ。


 俺が三年間かけて築いた「管理者の城」は、崩れたのではない。

 ただ、その内部に、俺自身でも見ないふりをしていた部屋があることを認めてしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ