表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/44

第22話:落城のランチタイム

 四時間目の終了を告げるチャイムが、俺の平穏な学生生活の終焉を知らせる弔鐘のように、教室に響き渡った。


 教壇に立つ教師が、使い古された教科書をパタンと閉じた。その乾いた音が、静まり返っていた教室に、日常の雑音を呼び戻す合図となった。


 椅子を引くガタガタという音や、ノートを鞄に突っ込む音、そして堰を切ったように溢れ出す、中身のない会話。


 いつも通りの、見慣れた昼休みだ。


 これまでの三年間、俺はこの時間を、午後のパフォーマンス維持のためのクールダウンの時間として定義し、その孤独を、誰にも侵されない聖域として誇りにしてきた。


「……阿久津、購買行くか。今日は唐揚げパンの入荷日だぞ。争奪戦に勝つには、あと三秒で席を立つのが合理的だ」


 机を指先でリズミカルに叩きながら声をかけてきたのは、数少ない知人の一人、矢野だった。


 俺は昨日までと同じ冷めた仮面を貼り付け直し、視線をノートの端に固定した。


「……いや。俺は、午前中の内容を整理している最中だ。先に行っていろ」


「相変わらず、可愛げのない返事だな。まあいい、じゃあな。唐揚げパンの恨みは買うなよ」


 矢野が、呆れたように肩をすくめて教室の出口へと消えていく。


 よし、これでいい。

 昨夜、ようやく認めてしまった感情も、今朝の駅までの火照った体温も、この学校という戦場には一滴たりとも持ち込まない。

 俺たちはこれまで通り、ただの同居人――いや、同じ屋根の下に住む赤の他人のふりをして過ごす。


 それが、大人たちの介入を許さず、俺が築き上げてきたこの城を守り抜くための、最善かつ唯一のやり方のはずだった。


 鞄の奥から、昨日スーパーの特売で購入しておいた、味気ない惣菜パンを取り出そうとした、そのときだった。


「……あの、阿久津くん」


 頭上で、鈴が転がるような、弾むような声がした。


 昨夜の暗闇で聞いたときよりもずっと近く、それでいて、今朝の静かなキッチンと同じ湿度を含んだ、柔らかな声。


 見上げると、そこには頬を上気させ、乱れた呼吸を整えようとしている詩織が立っていた。

 いつもなら、教室の隅で俺の顔色を伺い、影を潜めるようにして過ごしているはずの彼女が。

 今は、クラスメイトたちの視線など気にする余裕もないほど、まっすぐな笑顔を浮かべていた。


 詩織は、俺の机の上に、淡い水色の巾着袋を二つ、誇らしげに置いた。


 ――終わった。


 教室の空気が、止まった。


 入り口で足を止める矢野の背中。弁当を広げようとしていた女子グループの笑い声。それらすべてが、物理的に止まったかのような錯覚。


 クラス全員の視線が、一点に、俺の机の上に置かれたその巾着に集中した。

 その視線は鋭い刃物のように、俺の背中や喉元を容赦なく突き刺してくる。


「……冬馬。なんだ、これは。今、考え事をしている」

「ふふっ。湊くん、お昼、パンだけじゃダメですよ?」


 詩織は、俺の冷たい制止など全く耳に入っていない様子で、ゆっくりと、けれど確かな手つきで結び目を解き始めた。


 中から現れたのは、見覚えのある……けれど、この家にはなかったはずの、二段重ねの立派な弁当箱だった。


 蓋が開けられた、その瞬間。


 甘い出し巻き卵と、鶏の照り焼きの香ばしい匂いが、無機質な教室の空気を一気に支配した。


 それは、コンビニのパンや学食の脂っこい匂いとはまるで違う、隠しようのない家庭の匂いだった。


「……阿久津、お前……マジかよ」


 入り口で、矢野が死んだ魚のような目で絶句している。


「冬馬さん、それって……もしかして、阿久津くんの分?」


 女子の一人が、信じられないものを見るような、ひっくり返った声を上げた。


 耳の裏側が、内側から爆発しそうなほど熱い。

 三年間、たった一人で戦い、築き上げてきた孤独の城が、今、出し巻き卵の湯気と共に、跡形もなく崩れ去っていく音が聞こえた。


 昨夜、俺が全部をさらけ出し、恋をしていたなどと認めてしまった報いだ。


 彼女はもう、俺を怯える対象ではなく、守られるだけの存在でもなく、自分が隣に立つべき相手として見ている。


 そしてその認識は、俺の社会的評価などお構いなしに、この教室という戦場へぶち撒けられた。


「……冬馬。学校でこんな真似をしないという前提で、生活を……」


 俺の声が、静まり返った教室に、空虚に響く。


 誰も喋らない。

 男子たちの、殺気立った嫉妬の視線。女子たちの、下世話な好奇心という名の火に油を注ぐような視線。


 それらすべてが、俺を逃げ場のない中心へと追い詰め、一ミリの慈悲もなく晒し上げていた。


「…………」


 一秒、二秒。

 永遠にも感じられる静寂の中、詩織がそっと、俺の顔を覗き込んできた。


 潤んだ、けれどキラキラとした、真っ直ぐな瞳。


「……ダメ……ですか? 湊くんのために、朝一時間も早く起きて、一生懸命、詰めたんですけど。……湊くんが好きそうなもの、いっぱい入れたんですよ?」


「…………ッ」


 ダメなわけがない。

 こんな笑顔を向けられて、周囲の雑音を言い訳に拒絶できるほど、俺の心臓は鋼鉄製ではなかった。


 俺が必死に守ろうとしてきた自立も孤高も、彼女のわずか一ミリの落胆を前にすれば、ゴミ同然の価値しかなかった。


「…………一回だけだ。明日からは、絶対に持ってくるな。……分かったな」


 俺は、震える手で割り箸を手に取った。

 本当は、このまま机の下に潜り込んで、誰の目も届かない場所へ隠れてしまいたいほどの羞恥心に焼かれている。


 だが、口に運んだ出し巻き卵は、情けないほど甘くて、優しく、俺の乾いた喉を、そして凍りついていた理屈を、一瞬で溶かしていった。


「……ふふ、よかったです。……あ、湊くん。唐揚げも、あーん……」


「……やめろ! それは、自分で食う!!」


 必死に拒絶する俺の横で、詩織は残念そうにしながらも、幸せそうに自分の弁当を食べ始めた。


 教室内は、ダムが決壊したような騒ぎになった。


「おい、阿久津! どういうことだ、説明しろよ! なんで冬馬さんがお前の弁当作ってんだよ!」

「冬馬さん、湊くんて、阿久津くんと付き合ってるの!? 秘密にしてたの!?」

「手作り弁当って、レベル高すぎだろ……。阿久津、お前、いつからそんなことになってたんだ……!」


 男子たちは机を激しく叩いて俺を問い詰め、女子たちは詩織を取り囲もうと、すでに席を立ち始めていた。


 矢野はと言えば、「あー……終わったな、阿久津。お前、もう逃げらんねえよ」と、あきれ果てた顔で天井を見上げていた。


 俺は、ただ無言で、喉を通らない白米を詰め込むしかなかった。


 おかずの彩り。栄養バランス。隙間なく詰められた、そのお弁当の細部を見るだけで、彼女が朝、俺のためにどれだけ丁寧に手を動かしたのかが分かってしまう。


 悔しくて、情けなくて――それでも、泣きたくなるほど嬉しかった。


 十分後――


 なんとかして弁当を胃に流し込み、放心状態で机に突っ伏していると、背後から、重厚で、聞き慣れた足音が近づいてきた。


「……なんだ。まだ何かあるのか、詩……冬馬」


「私だ、阿久津」


 低い、楽しげな、そして決定的に意地の悪い声。

 顔を上げると、そこには腕を組んで、ニヤニヤとした笑みを浮かべた矢島先生が立っていた。


「……矢島、先生」


「お前、朝からえらい賑やかだな。職員室まで噂が回ってるぞ。孤高の管理者・阿久津が、冬馬さんの手作り弁当で陥落したってな。お前、自分の評価の暴落ぶりを自覚しているか?」


「……陥落なんて、していません。俺はただ、出されたものを食べただけで……。これは、合理的な行動であり……」


「……ははっ、相変わらずだな、お前は」


 矢島先生は、ポンと俺の肩に手を置くと、腰をかがめて俺の耳元で低く囁いた。


「理屈で自分を守ろうとして、結局、一番大事なところを晒してる。……阿久津、お前、本当……めんどくさい奴だな」


「…………っ」


「だが、……昨日の実験の結果よりは、ずっとマシな顔してるよ。……しっかり食え。午後の授業、その赤い顔のまま知恵熱で倒れられても困るからな」


 先生はそれだけ言うと、満足そうに肩を揺らして、嵐が過ぎたあとのような教室を出ていった。


 俺は再び、机に顔を沈めた。


 隠しきれない、耳元の熱。

 そして、口の中に残る、暴力的なほど甘い味。


 学校中が、俺と彼女の関係を疑い始めている。

 俺が三年間かけて守ってきた自分だけの領域は、一人の少女の笑顔とお弁当によって、跡形もなく、愛おしいほど完璧に、侵略されてしまった。


 机の下で、俺は空になった弁当箱を、誰にも見えないようにそっと指先でなぞった。

 そこには、彼女が朝、俺を想って費やした一時間の、温かな重みが残っていた。


 明日もまた、この甘い地獄が続くことを、どこかで期待している自分に、俺はもう嘘をつくことができなかった。


 俺が机に伏したまま、自分の内側で暴れる感情を必死に抑え込んでいると、不意に、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。

 ポケットから取り出し、通知画面を見る。


 送り主は、春奈。


 メッセージには、一言だけ。

『落城、おめでとう(笑)』


 そしてその下には、数秒の動画ファイルが添付されていた。


 恐る恐るそれを開くと、そこには、俺が詩織の笑顔の前で完全に敗北し、耳を真っ赤にして弁当を口に運んでいる、あまりにも情けない姿がばっちり収められていた。


(……あの、トラブルメーカーめ……)


 窓の外。

 初夏の空はどこまでも高く、俺の平穏だった孤独な日常は、二度と戻らない場所まで遠ざかっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ