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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第21話:天井を見上げない朝

 午前六時。


 カーテンの隙間から差し込む光は、目が痛くなるほど白く、昨日まで俺が必死に守ってきた孤独の痕跡を、部屋の隅々まで無慈悲に照らし出していた。


 寝返りを打つたびに、シーツがかすかな音を立てる。


 三年間、一人で眠り、一人で起きてきた。その、いつもの静かすぎる朝の中で、俺は自分を完璧に律していると信じていた。

 だが、今の俺は、自分の心臓の音すらコントロールできなくなっている。


 まぶたの裏側には、今も鮮明に焼き付いている。


 深夜二時。月明かりの下、喉を焼くような熱さで絞り出した、自分の声。


『俺は、お前に恋をしていたんだ』


 その一言を認めた瞬間、俺を縛り付けていた「自分を守るための理屈」は、音を立てて崩れ去った。


 大人たちから自由を奪われないために作り上げてきた防壁。効率も自立も、一人の少女の体温を前にしては、踏めば崩れる砂の山に過ぎなかった。


 湊は、ゆっくりと上体を起こした。

 身体が重い。胃のあたりが、得体の知れない熱を持ってきりきりと痛む。


 自分の右手を見る。

 詩織の小さな手を握り返した時の、あの感触。


 皮膚の一枚下にまだ彼女の拍動が張りついて、俺の全身を焼き続けている。

 廊下へ出ると、かすかな生活の音が聞こえてきた。


 まな板の上で何かが刻まれる、トントントンという音。

 そして、わずかに漂ってくる、アプリコットの香りが混ざった朝の匂い。

 リビングのドアの前で、湊は一度立ち止まった。


 昨日まで何も考えずに繰り返してきた動作が、これほどまでに高く険しい壁に感じられるのはなぜか。


 俺は今、どんな顔をしている。

 鏡を見なくてもわかる。間違いなく、人生で一番情けない顔をしているはずだ。


 意を決して、ドアを開ける。

 キッチンに、彼女がいた。


 朝の光を背負い、昨日俺が貸した大きすぎる白のTシャツの裾を揺らしながら、彼女は振り返った。


 まだ少しだけ赤らんだ、けれど真っ直ぐな瞳。


「おはよう、湊くん」


 透き通るような、昨夜の湿り気をそのままに含んだ、柔らかな声。


 湊は、そのたった五文字の挨拶に、全身の血が逆流するような感覚に陥った。


「……あー、……おはよう」


 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。

 俺はたまらず、視線を斜め下のダイニングテーブルの木目へと逃がした。


 沈黙が、安物の柔軟剤の匂いと共にリビングへ広がっていく。


 これまで何百回と繰り返してきた朝の風景が、たった一晩で、これほどまでに息苦しく、熱いものに変わるなんて、俺の計算には入っていなかった。


 湊は、握りしめたフォークが指に食い込むのを感じながら、搾り出すように本音を零した。


「……正直、今お前にどんな顔をすればいいのか、全く分からないんだ」


 昨日まで守り抜いてきた「冷徹な仮面」はもう、どこにも落ちていない。


 丸裸にされた俺の狼狽が、静まり返った空気の中で、嫌なほど露わになる。


 詩織は一瞬だけ驚いたように目を見開いやがて、かつてないほど真剣な、柔らかな微笑みと共に返した。


「……笑えばいいと思うよ。湊くん」


 不意に投げかけられた、あまりにも聞き覚えのあるセリフ。


 それは、今のこの極限の気恥ずかしさを、驚くほど軽く、けれど的確に突き刺す言葉だった。 


「……それ、どこで覚えた」


「春奈さんが。……『湊くんは絶対、その言葉に食いつくから。理屈で逃げようとした瞬間に、逃げ道を塞いであげて』って」


「……あの女、俺を面白がっているだけだろ」


 湊は深く、吐き捨てるようなため息をついた。

 だが、そのおかげで、ようやく肩の力が抜けた。


 昨日、矢野に実験の失敗を笑われた屈辱。そして、すべてをかけて恋を認めた今の、この無様さ。それを春菜のせいにすることで、ようやく俺は一人の高校生としての機能を取り戻しつつあった。


「……よし、飯だ。学校に遅れるぞ」


 湊は立ち上がろうとして、不意に、詩織が自分の服の裾を、消え入りそうな力で小さく掴んでいることに気づいた。


 彼女の指先は、白くなるほど強く、震えている。


「湊くん。……私、すごく……幸せです。今朝、おはようって言ってもらえるか、怖かったから」


 その声は、春の雪解けのように脆く、温かかった。

 彼女もまた、余裕があったわけではない。


 自分の価値を信じきれず、昨日見せた湊の本気が、一夜明ければ幻のように消えてしまっているのではないか。


 そう怯えながら、一人でキッチンに立っていたのだ。

 湊は、その小さな指の上に、自分の手をそっと重ねた。


 昨日までのような、冷え切った指先ではない。詩織の体温が、皮膚を通じて直接、自分の内側に流れ込んでくる。


「……俺もだ。バカみたいに、心臓がうるさい」


 正直すぎる言葉に、詩織が泣きそうなほど嬉しそうに顔を輝かせる。


 玄関の冷たいタイルの感触。靴を履き、ドアを開ければ、そこには今まで通りの「学校」という名の戦場が待っている。


 住宅街の静けさの中で、二人の足音だけが重なり合う。


「湊くん。……あの、……手、繋ぎませんか?」


 詩織が、俯いたまま、ぽつりと呟いた。


「……目立つだろ。学校の近くでそんな真似をすれば、余計に騒がれるだけだ。面倒なことになるのは、お前だって嫌なはずだ」


 俺の理屈が、反射的に壁を作る。


 だが、シュンと肩を落として手を離そうとする詩織を見た瞬間、俺の心臓は引きちぎられるような痛みを訴えた。


 俺の理屈は、再び敗北した。

 一度だけ強く目を閉じると、俺は彼女の小さな手を、ひったくるように握った。


「……っ、湊くん?」

「……駅の階段までだ。それ以上は、断じてダメだ。……分かったな」

「……っ、はい!」


 指と指が絡み合う。掌と掌が密着し、お互いの鼓動がダイレクトに伝わってくる。

 湊は、前を向いたまま、顔を真っ赤にして歩幅を早めた。


 駅の階段で約束通りパッとその手を離したが、離した後の手のひらには、彼女の温もりが火傷の跡のように残っていて、冷たい外気がやけに寂しく感じられた。


 電車に揺られ、高校の最寄り駅を降りる。校舎が見えてくるにつれ、湊は無意識に、いつもの顔に戻ろうとした。表情を殺し、背中を伸ばし、周りの雑音を遮断する。

 だが。


「あーあ。見てるこっちの血糖値が上がりすぎて、不健康にもほどがあるんだけど」


 校門の前。街灯の柱に背を預けていた一人の少女が、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべていた。


「…………春奈」

「おめでとう、湊。完璧だった孤独の城の、落城記念日だね。で? 朝から手を繋いで登校なんて、だいぶ効率を無視した甘い運用じゃない?」


 湊は、返事に詰まった。

 昨日までの俺なら、鼻で笑って切り捨てられたはずだ。だが、今の俺には、それを否定する言葉が一つも残っていない。


「……うるさい。行くぞ、詩織」

「おはよ、詩織ちゃん。……あ、湊くん、そんなに怖い顔して私を睨まないで。嫉妬? 嫉妬なの? ウケる」


 春奈の笑い声が、登校中の生徒たちの視線を二人へと集める。

 湊は、自分のポケットの中で、再び拳を握りしめた。


 昨日までの平穏は、もう二度と戻ってこない。仮面は割れ、理屈は崩壊し、俺の平和は、一人の少女によって完全に侵略されてしまった。


 だが、隣を歩く彼女の、昨夜よりもずっと力強く自分を見つめる瞳。


 それがある限り、これからの毎日を、もう一度生きてみようと、心の底から思ってしまう。


 校舎の廊下。背後から近づいてくる矢島先生の気配を感じながら、湊は一歩、教室へと踏み出した。


 これは、終わりではない。

 理屈と体温の狭間で、一人の少年が「人間」へと戻っていくための、長くて甘い闘いの始まりだった。

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