第28話:平常運転の上書き
……眠れなかった。
正確には、眠れるはずがなかった。
意識が深い闇に沈み込もうとするたびに、あの浴室の白い湯気と、背中を撫でた手のひらの熱が、容赦なく俺の意識を引きずり戻す。
まぶたの裏側では、だぶだぶのTシャツの襟元から覗いた冬馬詩織の鎖骨が、まるで消えない残像のように焼き付いて離れない。
結局、時計の針が午前五時を回るまで、俺は自分の心拍数を数え続ける羽目になった。
五時三十分。
浅い眠りとも呼べない微睡みを無理やり切り捨て、俺はベッドから這い出した。
いつも通り、寝癖を直し、顔を洗う。鏡の中の自分は、驚くほど生気がない。クマの浮いた目元を冷たい水で叩き、自分に気合を入れる。
だが、それでいい。俺に必要なのは、昨日までと同じ「管理者としての日常」だ。
キッチンに向かい、いつもと同じ手順で朝食の準備を始める。
……本来なら、もうキッチンにあいつがいる気配がしてもおかしくない時間だ。
冷蔵庫から卵を取り出し、焼き魚の様子を見る。米の炊きあがる匂い、出汁の香りがキッチンに満ちていく。この規則正しい動作の反復だけが、俺の心を落ち着かせるための唯一の儀式だった。
午前七時。
キッチンには、炊き上がった米の匂いと、味噌汁の湯気が立ち込めている。
いつもなら、この時間はすでに朝食を終え、食器を洗い、一日のスケジュールの最終確認に入っているはずだった。だが、今の俺は、自室の前の廊下で、一歩も動けずに立ち尽くしていた。
「……遅い」
ボソリと、自分に言い聞かせるように呟く。
冬馬詩織の部屋――かつての客間からは、何の物音も聞こえてこない。
……このまま、顔を合わせない方が楽だとは思った。
置き手紙でも残して、さっさと学校へ逃げ込めば、少なくともこの「呼吸が苦しくなるような沈黙」からは解放されるだろう。
だが、そうすれば余計に引きずる。
昨夜のあの浴室での出来事。耳元で弾んだ「嬉しいです」という、あの呪いのような囁き。それらを、なかったことにするために――俺には理由がいる。
朝飯を無駄にしたくない。
遅刻は非効率だ。
居候を管理するのは主人の義務だ。
何でもよかった。
俺が彼女の部屋のドアを開けるための、安っぽい逃げ場としての理屈。
俺はそれを両手で必死に掴み取り、崩れそうな理性を無理やり補強した。
昨夜の異常な熱を、単なる「生活上のルーチン」へと押し戻すための、必要なプロセスなのだ。
一歩、踏み出す。
板張りの廊下が、わずかに軋む。
ドアの前に立ち、軽くノックをした。
「……おい、冬馬。起きろ、朝だぞ」
返事はない。
二度目のノック。心拍数が、勝手に上がっていく。
……やはり、反応がない。
まさか、昨日までの緊張の反動で倒れているのでは。そんな最悪の想定を口実にして、俺は迷いを断ち切った。
「……失礼するぞ」
俺は、ドアノブに手をかけた。
カチリ、と小さな音が響き、ドアがゆっくりと開く。
――瞬間。
肺の奥に流れ込んできたのは、リビングの芳香剤とは違う、もっと甘くて、湿った、柔らかな空気だった。
カーテンの隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。
その光の道の中に、ベッドに沈み込むようにして眠っている冬馬詩織がいた。
「……っ」
俺の足が、入り口で止まった。
布団から、白い肩が覗いている。
俺が貸した、だぶだぶのパーカー。その襟元が大きくはだけて、昨夜、網膜に焼き付いたあの鎖骨が、さらに無防備な姿でそこにあった。
乱れた髪が頬にかかり、微かな寝息に合わせて、パーカーの胸元がゆっくりと上下している。
――。
俺は、自分の呼吸が止まっていることに気づいた。
「生活の管理」なんて、もうどこにもなかった。
そこにあるのは、俺の一軒家の中に存在する、俺の知らない「少女の眠り」という名の、あまりにも暴力的なまでのプライベート空間だった。
かつて、この家は俺にとって、ただ「生き延びるための城」だった。
外部のノイズを遮断し、自分一人の秩序を維持するための、無機質な箱。
だが、今のこの光景はどうだ。
朝の光を吸い込んで、微かに波打つ彼女の肌。閉ざされたまぶたの裏で、彼女は今、どんな夢を見ているのか。
俺が知らない彼女の時間が、ここには流れている。
光の粒が、彼女のまつ毛の上で踊っている。
昨日、俺の手をぎゅっと握り返してきた、その指先。今は布団の外に放り出されて、少しだけ寒そうに丸まっている。
……手を伸ばせば、届く。
その考えが脳裏をよぎった瞬間、喉の奥が焼け付くように乾いた。
自分の不甲斐なさが、心臓の鼓動と一緒に突き上げてくる。
俺は今、何を期待している。
眠る彼女の、その無防備な肩に触れて、どうなりたいと思っている。
俺の中にいる「管理者」が、かつてないほど無様に、そして必死に警告を鳴らしている。
ここから先は、もう俺の領域ではないのだと。
「……っ、おい、冬馬!」
わざと荒っぽく、自分の動揺を塗りつぶすように声を出す。
「ひゃ……っ!?」
詩織の身体が大きく跳ねた。
彼女は目を見開き、焦点の定まらない瞳で俺を捉える。
そして、自分がどんな格好で眠っていたか、そして俺がどこに立っているかを理解した瞬間――彼女の顔が、火がついたように赤くなった。
「み、湊くん……!? いつから……」
「……今だ! さっさと起きろ。飯が冷めるだろ!」
俺は彼女の返事を待たず、逃げるようにドアを閉めた。
廊下。冷たい壁に背中を預け、俺は天を仰いだ。
ドクドクと、耳の奥まで心臓の音が響いている。
網膜に焼き付いた、朝の光の中の白い肌が、どうしても消えてくれない。
さっきの、彼女の驚いた顔。丸まっていた指。そのすべてが、昨夜の浴室から続いてきた「毒」のように、俺の身体を蝕んでいた。
「……くそ」
管理なんて、できるわけがない。
十分後。
食卓には、焼き魚の匂いと味噌汁の湯気が並んでいた。
いつも通りの朝食。いつも通りの、完璧な栄養バランス。
だが、向かい合って座る二人の間には、昨日までとは決定的に違う「密度」があった。
俺は一言も発さず、ただひたすらに箸を動かした。
焼き鮭の皮を丁寧に剥がし、口に運ぶ。その動作の一つ一つが、不自然なほど意識的になってしまう。
一方の詩織は、さっきの失態を恥じているようだったが、それ以上に……どこか、満足げに見えた。
……本当は、朝ごはんくらい私が用意するつもりだったのに。
箸を持つ指先に、少しだけ力がこもる。
「……湊くん。あの、お味噌汁、美味しいです」
「……そうか」
短く返し、俺は茶を喉に流し込む。
温度差が、ひどかった。
俺は昨夜から一睡もできず、今さっきも自爆したばかりだというのに、彼女は照れながらも、この「日常」をどこか楽しんでいるように見えた。
彼女にとって、俺が部屋に入ってきたことは、もはや「侵入」ではなく「生活の一部」なのだろうか。
もしそうなら、俺が必死に守ろうとしているこの「平常運転」は、すでに彼女の体温によって、ドロドロに溶かされていることになる。
食器を洗う手の震えが、なかなか止まらない。
スポンジで皿を擦る音が、やけに響く。
「……湊くん、私、洗いますよ?」
「いい。……お前は、さっさと支度しろ。遅れるぞ」
背後からかけられる声に、肩がびくりと跳ねる。
「生活の管理者」としての主導権を取り戻そうとするたびに、彼女の存在そのものが、俺の理屈を無効化していく。
学校に行けば、またあの「視線の包囲網」が待っている。
外からのざわめきに晒され、昨日の出来事を掘り返される。
けれど、今の俺にとっての最大の脅威は、学校での噂でも他人の視線でもなかった。
背後で「いってらっしゃい」の準備をしている、この小さな少女。
彼女の呼吸が、彼女の歩く音が、彼女の立てる物音が、俺の城を内側から崩壊させていく。
一軒家の玄関。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
かつて、俺にとってこのドアを開けることは、戦場へと繰り出すための覚悟の瞬間だった。
誰一人としていない荒野へ、自分一人で踏み出していくための儀式。
だが今は――。
「……いってきます」
「はい。……いってらっしゃい、湊くん」
昨日の「おかえり」は、どこか遠慮が混じっていた。
けれど今の「いってらっしゃい」は、まるでずっと前からそうしていたみたいに自然だった。
それが、俺の最後の防衛線を、いとも容易く踏み越えていった。
俺を縛り付けていたはずの「孤独」という名の自由。
それが、彼女のたった一言で――
……上書きされた気がした。
……腹が立つ。
理屈が、まるで役に立たない。
何に振り回されているのかも、もう分からなかった。
俺はただ、背中に彼女の視線を感じながら、逃げるように家を後にした。
アスファルトを叩く自分の足音が、昨夜よりも重く、鈍く響いた。
学校へ向かう坂道、俺は肺にある空気をすべて吐き出すように、深く、重いため息をついた。
坂を下れば、またあの視線に満ちた世界だ。
けれど、俺の脳内を占めているのは、他人の噂話ではなく、玄関で「いってらっしゃい」と微笑んでいた詩織の顔だった。
……何一つ、計算通りにいかない。
俺は鞄のストラップを強く握りしめ、自分に言い聞かせるように、一歩ずつ前に進んだ。
平常運転。平常運転だ。
そう唱える自分の声すら、どこか他人のもののように聞こえていた。
……そしてその予感は、校門をくぐった瞬間に的中することになる。




