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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第19話:これは嫉妬ではない

 月曜日の朝。

 教室の空気は、週末の湿り気を吸い込んだまま、どんよりと停滞していた。


 阿久津湊は、自分の席で静かに参考書を開いていた。

 視界の端には、いつも通り自分の数メートル先に座る冬馬詩織の姿がある。


 湊の右手の指先には、まだ、昨日のあの感覚が残っていた。

 モールでの、あの喧騒。

 彼女の口元を拭った時の、驚くほど柔らかい肌の弾力。


 指先から心臓を直接掴まれたような、あの暴力的なまでの熱。

 それは湊にとって、まだ整理のつかない感情のまま、頭の片隅から離れなかった。


(……昨日のあれは、ただの例外だ。非日常による、一時的な判断能力の低下に過ぎない)


 湊は、自分にそう言い聞かせ、冷静にページの行間をなぞる。

 彼女の鞄の中には、昨日選んだハンドクリームが入っているはずだ。

 その事実を確認するだけで、湊の胸の奥には、奇妙な安定感がもたらされていた。


 それは、管理できているという確認作業のはずだった。


 だが、その静寂は、一人の侵入者によって無残に踏み荒らされる。


「あ、冬馬さん! おはよう!」


 無闇に明るい声が、教室の空気を震わせた。

 クラスのムードメーカー、佐々木。

 悪意など微塵もない、純粋な善意と好奇心の塊。

 彼が、詩織との距離を気にすることなく、いつもの調子で話しかけていく。


 湊は、ページをめくる手を止めた。


「あ、おはようございます……えっと、佐々木くん」

「そうそう、佐々木。ねぇ、昨日さ、駅前のモールにいなかった? ショッピングセンター。……あれ? 冬馬さん、昨日誰といたの? 彼氏?」


 教室の空気が、わずかにざわつく。

 湊は、無意識に手に持ったシャープペンを握りしめた。

 ページをめくる。だが、文字が、読めない。

 インクの染みが網膜の上で無意味に踊っている。


「えっ、あ、はい。……いました」

「だよね! 遠くから見えたんだけど、なんか雰囲気違っててさ。……あ、まだ付いてるよ。昨日もここらへん、赤かったよね?」


 佐々木が、笑いながら詩織の顔を覗き込む。

 近い。


 佐々木の指が、詩織の唇の端に触れかけた。


 その瞬間、湊の世界から色が消えた。


 自分でも気づいていなかった場所へ、踏み込まれようとしている。

 境界線を、悪意のない笑顔で蹂躙するその振る舞い。


 湊自身も理解できない感情が、胸の奥で激しく揺れた。

 自分の心臓の一部を、見知らぬ他人に無遠慮に覗き込まれたような、生理的な「遮断」の欲求だった。


 ――パキッ。


 静かな教室に、硬質な音が響く。

 湊の手の中で、握りしめていたシャープペンの芯が、根元から粉々に砕け散った。


 同時に、湊の身体に異常な反応が起きた。

 昨日、あんなに熱を帯びていた右手の指先が。

 彼女の肌を思い出すだけで、熱くなっていたはずの指先が。

 一瞬で、死人のように冷え切った。


(……近づきすぎだ。あいつは、そういう距離感に慣れていない。……余計なことをするな)


 湊は立ち上がった。椅子が床を擦る嫌な音が響いたが、今の彼には、そんな配慮をする余裕など一ミリも残っていない。


 湊は無表情のまま、二人の間に、冷たい楔を打ち込むように割り込んだ。


「……阿久津、くん?」


 詩織の声が、微かに震える。


「冬馬。……昨日教えた数学の課題。式の立て方が間違ってる。今すぐ直せ」


 湊の声は、自分でも驚くほど平坦で、低かった。

 周囲の空気を物理的に数度下げるような、一切の感情を排した事務的な拒絶。


「え、あ、でも、今は……」

「今だ。……後回しにして時間を無駄にするな」


 湊は、佐々木の困惑した視線を、視界の端にすら入れなかった。

 ただ、詩織の細い手首を、逃がさないように掴んだ。


「ちょ、阿久津。冬馬さんが困ってるだろ。今、俺と話して……」

「……関係ない奴は口を挟むな。邪魔だ」


 湊が放った一瞥に、佐々木が息を呑んでたじろいだ。

 それは、攻撃的な怒りではなかった。

 ただ、自分でも理由の分からないまま、彼女から遠ざけようとする強い拒絶だった。


 湊は詩織を引きずるようにして、教室を後にした。


 *


 誰もいない、北校舎の渡り廊下。

 冷たい風が吹き抜け、湊の熱くなった頭を無理やり冷やしていく。


 だが、掴んだ詩織の手首の温かさが、自分の冷え切った指に、毒針のように刺さる。

 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。

 湊は反射的に詩織を自分の背後へ隠すように引き寄せた。


「お、阿久津。熱心な個別指導中か?」


 通り過ぎざま、矢野が声をかけてきた。彼は立ち止まりすらしない。

 だが、すれ違いざまに耳元へ落とされた言葉は、鋭利な刃物そのものだった。


「……その『指導』、ずいぶん指先に力が入ってるな。まあいい。理論は優秀でも、実験は失敗する。頑張れよ、先生」


 矢野はニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、悠然と去っていった。


 湊の喉元に、焼けるような羞恥がせり上がる。

 自分の「指導」という建前を、誰もが正当な理由として受け入れていると信じていた。

 それが、単なる「実験の失敗」として面白がられていたのだ。

 これほど屈辱的な敗北があるだろうか。


「……湊くん。……あの、痛いです」


 詩織の微かな声に、湊はハッとして指を緩めた。

 だが、放せなかった。

 指を離した瞬間に、またあの「善意の侵略者」たちが彼女の領域に踏み込むのではないか。

 自分の知らない場所で、

 自分の知らない笑顔を、

 誰かに向けるのではないか。


 そんな、数式では解けない不安が、湊の理性をがんじがらめに縛り付けていた。


「……すまない」

「湊くん……? 手、すごく冷たいですよ。大丈夫ですか?」


 詩織が、自由になった方の手で、そっと湊の冷え切った拳を包み込んだ。


「……関係ない。……急激な気温の変化による、末梢血流量の低下だ」

「……湊くん。……私、どこにも、行きませんから」


 詩織が、湊の顔をじっと見つめて言った。

 その瞳は、湊の胸の奥で暴れ狂う、このドロドロとした黒い泥のような感情の正体を、すべて見透かしているようだった。


 詩織は、怖がっていなかった。

 むしろ、余裕をなくした湊の顔を見て、少しだけ、楽しそうにさえ見えた。


「……黙れ。……お前は、他人に対して無防備すぎる」

「湊くん……?」

「……お前は、自分が無防備すぎることを自覚しろ。勝手に踏み込まれて、俺の調子を狂わせるな。……少なくとも、あいつには近づかせるな」


 湊は、必死に言葉を絞り出した。

 独占欲。嫉妬。そんな、生存に不要な、非合理的なノイズ。


 認めれば、自分が自分でなくなってしまうような。

 これまで守り抜いてきた「理知的で完璧な自分」が、音を立てて崩れ去るような、恐ろしい言葉。


「……ふふっ。湊くんは、本当に……わがままですね」


 詩織が、花が綻ぶように笑った。

 その笑顔が、今の湊には、どんな鋭利なナイフよりも深く、彼の防壁を削り取っていく。


 自分が彼女を支えているつもりだった。

 けれど、本当に振り回されているのは自分の方なのかもしれない。

 その気づきが、湊には何より恐ろしかった。


「へぇ。……熱烈だね、阿久津くん。廊下で愛の告白?」


 不意に、背後から聞き覚えのある、乾いた声がした。

 振り返ると、廊下の角に春奈奈々が立っていた。

 彼女はニヤニヤとした笑みを浮かべ、手に持ったアイスコーヒーのカップを揺らしている。


「……春奈。……見ていたのか」

「見てたっていうか、教室からずっとこの空気だったじゃん。……それね、阿久津くん」


 春奈が、湊のすぐそばまで歩み寄り、その耳元で、最も残酷な「正解」を囁いた。


「――それ、管理じゃないよ。嫉妬」


「…………違う。……俺がしているのは、リスクマネジメントだ。……領域内の、不当干渉の排除だ」


 湊は、自分でも驚くほど乾いた声で返した。


「へぇー。……まあ、そういうことにしておいてあげるよ。……でも、その顔。鏡、見たほうがいいよ? 自分がどんなに余裕のない顔してるか、自覚したほうがいい」


 春奈はそう言い残し、楽しそうに肩を揺らしながら去っていった。


 残されたのは、静寂と、まだ消えない指先の凍えるような冷たさ。

 自分の中で、今まで信じていたものが少しずつ形を変えていく感覚があった。


 脳内で、警告音が鳴り止まない。


(……これは、恋ではない。……デートでもない。……そして、これは――)


 だが、この胸を掻き乱す不快なノイズの名前を。

 俺はまだ、知りたくない。


 彼女の脈が、指先に触れていた。

 それだけが、現実だった。

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