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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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18/28

第18話:これはデートではない

 日曜日の午前。

 世界は、休日という名のひどく緩慢な空気に包まれていた。


 阿久津湊は、玄関の冷たいタイルの上に立ち、自分の服装を鏡で最終確認していた。

 皺一つないシャツ、履き慣れたチノパン。

 どこにでもいる、誰の記憶にも残らない「背景」としての自分。


 昨夜、手書きの管理ノートを精査した結果、いくつかの消耗品が底を突きかけていることが判明した。

 詩織が使っているシャンプー、それから特定のメーカーの洗濯洗剤。

 本来なら、湊が一人で近所のドラッグストアへ行けば済む話だ。


「……湊くん、お待たせしました。準備、できました」


 リビングから聞こえてきた声に、湊は無意識に肩に力が入るのを感じた。

 振り返った視線の先に、彼女が立っていた。


 詩織が着ていたのは、あの春休みに「目立たないために」買い与えた、オフホワイトのニットだった。

 当時はまだ、借り物の衣装を着せられた子供のような危うさがあった。だが、今は違う。


 朝の光の中に立つ彼女を見て、湊は一瞬だけ言葉を失った。

 以前なら、服装なんて「目立たないか」「動きやすいか」だけで判断していた。

 だが、今の詩織は違う。


 選んだ服を着せられているのではなく、自分で選んだものとして自然に身につけている。

 その変化に気づいてしまったことが、なぜか少しだけ落ち着かなかった。


「……歩きにくいだろ、その格好。靴紐、ちゃんと結べているのか」


 湊は、あえて低く、刺々しい言葉を選んで吐き出した。

「似合っている」なんていう言葉は、今の喉のつかえが邪魔をして、逆立ちしても出てきそうにない。


「えへへ、大丈夫ですよ。湊くんが選んでくれた服、私、すごく動きやすいんです。……変、じゃないですよね?」


 詩織が首を少しだけ傾げ、不安そうに下から覗き込んでくる。


「……普通だ。早くしろ、時間がもったいない」


 湊は逃げるように玄関のドアを開けた。

 外に出た瞬間、生暖かい風が頬を撫でる。


 心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始めていた。

 気圧のせいだ。あるいは、朝に飲んだコーヒーのカフェインが効きすぎているだけだ。

 そう自分に言い聞かせ、湊は駅へと続くアスファルトを踏みしめた。


 *


 駅前の大型ショッピングモール。

 かつて、詩織を連れて逃げるように歩いた、あの空調の効いた乾燥した空間だ。


 自動ドアを抜けた瞬間、湊の首筋をじっとりとした汗が伝い落ちた。

 すれ違うのは、手を繋いだカップルや、無闇に歩調の遅い家族連ればかり。

 以前の湊なら、その弛緩した空気を「毒」だと感じて切り捨てていたはずだ。


 だが、今は違う。

 隣を歩く詩織が、あの時のように俺の背中に隠れていない。

 それどころか、彼女はモールの明るい照明の下で、眩しそうに目を細めて笑っている。


「わぁ……湊くん、見てください。あそこのお店、もう夏物のワンピースが出てますよ。……綺麗だなぁ」


 詩織が楽しそうに指をさす。

 その横顔には、あの雨の日にゴミ箱の横で震えていた残骸の面影など、どこにもなかった。


 詩織は、強いな。

 あれだけ壊れかけていた人間が、ここまで戻れるものなのか。

 

 守られることで、これほどまでに鮮やかに、世界を肯定できるようになるのか。

 それに引き換え、俺はどうだ。


 誰にも介入させない。誰の世話にもならない。

 完璧な自立を証明するために、分厚い理屈の壁を築き上げてきたはずなのに。

 たった一人の少女の笑顔に当てられて、自分の足元が、泥のように柔らかく崩れていくのを感じている。


「……湊くん? どうしたんですか、そんなに眉間にシワを寄せて。……やっぱり、私、何か変ですか?」


「……なんでもない。買い物のルートを再確認していただけだ。さっさと行くぞ」


 湊は早歩きでエスカレーターへ向かった。

 背後で詩織が「待ってくださいよぉ」と笑いながら付いてくる。

 その足取りの軽さが、今の湊にはどうしようもなく眩しくて、そして恐ろしかった。


 *


 二階のレディースフロア。

 あの日、彼女を「普通」にするために服を選んだ、因縁の場所。


 本来の目的であるドラッグストアに向かうには、このフロアを横切るのが最短だ。

 あくまで、効率のための選択。湊はそう自分を納得させた。


「……今日は見るだけ。ね? 湊くん、見るだけなら、時間はかかりませんから」


 詩織が、湊のシャツの袖をちょんちょんと引っ張りながら、悪戯っぽく微笑む。


「……さっさと済ませろ。俺はここで待っている」


 湊はフロアの隅にある太い柱に背を預け、腕を組んでその光景を眺めることにした。

 早く切り上げて次へ向かうべきだ。頭ではそう分かっているのに、なぜか足が動かない。


 鏡の前で、一着のブラウスを自分に合わせては、楽しそうに首を振る詩織。

 彼女はもう、周囲の視線に怯えてなどいない。

 ただ、可愛いものを見て、その世界に触れていること自体を楽しんでいる。


 俺の人生には、一度たりとも存在しなかった「意味のない時間」。


 鏡の前で振り返り、詩織が湊に笑いかける。


「湊くん、これ、どうですか?」


 その笑顔から、目を逸らせない。

 鮮明すぎる画質と、やけにリアルな色彩を持って、彼女の姿が網膜に焼き付く。

 以前は、彼女が背景に溶け込むことだけに必死だった。でも今は違う。


 ニット越しに伝わる柔らかな雰囲気。

 楽しそうに揺れる睫毛。

 鏡の前で、自分が普通の女の子として服を選んでいる姿。


(……あぁ、ダメだ。説明がつかない)


 なぜ、ただ布を体に当てているだけの少女が、これほどまでに美しいのか。

 なぜ、この無意味な時間が、トイレットペーパーを安く買うことよりも、ずっと価値のあるものに思えてしまうのか。


 湊は、何度も「もう行くぞ」と言いかけて、そのたびに言葉を喉の奥に飲み込んだ。

 彼女が笑うたびに、自分の決意が砂城のように崩れていく。


「……悪くない。だが、その色は、お前には少し……明るすぎるんじゃないか」


「……湊くん、今、私のこと、ちゃんと見ててくれました?」


 詩織が、ブラウスを棚に戻して、じりじりと湊に近づいてくる。

 彼女の体温と一緒に、石鹸の香りと、名前も知らない花の甘い匂いが漂ってきた。


「……視覚的な印象を述べただけだ。勘違いするな」


「ふふ、はい。ありがとうございます」


 詩織は満足そうに頷き、ようやく目的のドラッグストアへと湊を導いた。


 *


 フードコートの喧騒は、昼時を過ぎてもなお、耳障りな音を立てていた。


 湊の両手には、重い特大サイズの洗剤と、12ロール入りのトイレットペーパー。

 そして、詩織が「どうしても、これだけは」と強請った、小さなハンドクリームが入った袋が下げられている。


「……長居はしないぞ。さっさと食べて、すぐにここを出る」


 湊はそう言って、一番端の、人目に付きにくい席を陣取った。

 詩織の前には、湯気が立ち昇るオムライス。

 湊の前には、紙に包まれただけの無機質なホットドッグと、ブラックコーヒー。


「わあ……! 湊くん、見てください、ぷるぷるですよ!」


 詩織はスプーンを手に取り、子供のように目を輝かせてオムライスを頬張り始めた。

 湊は自分のホットドッグを一口齧り、苦いコーヒーを喉に流し込む。


(……ただの卵と米だ。あんなものを食べて、どうしてあんなに幸せそうになれるんだ)


 必死に冷笑的な態度を保とうとするが、彼女が一口運ぶたびに、自分の胸の奥に小さな火種を投げ込まれるような、むず痒い熱を感じる。


 早く帰るべきだ。

 家に戻って、いつもの静寂の中で、乱れた思考を整理しなくてはならない。


 なのに、湊の手は、ホットドッグを置いたまま止まっていた。

 ゆっくりと食事を楽しむ詩織を急かすこともできず、ただ、その無防備な咀嚼音を、音楽でも聴くように聞き入っている自分がいる。


「……ん、おいひい……。湊くんも、一口食べますか?」


 詩織が身を乗り出した瞬間だった。

 彼女の口の端に、真っ赤なケチャップが、ちょんとついた。


「……おい。ついてるぞ」


 指摘すべきか、迷った。

 テーブルの上の紙ナプキンを手に取ろうと、視線が泳いだ。


 だが、その一瞬の「迷い」が、俺の理性を焼き切った。

 気づいた時には、俺の右手が動いていた。


 湊は椅子を詩織の方へ引き寄せ、彼女の顎を片手で軽く固定する。

 そして、親指の腹で、そっとその赤い汚れを拭った。


 指先に伝わった温度に、湊の思考が一瞬停止した。


 違う。


 問題は触れたことではない。

 問題なのは、考えるより先に手が動いたことだ。

 いつもの自分なら、紙ナプキンを渡して終わらせていたはずなのに。


 びくり、と詩織の肩が跳ねた。

 上目遣いで湊を見つめる、彼女の瞳。

 その瞬間、周囲の騒がしい話し声も、食器が当たる音も、すべてが一気に遠のいた。


 耳の奥で鳴っているのは、空調の音じゃない。

 自分の、早鐘のような鼓動だ。


 至近距離で混ざり合う、ケチャップの甘い匂いと、彼女がいつも使っている石鹸の香り。

 その程度の情報なのに、なぜか頭から離れなかった。


「……子供かよ、お前は。自分で拭け」


 突き放すような言葉を吐くが、自分の声が、情けないほど微かに震えているのが分かった。

 拭き取った親指の腹が、火傷をしたように熱い。

 その熱は、指から腕を伝わり、心臓の奥まで一気に駆け抜けて、湊が必死に保ってきた「管理者としての理屈」を、ドロドロに溶かしていく。


「……えへへ、すみません。湊くんが拭いてくれると、なんだか安心しちゃって」


 詩織が照れくさそうに笑う。

 その笑顔一点だけが、この騒がしい世界の中で、やけに鮮やかに、高画質に見えた。


(……違う。これは、そういうものじゃない)


 何度目になるか分からない否定を、頭の中で繰り返す。

 だが、その否定をしている間も。

 俺の足は、彼女の歩幅に合わせて動いていた。


 *


 モールの出口を抜けると、空は燃えるようなオレンジ色に染まっていた。

 街灯が点々と灯り始める。

 湊の両手には、生活の重みを感じさせる紙袋。

 隣を歩く詩織は、さっき手に入れたアプリコットの香りのハンドクリームを、宝物のように抱えている。


「……湊くん。今日は、本当にありがとうございました。私、すごく、楽しかったです」


 夕日に目を細めて笑う彼女の横顔に、さっきの指先の感触が、まだ熱を持って蘇る。

 柔らかくて、温かくて、壊れそうだった。


(……これは、デートではない)


 俺は自分に言い聞かせるように、袋の持ち手を強く握りしめた。

 これは、共同生活を維持するための資材調達だ。

 これは、管理下にある個体の精神衛生を保つための、必要経費としての外出だ。


 そう。俺は、阿久津湊だ。

 誰にも頼らず、誰にも介入させず、完璧に計算された自立の中で生きていくと決めたはずの、冷徹な管理者だ。


 ……なのに。


 夕闇が迫る街路を、彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いている自分。

 いつか彼女が零した「大好きです」という、あのあまりにも非論理的で重い言葉が、今さら呪いのように耳の奥でリフレインしている。


 そんな、どうしようもなく不器用で、格好悪くて、理屈ですら制御できない「日常」が。


 ――悪くない、と思ってしまっている俺がいるのも、また、否定しようのない事実だった。


「……湊くん?」


「……なんでもない。ほら、信号が変わるぞ。遅れるな」


 俺は顔を伏せ、彼女に悟られないように、でも彼女がはぐれないように、半歩先を歩き出した。

 影が長く伸びて、アスファルトの上で二つのシルエットが重なり合う。


 俺の心臓は、まだ、うるさいくらいに熱を帯びたままだった。

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