第18話:これはデートではない
日曜日の午前。
世界は、休日という名のひどく緩慢な空気に包まれていた。
阿久津湊は、玄関の冷たいタイルの上に立ち、自分の服装を鏡で最終確認していた。
皺一つないシャツ、履き慣れたチノパン。
どこにでもいる、誰の記憶にも残らない「背景」としての自分。
昨夜、手書きの管理ノートを精査した結果、いくつかの消耗品が底を突きかけていることが判明した。
詩織が使っているシャンプー、それから特定のメーカーの洗濯洗剤。
本来なら、湊が一人で近所のドラッグストアへ行けば済む話だ。
「……湊くん、お待たせしました。準備、できました」
リビングから聞こえてきた声に、湊は無意識に肩に力が入るのを感じた。
振り返った視線の先に、彼女が立っていた。
詩織が着ていたのは、あの春休みに「目立たないために」買い与えた、オフホワイトのニットだった。
当時はまだ、借り物の衣装を着せられた子供のような危うさがあった。だが、今は違う。
朝の光の中に立つ彼女を見て、湊は一瞬だけ言葉を失った。
以前なら、服装なんて「目立たないか」「動きやすいか」だけで判断していた。
だが、今の詩織は違う。
選んだ服を着せられているのではなく、自分で選んだものとして自然に身につけている。
その変化に気づいてしまったことが、なぜか少しだけ落ち着かなかった。
「……歩きにくいだろ、その格好。靴紐、ちゃんと結べているのか」
湊は、あえて低く、刺々しい言葉を選んで吐き出した。
「似合っている」なんていう言葉は、今の喉のつかえが邪魔をして、逆立ちしても出てきそうにない。
「えへへ、大丈夫ですよ。湊くんが選んでくれた服、私、すごく動きやすいんです。……変、じゃないですよね?」
詩織が首を少しだけ傾げ、不安そうに下から覗き込んでくる。
「……普通だ。早くしろ、時間がもったいない」
湊は逃げるように玄関のドアを開けた。
外に出た瞬間、生暖かい風が頬を撫でる。
心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始めていた。
気圧のせいだ。あるいは、朝に飲んだコーヒーのカフェインが効きすぎているだけだ。
そう自分に言い聞かせ、湊は駅へと続くアスファルトを踏みしめた。
*
駅前の大型ショッピングモール。
かつて、詩織を連れて逃げるように歩いた、あの空調の効いた乾燥した空間だ。
自動ドアを抜けた瞬間、湊の首筋をじっとりとした汗が伝い落ちた。
すれ違うのは、手を繋いだカップルや、無闇に歩調の遅い家族連ればかり。
以前の湊なら、その弛緩した空気を「毒」だと感じて切り捨てていたはずだ。
だが、今は違う。
隣を歩く詩織が、あの時のように俺の背中に隠れていない。
それどころか、彼女はモールの明るい照明の下で、眩しそうに目を細めて笑っている。
「わぁ……湊くん、見てください。あそこのお店、もう夏物のワンピースが出てますよ。……綺麗だなぁ」
詩織が楽しそうに指をさす。
その横顔には、あの雨の日にゴミ箱の横で震えていた残骸の面影など、どこにもなかった。
詩織は、強いな。
あれだけ壊れかけていた人間が、ここまで戻れるものなのか。
守られることで、これほどまでに鮮やかに、世界を肯定できるようになるのか。
それに引き換え、俺はどうだ。
誰にも介入させない。誰の世話にもならない。
完璧な自立を証明するために、分厚い理屈の壁を築き上げてきたはずなのに。
たった一人の少女の笑顔に当てられて、自分の足元が、泥のように柔らかく崩れていくのを感じている。
「……湊くん? どうしたんですか、そんなに眉間にシワを寄せて。……やっぱり、私、何か変ですか?」
「……なんでもない。買い物のルートを再確認していただけだ。さっさと行くぞ」
湊は早歩きでエスカレーターへ向かった。
背後で詩織が「待ってくださいよぉ」と笑いながら付いてくる。
その足取りの軽さが、今の湊にはどうしようもなく眩しくて、そして恐ろしかった。
*
二階のレディースフロア。
あの日、彼女を「普通」にするために服を選んだ、因縁の場所。
本来の目的であるドラッグストアに向かうには、このフロアを横切るのが最短だ。
あくまで、効率のための選択。湊はそう自分を納得させた。
「……今日は見るだけ。ね? 湊くん、見るだけなら、時間はかかりませんから」
詩織が、湊のシャツの袖をちょんちょんと引っ張りながら、悪戯っぽく微笑む。
「……さっさと済ませろ。俺はここで待っている」
湊はフロアの隅にある太い柱に背を預け、腕を組んでその光景を眺めることにした。
早く切り上げて次へ向かうべきだ。頭ではそう分かっているのに、なぜか足が動かない。
鏡の前で、一着のブラウスを自分に合わせては、楽しそうに首を振る詩織。
彼女はもう、周囲の視線に怯えてなどいない。
ただ、可愛いものを見て、その世界に触れていること自体を楽しんでいる。
俺の人生には、一度たりとも存在しなかった「意味のない時間」。
鏡の前で振り返り、詩織が湊に笑いかける。
「湊くん、これ、どうですか?」
その笑顔から、目を逸らせない。
鮮明すぎる画質と、やけにリアルな色彩を持って、彼女の姿が網膜に焼き付く。
以前は、彼女が背景に溶け込むことだけに必死だった。でも今は違う。
ニット越しに伝わる柔らかな雰囲気。
楽しそうに揺れる睫毛。
鏡の前で、自分が普通の女の子として服を選んでいる姿。
(……あぁ、ダメだ。説明がつかない)
なぜ、ただ布を体に当てているだけの少女が、これほどまでに美しいのか。
なぜ、この無意味な時間が、トイレットペーパーを安く買うことよりも、ずっと価値のあるものに思えてしまうのか。
湊は、何度も「もう行くぞ」と言いかけて、そのたびに言葉を喉の奥に飲み込んだ。
彼女が笑うたびに、自分の決意が砂城のように崩れていく。
「……悪くない。だが、その色は、お前には少し……明るすぎるんじゃないか」
「……湊くん、今、私のこと、ちゃんと見ててくれました?」
詩織が、ブラウスを棚に戻して、じりじりと湊に近づいてくる。
彼女の体温と一緒に、石鹸の香りと、名前も知らない花の甘い匂いが漂ってきた。
「……視覚的な印象を述べただけだ。勘違いするな」
「ふふ、はい。ありがとうございます」
詩織は満足そうに頷き、ようやく目的のドラッグストアへと湊を導いた。
*
フードコートの喧騒は、昼時を過ぎてもなお、耳障りな音を立てていた。
湊の両手には、重い特大サイズの洗剤と、12ロール入りのトイレットペーパー。
そして、詩織が「どうしても、これだけは」と強請った、小さなハンドクリームが入った袋が下げられている。
「……長居はしないぞ。さっさと食べて、すぐにここを出る」
湊はそう言って、一番端の、人目に付きにくい席を陣取った。
詩織の前には、湯気が立ち昇るオムライス。
湊の前には、紙に包まれただけの無機質なホットドッグと、ブラックコーヒー。
「わあ……! 湊くん、見てください、ぷるぷるですよ!」
詩織はスプーンを手に取り、子供のように目を輝かせてオムライスを頬張り始めた。
湊は自分のホットドッグを一口齧り、苦いコーヒーを喉に流し込む。
(……ただの卵と米だ。あんなものを食べて、どうしてあんなに幸せそうになれるんだ)
必死に冷笑的な態度を保とうとするが、彼女が一口運ぶたびに、自分の胸の奥に小さな火種を投げ込まれるような、むず痒い熱を感じる。
早く帰るべきだ。
家に戻って、いつもの静寂の中で、乱れた思考を整理しなくてはならない。
なのに、湊の手は、ホットドッグを置いたまま止まっていた。
ゆっくりと食事を楽しむ詩織を急かすこともできず、ただ、その無防備な咀嚼音を、音楽でも聴くように聞き入っている自分がいる。
「……ん、おいひい……。湊くんも、一口食べますか?」
詩織が身を乗り出した瞬間だった。
彼女の口の端に、真っ赤なケチャップが、ちょんとついた。
「……おい。ついてるぞ」
指摘すべきか、迷った。
テーブルの上の紙ナプキンを手に取ろうと、視線が泳いだ。
だが、その一瞬の「迷い」が、俺の理性を焼き切った。
気づいた時には、俺の右手が動いていた。
湊は椅子を詩織の方へ引き寄せ、彼女の顎を片手で軽く固定する。
そして、親指の腹で、そっとその赤い汚れを拭った。
指先に伝わった温度に、湊の思考が一瞬停止した。
違う。
問題は触れたことではない。
問題なのは、考えるより先に手が動いたことだ。
いつもの自分なら、紙ナプキンを渡して終わらせていたはずなのに。
びくり、と詩織の肩が跳ねた。
上目遣いで湊を見つめる、彼女の瞳。
その瞬間、周囲の騒がしい話し声も、食器が当たる音も、すべてが一気に遠のいた。
耳の奥で鳴っているのは、空調の音じゃない。
自分の、早鐘のような鼓動だ。
至近距離で混ざり合う、ケチャップの甘い匂いと、彼女がいつも使っている石鹸の香り。
その程度の情報なのに、なぜか頭から離れなかった。
「……子供かよ、お前は。自分で拭け」
突き放すような言葉を吐くが、自分の声が、情けないほど微かに震えているのが分かった。
拭き取った親指の腹が、火傷をしたように熱い。
その熱は、指から腕を伝わり、心臓の奥まで一気に駆け抜けて、湊が必死に保ってきた「管理者としての理屈」を、ドロドロに溶かしていく。
「……えへへ、すみません。湊くんが拭いてくれると、なんだか安心しちゃって」
詩織が照れくさそうに笑う。
その笑顔一点だけが、この騒がしい世界の中で、やけに鮮やかに、高画質に見えた。
(……違う。これは、そういうものじゃない)
何度目になるか分からない否定を、頭の中で繰り返す。
だが、その否定をしている間も。
俺の足は、彼女の歩幅に合わせて動いていた。
*
モールの出口を抜けると、空は燃えるようなオレンジ色に染まっていた。
街灯が点々と灯り始める。
湊の両手には、生活の重みを感じさせる紙袋。
隣を歩く詩織は、さっき手に入れたアプリコットの香りのハンドクリームを、宝物のように抱えている。
「……湊くん。今日は、本当にありがとうございました。私、すごく、楽しかったです」
夕日に目を細めて笑う彼女の横顔に、さっきの指先の感触が、まだ熱を持って蘇る。
柔らかくて、温かくて、壊れそうだった。
(……これは、デートではない)
俺は自分に言い聞かせるように、袋の持ち手を強く握りしめた。
これは、共同生活を維持するための資材調達だ。
これは、管理下にある個体の精神衛生を保つための、必要経費としての外出だ。
そう。俺は、阿久津湊だ。
誰にも頼らず、誰にも介入させず、完璧に計算された自立の中で生きていくと決めたはずの、冷徹な管理者だ。
……なのに。
夕闇が迫る街路を、彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いている自分。
いつか彼女が零した「大好きです」という、あのあまりにも非論理的で重い言葉が、今さら呪いのように耳の奥でリフレインしている。
そんな、どうしようもなく不器用で、格好悪くて、理屈ですら制御できない「日常」が。
――悪くない、と思ってしまっている俺がいるのも、また、否定しようのない事実だった。
「……湊くん?」
「……なんでもない。ほら、信号が変わるぞ。遅れるな」
俺は顔を伏せ、彼女に悟られないように、でも彼女がはぐれないように、半歩先を歩き出した。
影が長く伸びて、アスファルトの上で二つのシルエットが重なり合う。
俺の心臓は、まだ、うるさいくらいに熱を帯びたままだった。




