第17話:これは恋ではない
月曜日の朝。世界は、何事もなかったかのように動き出していた。
阿久津湊は洗面台の鏡の前に立ち、制服のネクタイをきっちりと締め直して、自分の顔をじっと見つめた。
昨夜、ベッドの中で一睡もできずに天井の木目を数え続けていた寝不足の痕跡は、氷のように冷たい水で何度も顔を洗って、無理やり誤魔化してある。目の下に微かに残るクマは、気にするほどではない。
「……よし。普通だ」
声に出して確認する。
洗面所の白い蛍光灯の下で、自分の表情筋が完全に強張っているのが分かった。無理もない。昨日の、あの夕暮れの昇降口での出来事が、まだ脳裏に焼き付いて離れないのだ。
詩織が自分の袖を掴んで、「変わりました!」と言い切ったあの瞬間。
春奈奈々がニヤニヤと笑いながら「完全に陥落だね」と告げたあの声。
耳の裏が火傷しそうなほど熱くなって、頭の中が真っ白になって、どうやって家に帰ったのかすら、はっきりと思い出せない。
湊は、その一連の「バグ」のような現象を、一晩かけて自分なりに分析した。
結論は出ている。あれは先日の脳震盪のせいで、自律神経が少し乱れただけだ。あるいは、急に初夏のように暑くなった気温の変化のせいで、一時的に血の巡りが良くなっただけ。
間違っても、自分が彼女に「恋」をしているだなんていう、馬鹿げた事態じゃない。
(……俺は、あいつの面倒を見ているだけだ。俺の生活のペースを乱されないために、あいつを監視の元に置いている。それ以上の感情を挟むなんて、ただの自滅でしかない)
自分自身に言い聞かせるように、湊は洗面所のタオルで顔を拭き、無表情の仮面を被ってリビングのドアを開けた。
「あっ! 湊くん、おはようございますっ!」
ドアを開けた瞬間、キッチンから弾けるような声が飛んできた。
詩織は、湊が昨日買い与えた新しい星型のヘアピンで前髪を留め、エプロンの紐を背中でキュッと結んで、焼き上がったトーストを皿に並べていた。
換気扇が回っているのに、部屋中にバターが溶ける甘い匂いと、目玉焼きが焼ける香ばしい匂いが充満している。
その、あまりにも「当たり前の日常」みたいな顔をした距離感に、湊の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
「……おはよう。……ちょっと挨拶が早い。パンを並べながら喋るなら、お皿を落とさないようにもう少し落ち着け」
湊は、あえて素っ気ない言葉を選んでダイニングテーブルの席に着いた。昨日のあの「甘ったるい空気」を、今すぐどうにかして打ち消さなければならない。少しでも気を抜けば、また昨日の夕方のように、自分が自分ではなくなってしまう気がした。
「えへへ、すみません。なんだか今日、すごく調子が良くて! 目玉焼きも、黄身が真ん中にきたんですよ!」
詩織は、湊の冷たい態度など全く気にする様子もなく、むしろ満面の笑みで嬉しそうに向かいの席に座った。
その花が咲いたような笑顔が視界の端に入った瞬間、湊の胃のあたりが、ギューッと不快な熱を持って軋んだ。
(……胃酸が出すぎてるのか。昨日、夜中に無理やり飲んだブラックコーヒーのせいだな。後で胃薬を飲んでおこう)
湊は、自分の身体に起きている異変を、すべてただの体調不良だと思い込ませた。必死に胃の痛みを無視して、フォークで目玉焼きの端を切り取る。
口に入れると、絶妙な半熟加減の黄身が広がった。美味しい。素直にそう思ってしまう自分がいて、それがまた湊の神経を逆撫でする。
「……味はどうですか? お醤油、かけすぎませんでしたか?」
「……普通だ。焦げてないだけマシだな」
「よーし! これで朝ごはんは完璧ですねっ。次は卵焼きの練習しなきゃ」
楽しそうに足をパタパタと揺らす詩織を見ながら、湊はコーヒーの入ったマグカップを両手で包み込んだ。
早く、早く学校に行って、この密室から抜け出さなければ。そうしないと、この甘い匂いに、自分の理性が完全に溶かされてしまう。
*
昼休み。学校の北校舎、屋上へと続く階段の踊り場。
ここは普段、誰も寄り付かない場所だ。湊が「一人で静かに過ごすために」入学早々に見つけ出した、自分だけの聖域だった。
だが、今のそこには、二人分の気配がある。少しホコリっぽい踊り場の床に、湊と詩織が並んで座っていた。
「湊くん、見てください! 購買の新作、メロンパン味の焼きそばパンです! 最後の一個、ギリギリ買えたんです!」
詩織が、ビニール袋をガサガサと鳴らしながら、暴力的なカロリーの塊みたいなパンを自慢げに突き出してきた。
湊は、眉間におもいっきりシワを寄せた。
「……ダメだ。炭水化物に炭水化物を重ねるなんて、栄養バランスが悪すぎる。おまけに甘いのかしょっぱいのか分からない味覚の暴力だ。そんなものを昼に食ったら、午後から頭が回らなくなるぞ」
湊は眉間に皺を寄せながら、目の前の焼きそばパンを見つめた。
……いや、待て。
甘いのか、しょっぱいのか分からない味。
その言葉を口にした瞬間、脳裏に一瞬だけ、昨日の朝食がよぎった。
砂糖。
蜂蜜。
そして、完璧な見た目を裏切る、謎の甘さを持った目玉焼き。
「…………」
湊は無言でその記憶を脳内から削除した。
(……あれは例外だ)
あれは詩織が一生懸命練習した結果であり、栄養面では問題なく、そして何より――。
(……違う)
湊はそこで思考を打ち切った。
(今考えるべきなのは、この焼きそばパンの栄養バランスだ)
「湊くん?」
「なんでもない。食べるなら、せめて野菜も追加しろ」
「やっぱり湊くん、優しいですね」
「違う。午後の授業で眠られると困るだけだ」
いつもの言い訳を口にしながら、湊は視線を逸らした。
「えぇー、美味しいのに……。新発売なんですよ? じゃあ、湊くんも一口食べますか? 半分こします?」
「……いらん。俺は遠慮しておく。それより、これを食え。朝、弁当のおかずを作りすぎたから、捨てるのがもったいないだけだ」
湊は、自分の鞄から取り出した予備の小さなタッパーを、詩織の膝の上に乱暴に押し付けた。
中に入っているのは、鶏の照り焼きとほうれん草の胡麻和え。詩織が以前、一口もらった時に「これ、美味しいです!」と目を輝かせていたおかずだ。
偶然作りすぎたわけがない。そんなことは、自分が一番よく分かっている。わざわざ昨日の夜、スーパーで安い鶏肉を見つけて仕込んでおいたのだから。
「わぁっ! これ、私が好きだって言ったやつ……! 湊くん、やっぱり私のこと、見てくれてるんですね。……すっごく嬉しいです」
詩織がタッパーを両手で大切そうに受け取って、ふにゃりと頬を緩める。
その、無防備で、こちらを完全に信頼しきっている顔。
湊の視界が、一瞬だけぐらりと揺れた。喉の奥がカラカラに乾いて、唾を飲み込む音すら、この静かな踊り場に響き渡ってしまいそうなくらい、自分の鼓動がうるさい。
「……勘違いするな。冷蔵庫の余り物を早く片付けたかっただけだ。傷んでゴミになるよりはマシだろ」
「ふふっ。はい、片付けですね。……いただきますっ!」
湊の苦しい言い訳を、詩織は完全に「照れ隠し」として受け取っているようだった。ニコニコと笑いながら、割り箸を割って大きな口を開け、照り焼きを頬張る。
幸せそうにモグモグと動く彼女の喉仏。少しだけタレが唇の端についているのを見て、湊の指先がピクリと動いた。拭ってやりたい、という衝動が走り、慌てて拳を握りしめる。
(……ただ、ぼーっと見てただけだ。変な意味なんてない。俺はただ、あいつが喉を詰まらせないか見張っているだけだ)
必死に自分に言い訳をするが、膝の上で握りしめたペットボトルが、みしりと音を立てて凹んだ。
冷たいはずの麦茶が、今はひどくぬるく感じる。自分の手のひらが、変な熱を持っているせいだ。
「んん〜、やっぱり湊くんのご飯、世界一美味しいです!」
「……大げさだな。さっさと食え」
顔を背けながら、湊は小さくため息をついた。
窓から差し込む初夏の光が、詩織の髪をきらきらと輝かせている。その光景が、どうしようもなく目に焼き付いて、湊はたまらず目を閉じた。
*
放課後。図書室の片隅。
期末テストに向けた自習という名の、ただの同居人の見張りだ。
窓際の席を陣取り、湊は英単語帳をめくりながら、隣に座る詩織の様子をちらちらと確認していた。
詩織は苦手な数学のワークと格闘していた。最初はカリカリとシャープペンシルを走らせる音が聞こえていたが、三十分もするとその音が途絶え、代わりに静かな、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
夕方の図書室は、驚くほど静かだった。
他の生徒はまばらで、ページをめくる音さえ気を遣うような沈黙が落ちている。斜めに差し込むオレンジ色の夕日が、机の上に長い影を落としていた。
その静寂の中で。
詩織の身体が、湊の方へとゆっくり、ゆっくりと傾いてくる。
コテリ、と。
柔らかな重みが、湊の右肩に乗った。
「…………っ!?」
湊の全身が、一瞬にしてカチコチに固まった。
肩越しに伝わってくる、彼女の頭の確かな重み。さらさらした髪の毛が、湊の首筋に直接触れて、くすぐったいような、ビリッと強い電気が走るような感覚が首から背筋へと広がっていく。
そして、鼻先をかすめる、あの石鹸の匂い。
昨日の夕方、彼女を抱きとめた時に感じたのと同じ、甘くて、どうしようもなく安心してしまう匂い。
ドクン。ドクン。
湊の心臓が、もう絶対に誤魔化しきれないほどの音量で、胸の奥で暴れ始めた。自分の耳の奥で、血液が流れる音がザワザワと鳴っているのが分かる。
(……空気がこもってるせいだ。窓が閉まってるから、ただの軽い酸欠だ。別に、焦るようなことじゃない……)
湊は、視線を無理やり手元の英単語帳へと戻した。
だが、印刷された黒い文字が上滑りして、単語の意味が一つも、本当に一つも頭に入ってこない。ただの記号の羅列にしか見えない。
詩織の微かな寝息が、湊の制服の襟越しに、直接肌をなぞるようにかかっている。
右肩からじんじんと広がる熱が、血液に乗って全身を駆け巡り、湊の冷静な思考回路を完全に溶かしていく。
(……離れろ。今すぐ肩を引いて、こいつを起こせ。こんなところで寝るなと、怒ればいいだけだ)
頭ではそう強く命令しているのに、身体がピクリとも動かない。
もし今、ここで自分が動いてしまったら、この柔らかくて温かい重みが、自分から離れていってしまう。そのことだけが、どうしても嫌だった。理屈じゃない。本能が、この接触を手放すことを拒絶している。
「……すぅ……みなと、くん……、……な……いで……」
不意に、消え入りそうな、かすかな寝言が詩織の唇からこぼれた。
「行かないで」なのか、それとも「離さないで」なのか。あるいは、もっと別の言葉か――。
湊の頭の中が、ぐちゃぐちゃにかき回される。
ありえない想像。認めたくない願望。もし彼女が、自分と同じように思ってくれているのだとしたら。
そんなものが一気に押し寄せてきた瞬間、湊の手の中で、強く握りしめすぎていたシャープペンシルが、パキンと乾いた音を立てて真っ二つに折れた。
指先にチクりと刺さるプラスチックの破片。その痛みすら、今の湊にはどうでもよかった。
顔が、沸騰したヤカンのように熱い。息が詰まって、うまく呼吸ができない。図書室の空気が薄いわけじゃない。自分が、息の仕方を忘れているだけだ。
(……バカか。寝言に意味なんてない。ただ声が出ただけだ。……そう、ただの寝言だ。意味なんて探すな。……なのに、どうして俺は……っ)
自分がただの不器用な、17歳のガキだということ。
たった一人の女の子の温もりに振り回されているだけだということ。
それを、どうしても認めたくなかった。
湊は、折れたシャープペンシルを握りしめたまま、夕暮れの図書室で、ただ一人、石像のように固まっていた。
ただじっと、時が過ぎるのを見守ることしかできなかった。
*
下校時。校門前。
図書室を出てからの湊は、背後を歩く詩織を振り返ることもできず、ひたすら早歩きでアスファルトを踏みしめていた。
「湊くん、待ってくださいよぉ! 歩くの早すぎますっ!」
後ろから小走りで追いかけてくる詩織の声。
その声を聞きながらも、湊は速度を落とさなかった。
いや、落とせなかった。
顔を見れば、また自分の表情が緩む気がしたからだ。
「……お、お。……今日も、ひどい顔してるね」
校門の柱に背中を預け、スマホをいじっていた春奈奈々が、顔を上げた。
「……春奈」
湊の足が止まる。
春奈はスマホから視線を外し、一瞬だけ湊の後ろにいる詩織を見る。
「今日、何回詩織ちゃんの方を確認した?」
「……」
「さっきだけでも三回」
「見間違いだ」
「へぇ」
春奈は楽しそうに笑った。
「じゃあ、歩く速度を合わせてるのも偶然?」
湊の表情が固まった。
「……見間違いだ」
「あと、歩く速度」
春奈は小さく笑う。
「昨日までなら、詩織ちゃんが遅れても気にせず先に行ってた。でも今日は違う」
春奈は湊を見る。
「ちゃんと、隣を歩ける速度に合わせてる」
「……」
「ねえ、湊くん」
春奈は首を傾げた。
「それ、本当に『面倒を見てるだけ』なの?」
「……当然だ」
即答だった。
だが、その返事が早すぎたことを、湊自身が一番理解していた。
「へぇ」
春奈は鼻で笑う。
「じゃあ、その真っ赤な耳も? 首の裏まで真っ赤だけど、それもただ暑いだけ?」
「……」
「恋の病の特効薬、教えてあげようか?」
春奈は楽しそうに笑った。
「名前は簡単。認めること」
湊は答えず、春奈の横を通り過ぎる。
反論すればするほど、自分が惨めになることくらい分かっていた。
(……これは恋じゃない)
夕焼けの中、湊は心の中で何度も繰り返す。
(……これは恋じゃない)
そう言い聞かせながら、夕焼けの坂道を走り出した。




