第16話:撤回という名の敗北
網膜を突き刺すような、初夏の鋭い朝日だった。
阿久津湊は、遮光カーテンの隙間から漏れ入る光に目を細め、ひどく重い身体をベッドの上で寝返らせた。
シーツのひんやりとした質感が頬に触れる。
いつもなら、目覚まし時計が鳴る五分前に起床し、白湯を一杯飲んでからストレッチに移行する、完璧なルーティンが始まる時間だ。
だが、今朝の湊は、掛け布団を頭まですっぽりと被り、シーツを固く握りしめたまま一歩も動くことができなかった。
痛い。
胸の中心に、鈍い熱を帯びた痛みが張り付いている。
物理的な打撲痕のせいだけではない。その痛みは、昨日の記憶の扉を、容赦なくこじ開けるためのトリガーだった。
『……お前が俺を壊したんだ。……なら、責任を取れ』
自分の口から出たとは到底思えない、ひどく掠れた、湿度の高い声。
『……俺の目の届く範囲から、一歩も出るな』
鮮明すぎる画質と、やけにリアルな音声を持って、その光景が脳裏にフラッシュバックする。
詩織の泣き顔。
胸に押し付けられた柔らかい体温。
鼻腔の奥にこびりついて離れない、ヴァーベナの石鹸の甘い匂い。
「…………ッ」
湊は、掛け布団の中でギリッと奥歯を噛み締めた。
耳の裏から首筋にかけて、火で炙られたような強烈な熱が這い上がってくる。胃の腑がギュッと雑巾のように絞られ、変な汗が背中を伝い落ちた。
狂っている。
大人に介入されず、自分一人の力で生きていくための完璧な日常。
その前提を、俺は昨日、自らの言葉で完全にへし折ってしまった。
(……なんだあれは。あれは、俺じゃない)
湊は、布団の中で必死に呼吸を整えようとした。
そうだ。頭を強く打っていたんだ。脳が揺れて、まともな判断ができる状態じゃなかった。
だから、あんな恥ずかしい台詞を吐いたんだ。
(……ノーカウントだ。あれは全部、頭を打ったせいだ)
そう処理するはずだった。
……なのに。
あの時、詩織が泣き止んだ瞬間だけは、妙に鮮明に記憶に残っている。
震えていた肩が止まり、涙で濡れた顔が少しだけ安心したように緩んだ。
その表情を見て――俺自身も、なぜか安堵していた。
(……違う)
湊は、布団の中で目を閉じた。
(あれは、相手が落ち着いたことで状況が改善された。それだけだ)
感情ではない。
ただの観察結果だ。
必死の合理化。
なかったことにすればいい。
俺はいつも通りの、冷淡で事務的な同居人として、リビングのドアを開ける。
そして、昨日のあれは事故だったと、淡々と告げればいいだけだ。
湊は、パンッと両手で自分の頬を叩き、強引にベッドから這い出した。
洗面所で冷水を顔に叩きつける。鏡の中の自分は、いつも通り無表情だ。
……いける。
俺の日常は、まだ取り戻せる。
湊は小さく息を吐き出し、意を決してリビングのドアノブを回した。
リビングに入った瞬間、湊の出鼻は完全にくじかれた。
キッチンから漂ってくるのは、昨日のような焦げた醤油と不自然な飴の匂いではない。
熱したフライパンでバターが溶ける芳醇な香りと、トースターから立ち昇る香ばしい小麦の匂いだった。
「ふふーん、ふふふーん♪」
そして、それ以上に湊の足を止めたのは、キッチンに立つ少女の後ろ姿だった。
詩織は、足で軽快なリズムを刻みながら、ご機嫌な様子で鼻歌を歌っている。
昨日、あんなに泣きじゃくり、ゴミ箱に突っ込み、世界が終わったような顔をしていた面影は微塵もない。
圧倒的な「陽」のオーラが、そこには満ちていた。
気配に気づいた詩織が、フライ返しを持ったまま振り返る。
「あっ! 湊くん、おはようございますっ!」
眩しい。
直視できないほどの満面の笑み。
湊は思わず目を逸らし、視線をダイニングテーブルへと逃がした。
そこには、完璧な半熟状態の目玉焼きと、きつね色に焼かれたトーストが綺麗に並べられている。
「……おはよう。……今日は、焦げてないな」
なんとか絞り出した声は、自分でも嫌になるほど硬かった。
「はいっ! 昨日、湊くんが寝ている間に、動画を見ていっぱい練習したんです!」
えへへ、と照れくさそうに笑う詩織。
湊は無言で椅子を引き、腰を下ろした。出されたコーヒーに口をつけるが、舌の上がザラザラして、味がまったくわからない。
言わなければ。
早く、昨日のアレを撤回して、主導権を取り戻さなければ。
湊はカップを置き、テーブルの木目を睨みつけたまま口を開いた。
「……詩織」
「はいっ!」
「……昨日の、俺の発言についてだが」
ピクリ、と詩織の肩が揺れたのがわかった。
湊は、心臓の鼓動が不快なほど早まるのを無視して、一気に言葉を紡ぎ出す。
「……あの時は、頭が揺れてて、まともな思考回路じゃなかった。……だから、あんなのはノーカウントだ。忘れてくれ」
言い切った。
よし、これでいい。
湊は、詩織が悲しそうな顔をして俯くか、あるいは少し落ち込むだろうと身構えていた。
だが。
「……はい」
聞こえてきたのは、ひどく穏やかで、柔らかい声だった。
湊が思わず顔を上げると、詩織は全く傷ついた様子もなく、ただ甘い瞳で湊を見つめていた。
「……でも、嬉しかったです」
「…………ッ」
「湊くんが、あんな風に言ってくれたこと。……私、絶対忘れませんから」
ドクン、と。
湊の胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
喉が詰まり、呼吸の仕方を忘れたように息ができなくなる。
負けた。
必死にひねり出した言い訳が、この少女の、一切の濁りがない「受け入れ」の前では、紙切れ同然に破り捨てられてしまった。
湊の耳から顔面にかけて、一気に血が上っていくのがわかる。
「……っ、だから、あれは俺の本意じゃなくて……!」
「冷めないうちに、目玉焼き食べてくださいね! お醤油ですか? それともお塩にしますか?」
詩織は、湊の必死の抵抗を完全にスルーして、ニコニコと小首を傾げた。
湊は、目の前の皿へ視線を落とした。
そこには、白身の縁が綺麗に固まり、黄身だけが半熟の状態で残された、見た目だけなら完璧な目玉焼きが乗っていた。
(……昨日の惨状から考えれば、奇跡と言っていい)
湊は警戒しながら箸を伸ばす。
黄身を割る。
とろりと流れ出した黄金色の液体に、醤油が一滴落ちる。
その瞬間。
「……甘い」
「えっ?」
湊は眉を寄せた。
塩気を期待した舌に襲いかかってきたのは、明らかに場違いな甘みだった。
「……何を入れた」
「えっと……隠し味です!」
詩織が胸を張る。
「目玉焼きに隠し味という概念はない」
「でも、湊くん、前に甘い卵焼きが好きって言ってましたから!」
「……それは卵焼きだ。目玉焼きではない」
「だから、似たような卵料理なら大丈夫かなって……」
悪びれず笑う詩織。
湊は、もう一度皿を見る。
見た目は完璧。
焼き加減も完璧。
だが味だけが、どこか違う方向へ全力疾走している。
「……砂糖を入れたな」
「はい! あと、少しだけ蜂蜜も!」
「少しだけ、の基準を聞きたい」
湊は深い溜息を吐いた。
栄養学的には問題ない。
卵、タンパク質、脂質。
朝食としての構成は悪くない。
ただ一つ。
目玉焼きとしては、甘すぎる。
それなのに。
「……どうですか?」
期待に満ちた詩織の瞳を見た瞬間、湊は正直な感想を言えなくなった。
「……甘い」
「やっぱり甘いですか?」
「……ああ」
詩織の顔が少し曇る。
湊は慌てて言葉を続けた。
「……だが、不味いとは言っていない」
その一言で、詩織の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか!?」
「……味覚の方向性には、かなり問題があるが」
「えへへ……」
詩織は嬉しそうに笑った。
湊は、その笑顔を見ながら思う。
(……おかしい)
(俺は今、合理性も栄養バランスも無視して、この甘すぎる目玉焼きを食べている)
(なのに……)
(昨日の言葉を撤回するより、ずっと簡単だった)
湊は無言で、もう一口食べた。
詩織は、湊の必死の抵抗を完全にスルーして、ニコニコと小首を傾げた。
その無敵の笑顔の前に、湊の冷徹な仮面は、音を立てて粉々に砕け散っていた。
「……これからの生活についてだが」
朝食後。
なんとか平静を取り戻そうと、湊はわざわざ咳払いをして話を切り出した。
主導権を取り戻すための、最後の足掻きだった。
「はい?」
詩織が、不思議そうに瞬きをする。
「お前はどんくさいから、少し取り決めを変える」
湊は、視線をそらしながら淡々と告げた。
「夜、コンビニとかに行く時は一人で行くな。暗くて危ないから、俺を呼べ」
「あと、学校で何か落とし物をしたり、トラブルを起こしそうになったら……勝手に動かずに俺を呼べ。お前の後始末をするのは俺なんだからな」
言い終えて、湊は腕を組んだ。
完璧だ。これなら「管理コストを下げるための当然の措置」という体裁を保ちつつ、昨日の発言をうやむやにできる。
だが、向かいに座る詩織は、きょとんとした顔をした後、口元に手を当てて小さく吹き出した。
「……えー、でも私、走るの結構速いですよ?」
「足の速さの問題じゃない。治安の問題だ」
「ふふっ。湊くん、なんだか……すっごく心配性のお父さんみたいです」
「だっ……!?」
湊の顔面から、一瞬にして火柱が上がった。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく暴れ回る。
「だ、誰が父親だッ! 俺はただ、面倒事を未然に防ぎたいだけで……ッ!」
「あははっ! はい、わかりました。お父さんの言いつけ、ちゃんと守りますねっ」
「だから父親と呼ぶなと言っている……!」
嬉しそうに食器を片付け始める詩織の背中を見ながら、湊は両手で顔を覆った。
駄目だ。完全にペースを握られている。
自分で設定した取り決めが、ただの「過保護な身内」にしかなっていないことに、どうして気づかなかったのか。
(……胃が痛い)
湊は、誰もいないリビングの隅で、深く、深く絶望の溜息を吐き出した。
朝の通学路。
これまでは、「学校内で変な噂を立てられないため」という理由で、数メートルの距離を空けて歩くようにしていた。
だが、今朝の二人は違った。
歩幅を合わせ、肩が触れそうなほどの距離で並んで歩いている。
「……湊くん。やっぱり、もう少し離れて歩いた方が……」
周囲の生徒の目を気にして、詩織が遠慮がちに一歩、横へずれた。
その瞬間。
「……動くな」
湊の手が、無意識に伸びていた。
詩織の制服の袖口を軽く掴み、自分の側――車道から遠い内側へと引き寄せる。
「ひゃっ!?」
「……車道側を歩くな。危ないだろうが」
湊は、前を向いたまま、ぶっきらぼうに言い放った。
すぐ横を、スピードを出した自転車が通り過ぎていく。
「あ……ありがとう、ございます……」
袖を引かれたまま、詩織が頬を染めて俯く。
湊は、自分が彼女の袖を掴んだまま離していないことに気づき、慌てて手を離した。
指先に、微かな体温が残っている。
(……違う。これは安全への配慮だ。……俺は決して、こいつが俺から離れて歩くのが嫌だったわけじゃ……)
心の中で必死に言い訳を並べるが、その理屈はもう、自分自身すら騙せていなかった。
教室に入っても、その異常は直らなかった。
朝のホームルーム前。クラスの男子生徒が、プリントの束を持って詩織の席へと近づいてきた。
「あ、冬馬さん。これ、後ろに回して……」
「はい、わかりまし――あっ」
詩織がプリントを受け取ろうと立ち上がった拍子に、机の端にあったペンケースが床に落ちそうになる。
だが、それが床に激突するより早く。
スッ、と。
湊が極めて自然な動作で横から手を伸ばし、空中でペンケースをキャッチした。
そして、何事もなかったかのように、コトンと詩織の机にそれを置き直す。
「……お前はどんくさいんだから、立ち上がる前に机の上を確認しろ。中身が散乱したら、掃除する時間が無駄になる」
湊は、プリントを持ってきた男子生徒には目もくれず、ただそれだけを言い捨てて自分の席へ戻っていった。
「……ご、ごめんなさい。ありがとう、湊く……あっ、阿久津くん」
「……えっと、今の、阿久津だよね? なんか、忍者みたいだったな……」
呆然とする男子生徒の横で、詩織は嬉しそうにペンケースを両手で包み込んでいた。
「……へぇ」
放課後の昇降口。
靴を履き替え、無言で並んで歩き出そうとした二人の背中に、声が降ってきた。
靴箱の陰から姿を現したのは、薄い唇を歪めて笑う「観測者」、春奈奈々だった。
「……春奈」
湊の身体が、反射的に強張る。
春菜は、相変わらず気怠げな足取りで二人に近づいてきた。
そして、二人の間を舐めるように観察し、満足げに鼻で笑う。
「……随分と、お粥より甘い匂いがするね、湊くん。……ついに、飼い始めたんだ?」
「……違う。変な言いがかりをつけるな」
湊は、動揺を悟られないよう、低い声で切り捨てようとした。
「隠さなくてもいいのに。……昨日で、二人の関係、変わっちゃったね」
「……変わっていない。……俺とこいつは」
湊が頑なに否定した、次の瞬間だった。
「変わりましたっ!」
隣にいた詩織が、湊の袖をキュッと掴みながら、一歩前に出た。
その顔には、圧倒的な肯定感と、自分の居場所を見つけた少女特有の、強烈な輝きがあった。
「湊くん、私のこと、ずっと見ててくれるって約束してくれたんです! えへへっ」
嬉しそうに笑う詩織。
その無垢な、しかし強烈な肯定に、その場の空気が凍りついた。
「……あれ?」
春奈がふと首を傾げた。
「詩織ちゃん、いつから湊くん呼びになったの?」
「え?」
詩織がきょとんとする。
「……あ」
詩織の頬がみるみる赤くなる。
「……あ」
湊も気づく。
湊の胃が、ギリリと音を立てて悲鳴を上げる。
「…………ッ、お前、何を……ッ」
春奈は、目を丸くして数秒間固まった後、お腹を抱えてクスクスと笑い出した。
「あははっ! 最高。……おめでとう、湊くん。付き合ってもいないのに、もう過保護なお父さんみたいじゃん」
「……違うと言っているだろうが」
「誤魔化せないよ。君のその赤い耳と、さっきから詩織ちゃんを背中に庇おうとしてるその立ち位置が、何よりの証拠でしょ?」
春奈の言葉に、湊はハッとして自分の足元を見た。
気づけば彼は、春奈の視線から詩織を守るように、半歩だけ彼女の前に立ち、無意識にブロックする体勢をとっていた。
完全な、敗北。
17年間、誰にも触れさせなかった自立という名の城壁は、今や完全に更地となり、そこにひどく不器用で過保護な日常が建とうとしている。
「あーあ。理屈っぽい湊くんも、完全に陥落だね」
春奈の容赦ない「答え合わせ」の宣告が、夕闇の迫る昇降口に響き渡った。
反論の言葉は、もう一つも見つからなかった。
隣では、詩織が湊の袖を掴んだまま、まるで自分の宝物を誇るように、嬉しそうに微笑んでいる。
首筋を流れる、嫌な汗。
そして、胸の奥でうるさいほどに鳴り続ける、激しい心拍の音。
(……理屈に合わない。どう考えても論理破綻している)
(だが、これだけは確実に言える)
(俺の完璧だった日常は、ここでもう、完全に終わったんだ)
オレンジ色に染まる校舎の出口で。
阿久津湊は、その甘すぎる絶望と、決して手放したくない熱を抱え込んだまま、ただ無様に立ち尽くすことしかできなかった。




