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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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16/21

第16話:撤回という名の敗北

 網膜を突き刺すような、初夏の鋭い朝日だった。


 阿久津湊は、遮光カーテンの隙間から漏れ入る光に目を細め、ひどく重い身体をベッドの上で寝返らせた。

 シーツのひんやりとした質感が頬に触れる。

 いつもなら、目覚まし時計が鳴る五分前に起床し、白湯を一杯飲んでからストレッチに移行する、完璧なルーティンが始まる時間だ。


 だが、今朝の湊は、掛け布団を頭まですっぽりと被り、シーツを固く握りしめたまま一歩も動くことができなかった。


 痛い。

 胸の中心に、鈍い熱を帯びた痛みが張り付いている。

 物理的な打撲痕のせいだけではない。その痛みは、昨日の記憶の扉を、容赦なくこじ開けるためのトリガーだった。


『……お前が俺を壊したんだ。……なら、責任を取れ』


 自分の口から出たとは到底思えない、ひどく掠れた、湿度の高い声。


『……俺の目の届く範囲から、一歩も出るな』


 鮮明すぎる画質と、やけにリアルな音声を持って、その光景が脳裏にフラッシュバックする。

 詩織の泣き顔。

 胸に押し付けられた柔らかい体温。

 鼻腔の奥にこびりついて離れない、ヴァーベナの石鹸の甘い匂い。


「…………ッ」


 湊は、掛け布団の中でギリッと奥歯を噛み締めた。

 耳の裏から首筋にかけて、火で炙られたような強烈な熱が這い上がってくる。胃の腑がギュッと雑巾のように絞られ、変な汗が背中を伝い落ちた。


 狂っている。

 大人に介入されず、自分一人の力で生きていくための完璧な日常。

 その前提を、俺は昨日、自らの言葉で完全にへし折ってしまった。


(……なんだあれは。あれは、俺じゃない)


 湊は、布団の中で必死に呼吸を整えようとした。

 そうだ。頭を強く打っていたんだ。脳が揺れて、まともな判断ができる状態じゃなかった。

 だから、あんな恥ずかしい台詞を吐いたんだ。


(……ノーカウントだ。あれは全部、頭を打ったせいだ)


 そう処理するはずだった。


 ……なのに。


 あの時、詩織が泣き止んだ瞬間だけは、妙に鮮明に記憶に残っている。


 震えていた肩が止まり、涙で濡れた顔が少しだけ安心したように緩んだ。


 その表情を見て――俺自身も、なぜか安堵していた。


(……違う)


 湊は、布団の中で目を閉じた。


(あれは、相手が落ち着いたことで状況が改善された。それだけだ)


 感情ではない。

 ただの観察結果だ。


 必死の合理化。


 なかったことにすればいい。


 俺はいつも通りの、冷淡で事務的な同居人として、リビングのドアを開ける。


 そして、昨日のあれは事故だったと、淡々と告げればいいだけだ。


 湊は、パンッと両手で自分の頬を叩き、強引にベッドから這い出した。

 洗面所で冷水を顔に叩きつける。鏡の中の自分は、いつも通り無表情だ。


 ……いける。

 俺の日常は、まだ取り戻せる。


 湊は小さく息を吐き出し、意を決してリビングのドアノブを回した。


 リビングに入った瞬間、湊の出鼻は完全にくじかれた。


 キッチンから漂ってくるのは、昨日のような焦げた醤油と不自然な飴の匂いではない。

 熱したフライパンでバターが溶ける芳醇な香りと、トースターから立ち昇る香ばしい小麦の匂いだった。


「ふふーん、ふふふーん♪」


 そして、それ以上に湊の足を止めたのは、キッチンに立つ少女の後ろ姿だった。

 詩織は、足で軽快なリズムを刻みながら、ご機嫌な様子で鼻歌を歌っている。


 昨日、あんなに泣きじゃくり、ゴミ箱に突っ込み、世界が終わったような顔をしていた面影は微塵もない。

 圧倒的な「陽」のオーラが、そこには満ちていた。


 気配に気づいた詩織が、フライ返しを持ったまま振り返る。


「あっ! 湊くん、おはようございますっ!」


 眩しい。

 直視できないほどの満面の笑み。

 湊は思わず目を逸らし、視線をダイニングテーブルへと逃がした。

 そこには、完璧な半熟状態の目玉焼きと、きつね色に焼かれたトーストが綺麗に並べられている。


「……おはよう。……今日は、焦げてないな」


 なんとか絞り出した声は、自分でも嫌になるほど硬かった。


「はいっ! 昨日、湊くんが寝ている間に、動画を見ていっぱい練習したんです!」


 えへへ、と照れくさそうに笑う詩織。

 湊は無言で椅子を引き、腰を下ろした。出されたコーヒーに口をつけるが、舌の上がザラザラして、味がまったくわからない。


 言わなければ。

 早く、昨日のアレを撤回して、主導権を取り戻さなければ。


 湊はカップを置き、テーブルの木目を睨みつけたまま口を開いた。


「……詩織」


「はいっ!」


「……昨日の、俺の発言についてだが」


 ピクリ、と詩織の肩が揺れたのがわかった。

 湊は、心臓の鼓動が不快なほど早まるのを無視して、一気に言葉を紡ぎ出す。


「……あの時は、頭が揺れてて、まともな思考回路じゃなかった。……だから、あんなのはノーカウントだ。忘れてくれ」


 言い切った。

 よし、これでいい。

 湊は、詩織が悲しそうな顔をして俯くか、あるいは少し落ち込むだろうと身構えていた。


 だが。


「……はい」


 聞こえてきたのは、ひどく穏やかで、柔らかい声だった。

 湊が思わず顔を上げると、詩織は全く傷ついた様子もなく、ただ甘い瞳で湊を見つめていた。


「……でも、嬉しかったです」


「…………ッ」


「湊くんが、あんな風に言ってくれたこと。……私、絶対忘れませんから」


 ドクン、と。

 湊の胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。

 喉が詰まり、呼吸の仕方を忘れたように息ができなくなる。


 負けた。

 必死にひねり出した言い訳が、この少女の、一切の濁りがない「受け入れ」の前では、紙切れ同然に破り捨てられてしまった。

 湊の耳から顔面にかけて、一気に血が上っていくのがわかる。


「……っ、だから、あれは俺の本意じゃなくて……!」


「冷めないうちに、目玉焼き食べてくださいね! お醤油ですか? それともお塩にしますか?」


 詩織は、湊の必死の抵抗を完全にスルーして、ニコニコと小首を傾げた。


 湊は、目の前の皿へ視線を落とした。


 そこには、白身の縁が綺麗に固まり、黄身だけが半熟の状態で残された、見た目だけなら完璧な目玉焼きが乗っていた。


(……昨日の惨状から考えれば、奇跡と言っていい)


 湊は警戒しながら箸を伸ばす。


 黄身を割る。

 とろりと流れ出した黄金色の液体に、醤油が一滴落ちる。


 その瞬間。


「……甘い」


「えっ?」


 湊は眉を寄せた。


 塩気を期待した舌に襲いかかってきたのは、明らかに場違いな甘みだった。


「……何を入れた」


「えっと……隠し味です!」


 詩織が胸を張る。


「目玉焼きに隠し味という概念はない」


「でも、湊くん、前に甘い卵焼きが好きって言ってましたから!」


「……それは卵焼きだ。目玉焼きではない」


「だから、似たような卵料理なら大丈夫かなって……」


 悪びれず笑う詩織。


 湊は、もう一度皿を見る。


 見た目は完璧。

 焼き加減も完璧。

 だが味だけが、どこか違う方向へ全力疾走している。


「……砂糖を入れたな」


「はい! あと、少しだけ蜂蜜も!」


「少しだけ、の基準を聞きたい」


 湊は深い溜息を吐いた。


 栄養学的には問題ない。

 卵、タンパク質、脂質。

 朝食としての構成は悪くない。


 ただ一つ。


 目玉焼きとしては、甘すぎる。


 それなのに。


「……どうですか?」


 期待に満ちた詩織の瞳を見た瞬間、湊は正直な感想を言えなくなった。


「……甘い」


「やっぱり甘いですか?」


「……ああ」


 詩織の顔が少し曇る。


 湊は慌てて言葉を続けた。


「……だが、不味いとは言っていない」


 その一言で、詩織の表情がぱっと明るくなる。


「本当ですか!?」


「……味覚の方向性には、かなり問題があるが」


「えへへ……」


 詩織は嬉しそうに笑った。


 湊は、その笑顔を見ながら思う。


(……おかしい)


(俺は今、合理性も栄養バランスも無視して、この甘すぎる目玉焼きを食べている)


(なのに……)


(昨日の言葉を撤回するより、ずっと簡単だった)


 湊は無言で、もう一口食べた。


 詩織は、湊の必死の抵抗を完全にスルーして、ニコニコと小首を傾げた。

 その無敵の笑顔の前に、湊の冷徹な仮面は、音を立てて粉々に砕け散っていた。


「……これからの生活についてだが」


 朝食後。

 なんとか平静を取り戻そうと、湊はわざわざ咳払いをして話を切り出した。

 主導権を取り戻すための、最後の足掻きだった。


「はい?」


 詩織が、不思議そうに瞬きをする。


「お前はどんくさいから、少し取り決めを変える」


 湊は、視線をそらしながら淡々と告げた。


「夜、コンビニとかに行く時は一人で行くな。暗くて危ないから、俺を呼べ」

「あと、学校で何か落とし物をしたり、トラブルを起こしそうになったら……勝手に動かずに俺を呼べ。お前の後始末をするのは俺なんだからな」


 言い終えて、湊は腕を組んだ。

 完璧だ。これなら「管理コストを下げるための当然の措置」という体裁を保ちつつ、昨日の発言をうやむやにできる。


 だが、向かいに座る詩織は、きょとんとした顔をした後、口元に手を当てて小さく吹き出した。


「……えー、でも私、走るの結構速いですよ?」


「足の速さの問題じゃない。治安の問題だ」


「ふふっ。湊くん、なんだか……すっごく心配性のお父さんみたいです」


「だっ……!?」


 湊の顔面から、一瞬にして火柱が上がった。

 喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく暴れ回る。


「だ、誰が父親だッ! 俺はただ、面倒事を未然に防ぎたいだけで……ッ!」


「あははっ! はい、わかりました。お父さんの言いつけ、ちゃんと守りますねっ」


「だから父親と呼ぶなと言っている……!」


 嬉しそうに食器を片付け始める詩織の背中を見ながら、湊は両手で顔を覆った。

 駄目だ。完全にペースを握られている。

 自分で設定した取り決めが、ただの「過保護な身内」にしかなっていないことに、どうして気づかなかったのか。


(……胃が痛い)


 湊は、誰もいないリビングの隅で、深く、深く絶望の溜息を吐き出した。


 朝の通学路。

 これまでは、「学校内で変な噂を立てられないため」という理由で、数メートルの距離を空けて歩くようにしていた。


 だが、今朝の二人は違った。

 歩幅を合わせ、肩が触れそうなほどの距離で並んで歩いている。


「……湊くん。やっぱり、もう少し離れて歩いた方が……」


 周囲の生徒の目を気にして、詩織が遠慮がちに一歩、横へずれた。

 その瞬間。


「……動くな」


 湊の手が、無意識に伸びていた。

 詩織の制服の袖口を軽く掴み、自分の側――車道から遠い内側へと引き寄せる。


「ひゃっ!?」


「……車道側を歩くな。危ないだろうが」


 湊は、前を向いたまま、ぶっきらぼうに言い放った。

 すぐ横を、スピードを出した自転車が通り過ぎていく。


「あ……ありがとう、ございます……」


 袖を引かれたまま、詩織が頬を染めて俯く。

 湊は、自分が彼女の袖を掴んだまま離していないことに気づき、慌てて手を離した。

 指先に、微かな体温が残っている。


(……違う。これは安全への配慮だ。……俺は決して、こいつが俺から離れて歩くのが嫌だったわけじゃ……)


 心の中で必死に言い訳を並べるが、その理屈はもう、自分自身すら騙せていなかった。


 教室に入っても、その異常は直らなかった。

 朝のホームルーム前。クラスの男子生徒が、プリントの束を持って詩織の席へと近づいてきた。


「あ、冬馬さん。これ、後ろに回して……」


「はい、わかりまし――あっ」


 詩織がプリントを受け取ろうと立ち上がった拍子に、机の端にあったペンケースが床に落ちそうになる。

 だが、それが床に激突するより早く。


 スッ、と。

 湊が極めて自然な動作で横から手を伸ばし、空中でペンケースをキャッチした。

 そして、何事もなかったかのように、コトンと詩織の机にそれを置き直す。


「……お前はどんくさいんだから、立ち上がる前に机の上を確認しろ。中身が散乱したら、掃除する時間が無駄になる」


 湊は、プリントを持ってきた男子生徒には目もくれず、ただそれだけを言い捨てて自分の席へ戻っていった。


「……ご、ごめんなさい。ありがとう、湊く……あっ、阿久津くん」

「……えっと、今の、阿久津だよね? なんか、忍者みたいだったな……」


 呆然とする男子生徒の横で、詩織は嬉しそうにペンケースを両手で包み込んでいた。


「……へぇ」


 放課後の昇降口。

 靴を履き替え、無言で並んで歩き出そうとした二人の背中に、声が降ってきた。


 靴箱の陰から姿を現したのは、薄い唇を歪めて笑う「観測者」、春奈奈々だった。


「……春奈」


 湊の身体が、反射的に強張る。

 春菜は、相変わらず気怠げな足取りで二人に近づいてきた。

 そして、二人の間を舐めるように観察し、満足げに鼻で笑う。


「……随分と、お粥より甘い匂いがするね、湊くん。……ついに、飼い始めたんだ?」


「……違う。変な言いがかりをつけるな」


 湊は、動揺を悟られないよう、低い声で切り捨てようとした。


「隠さなくてもいいのに。……昨日で、二人の関係、変わっちゃったね」


「……変わっていない。……俺とこいつは」


 湊が頑なに否定した、次の瞬間だった。


「変わりましたっ!」


 隣にいた詩織が、湊の袖をキュッと掴みながら、一歩前に出た。

 その顔には、圧倒的な肯定感と、自分の居場所を見つけた少女特有の、強烈な輝きがあった。


「湊くん、私のこと、ずっと見ててくれるって約束してくれたんです! えへへっ」


 嬉しそうに笑う詩織。

 その無垢な、しかし強烈な肯定に、その場の空気が凍りついた。


「……あれ?」


 春奈がふと首を傾げた。


「詩織ちゃん、いつから湊くん呼びになったの?」


「え?」


 詩織がきょとんとする。


「……あ」


 詩織の頬がみるみる赤くなる。


「……あ」


 湊も気づく。


 湊の胃が、ギリリと音を立てて悲鳴を上げる。


「…………ッ、お前、何を……ッ」


 春奈は、目を丸くして数秒間固まった後、お腹を抱えてクスクスと笑い出した。


「あははっ! 最高。……おめでとう、湊くん。付き合ってもいないのに、もう過保護なお父さんみたいじゃん」


「……違うと言っているだろうが」


「誤魔化せないよ。君のその赤い耳と、さっきから詩織ちゃんを背中に庇おうとしてるその立ち位置が、何よりの証拠でしょ?」


 春奈の言葉に、湊はハッとして自分の足元を見た。

 気づけば彼は、春奈の視線から詩織を守るように、半歩だけ彼女の前に立ち、無意識にブロックする体勢をとっていた。


 完全な、敗北。

 17年間、誰にも触れさせなかった自立という名の城壁は、今や完全に更地となり、そこにひどく不器用で過保護な日常が建とうとしている。


「あーあ。理屈っぽい湊くんも、完全に陥落だね」


 春奈の容赦ない「答え合わせ」の宣告が、夕闇の迫る昇降口に響き渡った。


 反論の言葉は、もう一つも見つからなかった。

 隣では、詩織が湊の袖を掴んだまま、まるで自分の宝物を誇るように、嬉しそうに微笑んでいる。


 首筋を流れる、嫌な汗。

 そして、胸の奥でうるさいほどに鳴り続ける、激しい心拍の音。


(……理屈に合わない。どう考えても論理破綻している)

(だが、これだけは確実に言える)

(俺の完璧だった日常は、ここでもう、完全に終わったんだ)


 オレンジ色に染まる校舎の出口で。

 阿久津湊は、その甘すぎる絶望と、決して手放したくない熱を抱え込んだまま、ただ無様に立ち尽くすことしかできなかった。

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