第15話:五月雨に濡れて(※快晴。物理ダメージによる脳震盪です)
深い、泥の底に沈んでいくような暗闇だった。
だが、その闇は決して静かではない。耳の奥では、まるで巨大なスタジアムの歓声のような耳鳴りがガンガンと反響し続けている。
……痛い。
真っ先に脳が認識したのは、胸の真ん中を巨大なハンマーでぶち抜かれたような、呼吸すら躊躇われるほどの鈍い激痛だった。
それに連動するように、後頭部から首筋にかけて、脈打つような熱が広がっている。
阿久津湊は、重く張り付いたまぶたを、微かな呻き声と共にゆっくりと押し上げた。
視界が白く霞み、ぐにゃりと歪んでいる。
焦点が定まらない中、ぼんやりと見えてきたのは、白く無機質な四角い空間。
……知っている天井だ。
俺が昨日、専用のワックスを使って、塵一つ残さず完璧に磨き上げた、見慣れたリビングの天井。
だが、その完璧な空間に、あってはならない「異物」が割り込んできた。
「……ぁ……っ、みなと、くん……?」
視界を遮るように覗き込んできたのは、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らした少女の顔だった。
詩織だ。
彼女は湊のシャツの襟元を両手で強く握りしめ、まるで捨てられた子猫のように小刻みに肩を震わせている。
湊は、自分がソファの上に仰向けに寝かされていることを、背中の柔らかな感触でようやく理解した。
頭が揺れている。思考のピントが合わない。
視界の中の詩織は、ひどく怯えて、今にも泣き崩れそうなのに――湊の麻痺した脳は、その潤んだ瞳と、微かに桃色に染まった頬を、どうしようもなく「綺麗だ」と錯覚してしまった。
「……あ、あ。……天使まで、いるのか」
掠れた声が、自分の喉から漏れた。
それは、普段の湊なら絶対に口にしない、防衛本能を完全に剥奪された状態での、無防備すぎる本音だった。
「……ここは……天国か? ……最後に見たのが、お前みたいな天使で……悪く、ない……」
「ふぇっ!?」
詩織の肩が、ビクッと大きく跳ねた。
彼女の顔が、首の根元から一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まる。
涙でぐちゃぐちゃだったはずの顔に、隠しきれない熱情と照れが爆発し、彼女は湊の胸元を握ったまま、じたばたと身をよじった。
「て、てててて、天使ぃぃぃっ!? そ、そんなぁ! 湊くんったら、もう……! 私が天使だなんて、えへへ、えへへへへっ!」
ドスッ、ドスッ。
身をよじる詩織の腕の重みが、湊の痛む胸板に容赦なく打ち付けられる。
「……っ……ぐ、あ……」
その物理的な痛覚が、湊の脳を強制的に揺り起こした。
視界を覆っていた靄が晴れ、目の前で身悶えしている少女の「正体」が、はっきりと輪郭を結ぶ。
――昨日、俺の腹部に頭から突っ込んできた、特攻兵器。
「……すまん。まだ、頭が揺れているようだ」
湊は、喉の奥の引き攣りを抑え込みながら、這い出るような低い声で言った。
目の前の「天使」を見る目が、急速にいつもの冷ややかな温度へと戻っていく。
「……思い出した。天使じゃなくて、俺を殺しかけた『犯人』だったか」
「…………しゅん」
一瞬で、詩織の背中から見えない羽がもげ落ちた。
さっきまでの桃色のオーラは霧散し、彼女はわかりやすく肩を落とし、情けない声でうなだれる。
「……ひどいですぅ。私、あんなに一生懸命、湊くんのことを……」
「……お前の一生懸命のせいで、俺の胸郭は今、再起不能なダメージを負っている。……いいから、少し離れてくれ。息が、詰まる」
湊は、ソファに手をついて、なんとか上体を起こそうとした。
だが、少し頭を上げた瞬間、視界の端の玄関ドアが目に入り、湊の動きが完全に停止した。
頑丈なはずの金属製のドア。
その中央付近に、くっきりと「球体」のシルエット状の、生々しい凹みができている。
(……おい。俺は昨日、ヒグマか何かと衝突したのか……?)
背筋に冷たい汗が流れる。
そして、その凹みを見た瞬間、湊の視界の端で、ヘルメットを被った背番号54のアメフト選手が、低い姿勢でタックルの構えをとる幻視が揺れた。
『まだ寝てろ。ディフェンスは終わってない』
そんな幻聴まで響き、湊はたまらずソファに背中を預け直した。
視界が回る。吐き気が胃の底からせり上がってくる。
「み、湊くんっ! だめですよ、まだ起き上がっちゃ!」
詩織が慌てて湊の肩を押さえる。
彼女の手は氷のように冷たかったが、その奥にある熱が、服越しに湊の肌をじりじりと焼いた。
「すごい熱です……っ。待っててください、今、冷たいもの持ってきますからっ!」
ドタバタと、わざと音を立てているのかと思うほど騒々しい足音で、詩織がキッチンへ駆けていく。
湊は目を閉じ、大きく息を吐いた。
自分の体が、自分のものではないように重い。
指先一つ動かすのにも、ひどい労力を要する。
17年間、自分の生活を、自分の身体を、誰の介入も許さずに完璧に支配してきたはずだった。それが今、自分の足で立つことすらままならない。
「……最悪だ」
誰にも聞こえない声で、湊は毒づいた。
「お待たせしましたぁ!」
数秒後、詩織がキッチンから戻ってきた。
彼女の両手には、タオルでぐるぐる巻きにされた、不自然に四角く、そしてやたらと巨大な塊が抱えられている。
「……おい。それはなんだ」
「氷が見当たらなくて! 冷凍庫にあった、一番冷たそうなものをタオルで巻いてきました!」
詩織はそう言うなり、湊の額にその巨大な塊をドンッと乗せた。
ずっしりとした重量感が、湊の首の骨をミシミシと鳴らす。
「……冷たい。だが、重すぎる。……それに、微かに生肉の匂いがするんだが」
「豚バラのブロック肉ですから! カチカチですよぉ!」
「……俺を解凍してどうする気だ。……どけろ」
「だめですっ! 脳が揺れた時は、首元と頭を冷やすって、保健の授業で習いましたっ!」
「……それは熱中症の時だ。お前の頭の中では、俺は今、炎天下で倒れていることになっているのか……」
湊が息も絶え絶えに指摘するが、詩織は引かない。
それどころか、豚肉の冷気でタオルの表面に滲み出した水滴が湊の頬に垂れると、彼女は慌てて自分の袖口で湊の顔を拭い始めた。
近い。
拭き取るたびに、彼女の顔が湊の鼻先数センチまで接近する。
石鹸の匂いと、彼女自身の甘い体臭が混ざり合い、湊の肺を無理やり満たしていく。
「……離れろ。……自分で拭ける」
「だめです! 湊くんは重傷なんですから!」
詩織の必死な息遣いが、湊の首筋にかかる。
彼女の指先が頬に触れるたび、湊の心臓が、胸の痛みを上書きするような暴力的な速度で跳ね上がった。
外は、憎らしいほどに突き抜けるような快晴だった。
窓から差し込む初夏の強い日差しが、リビングの床を白く飛ばしている。
「……こんなに晴れているのに。……俺の頭の中は、土砂降りだ」
湊が皮肉たっぷりに呟くと、詩織はタオル越しの豚肉を押さえながら、悲しそうに眉を下げた。
「……私の心にも、後悔の五月雨がずっと降り続いてるんです。……湊くんを、あんなに強く……」
「……五月雨は梅雨時の雨だ。言葉の使い方が間違っている。……大体、あのタックルは雨なんて生ぬるいものじゃない。ダンプカーだ」
湊が息も絶え絶えにツッコミを入れたその時。
ローテーブルの上に放り出されていた湊のスマートフォンが、ブブッと短く震えた。
画面に表示されたのは、春奈奈々からのメッセージ通知。
湊は腕を伸ばすのもしんどかったが、詩織が気を利かせて(というより中身が見たくて)スマホを湊の目の前まで持ち上げた。
『湊くん、生きてる? さっき、君の部屋から交通事故みたいな音したけど。
あ、お粥には塩じゃなくて、愛情入れるといいよって詩織ちゃんに教えといてね』
湊は、その文面を見て、絶望に目を閉じた。
あの女は、すべてを観測しているのか。
今、この密室で、自分が詩織に馬乗りになられ、豚のブロック肉でアイシングされているという、この上なく無様で、甘ったるい地獄を。
「……春奈さん、お粥のこと言ってますね! 私、愛情たっぷりのお粥、作ってきます!」
詩織はスマホを放り出し、再びキッチンへと弾けていった。
湊は、額の上の豚肉の重みに耐えながら、天井を睨みつけた。
大人に介入されず、誰にも弱みを見せず、完璧な自立を証明するための、俺の城。
それが今、たった一人の少女の暴走によって、根底から破壊されようとしている。
十五分後。
キッチンから漂ってきたのは、出汁の香りでも、米の炊ける匂いでもなかった。
鼻を突くような、焦げた醤油と、不自然な甘い匂い。
「お待たせしましたぁ! 湊くん、特製お粥ですっ!」
自信満々にボウルを運んできた詩織の顔を見て、湊は思わず息を呑んだ。
彼女の鼻の頭には黒い煤がつき、前髪は汗で額に張り付いている。
そして、湊の目の前に突き出されたボウルの中身。
それは、水分量を完全に間違え、ドロドロの糊のようになった「かつて米だった何か」だった。所々が炭のように黒く焦げ付き、なぜか微かにピンク色の液体が滲んでいる。
「……おい。何だ、これは」
「お粥ですよぉ! 病人の主食といえば、これって決まってます!」
詩織は、全く悪びれる様子もなく、スプーンでその粘着質の物体を掬い上げた。
本来の湊なら、間髪入れずに拒絶していただろう。
俺の主訴は頭部への衝撃による脳震盪だ。胃腸炎の患者でもないのに、なぜ消化の容易さだけを重視した粥を食べる必要がある。
こんな栄養密度の低い、しかも発がん性物質(焦げ)を含んだものを、わざわざ摂取する理由がない。
その正論が、喉の奥まで出かかった。
だが。
「……あーん、ですよぉ!」
期待に満ちた目で湊を見つめる詩織。
その手は、スプーンを持つ指先まで、微かに震えていた。
彼女の顔には、湊を傷つけてしまったことへの深い後悔と、だからこそ自分がどうにかしなければという、不器用で切実な熱が張り付いている。
湊は、深く、重い溜息を吐いた。
「…………」
胃がせり上がるような焦げ臭さ。
栄養学的には完全にエラーだ。これを食べることは、俺の身体管理に対する冒涜でしかない。
だが、湊はゆっくりと口を開けた。
詩織の顔が、パァッと明るくなる。
口内に流し込まれたのは、熱すぎる糊。
そして、舌を刺すような焦げ味の後に、強烈な人工的な甘みが襲ってきた。
「……なんだ、この甘さは」
「隠し味です! 湊くんがこの前くれた、いちご味の飴を溶かして入れました! 愛情たっぷりです!」
湊は、咀嚼するのをやめて、そのまま無理やり飲み込んだ。
喉が焼けそうだった。不味い。圧倒的に不味い。
だが、その不味さが、なぜかひどく胸の奥を温かくした。
「……どうですか、湊くん?」
「……不味い。それに、お粥なんて栄養は微々たるものだ。……次は、もっとまともなものを作れ」
ぶっきらぼうにそう言い捨てながらも、湊は差し出された二口目を、拒むことなく受け入れた。
完璧な管理者が、自分のルールを破り、ただの「甘やかされる無力な少年」へと堕ちていく。
その敗北感が、不思議と嫌ではなかった。
ボウルの半分ほどを無理やり平らげた後、湊の身体にはどっと疲労が押し寄せてきた。
冷や汗と、先ほどの豚肉の結露のせいで、シャツがじっとりと肌に張り付いている。気持ち悪い。
「……少し、寝る。……服を、着替えないと」
湊がソファから身体を起こそうとした時だった。
「だめですっ! 湊くんは動かないでください! 私がやります!」
詩織が、ボウルをテーブルに置き、猛然と湊に覆い被さってきた。
「……おい、待て。何を……っ」
「着替えです! 汗かいたまま寝たら、本当に風邪ひいちゃいます!」
詩織の顔が、湊の胸元に迫る。
湊が止める間もなく、彼女の小さな手が、湊のシャツのボタンに掛けられた。
「……やめろ。自分で……」
湊は腕を上げようとしたが、肩口から走る激痛に顔をしかめ、動きを止めてしまった。
その隙に、詩織の指先が、不器用に、しかし確実に湊のシャツを開いていく。
カチャリ、カチャリ。
布が擦れる音。
詩織の荒い呼吸が、直接湊の肌に吹き付けられる。
湊の喉がカラカラに乾いた。
昨日、俺が春奈のボタンを外した時、こいつはこんなに息苦しい思いをしていたのか。
視線をどこに向ければいいのかわからない。目の前には、必死な顔つきで俺の胸元を見つめる少女の、無防備なつむじがある。
やがて、シャツがはだけ、湊の胸板が露わになった。
その瞬間、詩織の手がピタリと止まった。
「……あ……」
詩織の口から、小さな悲鳴のような音が漏れた。
彼女の視線の先。湊の胸の中央には、赤黒く、そして青紫色に変色した、巨大な打撲痕が広がっていた。
彼女自身の頭が激突した、消えない暴力の痕跡。
詩織の震える指先が、その痣の縁に、そっと触れた。
熱い。
彼女の指の温度が、傷口を通じて湊の心臓を直接握り潰すように伝わってくる。
「……ごめんなさい……。私、湊くんに……こんな……ひどいこと……っ」
ポタッ。
温かい水滴が、湊の胸に落ちた。
詩織の目から溢れた涙が、湊の肌を伝って流れていく。
彼女は、湊の胸に顔を埋めるようにして、声を殺して泣き始めた。
その重み。その熱。その涙の温度。
すべてが、湊の構築してきた「完璧な自立」という防壁を、内側からボロボロに溶かしていく。
俺は、もうダメかもしれない。
こんな風に泣かれて、こんな風に触れられて。
それでも、こいつを突き放すことが、俺にはもう、できない。
湊は、ゆっくりと右腕を上げた。
激痛が走るが、構わず、その手を詩織の背中に回した。
「……泣くな。鬱陶しい」
声は、自分でも呆れるほど優しかった。
「……っ、でも、私が……」
「……お前が俺を壊したんだ」
詩織の顔が青ざめる。
「……なら」
湊は、痛みに顔を歪めながら、それでも手を離さなかった。
「責任を取れ」
詩織が、ハッとして顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、至近距離で湊を見つめる。
「……責任、ですか……?」
「ああ。……お前のその殺人的なタックルが、俺以外の奴に向かわないように。……俺の目の届く範囲から、一歩も出るな。俺が、お前をずっと監視してやる」
それは、どうしようもなく不器用で、ひねくれた、17歳の少年による「プロポーズ」にも似た独占宣言だった。
詩織の瞳が大きく揺れ、やがて、その目から再び大粒の涙が溢れ出した。
だが、今度は悲しみの涙ではない。
顔を真っ赤に染め、彼女は湊の胸に、今度はそっと、愛おしむように顔を埋めた。
「……はいっ。……私、ずっと、湊くんのそばにいます……っ」
痛い。
胸が痛い。
頭も痛い。
だが、それ以上に、この腕の中の重みが、狂おしいほどに心地よかった。
(……俺は何を言っているんだ。……これじゃあ、俺の方が、こいつに管理されてるみたいじゃないか……)
窓の外の快晴は、どこまでも青く、残酷なほどに明るかった。
だが、湊の胸の中には、じっとりと湿った、二度と乾くことのない「熱」が、確かに根を下ろしていた。
五月雨なんて、どこにも降っていない。
ただ、この城の主導権が完全に逆転した事実だけが、静かに、そして暴力的に、このリビングを満たしていた。




