第14話:大好きの衝撃
玄関のドアが、冷たく、ひどく重い金属音を響かせて閉まった。
阿久津湊は、スラックスのポケットの中で指先を強く食い込ませていた。
掌には、じっとりと嫌な汗が滲んでいる。
背後には、学校という狭い檻の中で「観測者」として君臨する女、春奈奈々。
そして視線の先には、ダイニングチェアの端に座り、今にも消えてしまいそうなほど肩を震わせている詩織。
「……勝手に入るなと言ったはずだ、春奈」
湊の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
喉の奥が、乾いた砂を飲み込んだようにヒリつく。
だが、春奈はそんな拒絶など風に流すように、ふわりとリビングの空気を侵食していった。
「へぇ……。外から見るより、ずっと『男の子の部屋』って感じがしないね、ここ」
春奈は、湊がミリ単位の狂いもなく整頓した文房具や、ラベルを統一した調味料の瓶を、珍しいものを見るように眺める。
その指先には、塗りムラのある安っぽいマニキュアが剥がれかけていた。
「湊くん、君。もしかして、自分の心拍数まで数えてないと気が済まないタイプ?」
「……座ってろ。茶くらいは出してやる」
湊は、春奈の粘りつくような視線から逃れるように、わずかに息を吐き出してキッチンへ向かった。
だが、そこで彼は見てしまった。
ソファに腰を下ろそうとした春奈が、自分の足元を見て、ひどく間抜けた顔で首を傾げているのを。
「……あ。ねえ湊くん。これ、どうやったら直るかな」
差し出された彼女の足。
白い靴下の踵の部分が、足の甲側に来ていた。裏表どころか、前後すらデタラメに履いている。
「……春奈。お前、それは……」
「昨日からずっとチクチクするなあって思ってたんだよね。あ、あとこれ。このブラウス、ボタンが一個余っちゃった。どこから間違えたんだろう」
湊は、目の前が微かに暗くなるのを感じた。
学校では他人の心理をチェス盤のように操る女が、自分の身体を包む布切れ一枚、まともに着ることができていない。
「……動くな。ボタン、掛け直してやるから、そこから一歩も動かずにいろ」
湊は、春奈の前に膝をついた。
息を詰め、指先が震えないよう細心の注意を払いながら、掛け違えられたボタンを一つずつ外していく。
春奈のブラウスからは、微かに使い古した油のような、あるいは中途半端に乾いた洗濯物の匂いがした。
この女は、他者を観測することにすべてのリソースを振り切り、自分という個体の維持を完全に放棄している。
それは、湊の奥底にこびりついた「放っておけない」という本能を、最悪の形で刺激した。
夕食の時間は、胃の腑が鉛のように重くなる沈黙に支配されていた。
湊が用意したのは、骨を一本残らず取り除いた鯖の塩焼きと、出汁を丁寧に取った味噌汁。
詩織は、隣に座る「学校の怪物」に怯えながらも、湊が用意した魚を一口ずつ、大切そうに口に運ぶ。
彼女の震える手が持つ箸が、皿に当たって微かにカチカチと音を立てていた。
それを、春奈は斜めに割れた割り箸を持ったまま、ニヤニヤと眺めている。
「……ふーん。湊くん、詩織ちゃんの鯖、全部骨がないね。これ、君が一本ずつ抜いたんでしょ?」
「……喉に詰まらせたら、後始末が面倒なだけだ」
「へぇ。じゃあ、詩織ちゃんが食べやすいように、ほうれん草を三センチ幅に切り揃えてるのも、……その、面倒だから?」
湊の箸が、止まった。
春奈は、湊が自分でも無意識に行っていた「過保護」の痕跡を、容赦なく抉り出していく。
「すごいね、この部屋。湊くんの『心配』が、空気の粒子みたいに漂ってる。……ねえ、詩織ちゃん。この人、君がいないと、たぶん自分が何のために掃除してるのか分からなくなっちゃうよ」
「……っ、そんなこと……!」
詩織が顔を赤くして反論しようとするが、言葉が喉に仕えて出てこない。
春奈は、満足げに味噌汁を啜り(それも、ずずっと行儀の悪い音を立てて)、ゆっくりと立ち上がった。
「あーあ、お腹いっぱい。人が作った温かいご飯って、こんなに脳に効くんだ。……湊くん、私の家も明日から来てよ。ゴミ袋の縛り方がわからなくて、ベランダが大変なことになってるから」
「……死んでも行かない」
「つれないなあ。……じゃあね、詩織ちゃん。湊くんをあんまり困らせちゃダメだよ? 彼はもう、君のことで頭がいっぱい。……たぶん今頃、自分でも気づいてないよ?」
嵐のような「おせっかい」と、強烈な生活の無能さを撒き散らして、春奈奈々は去っていった。
玄関の鍵が閉まった瞬間、部屋には、今まで以上に重苦しい、しかしひどく熱を帯びた静寂が降り積もった。
「……湊くん。……あの、ごめんなさい」
詩織が、消え入りそうな声で呟いた。
彼女の指先は、湊が選んでやった新しい服の裾を、血の気が引いて白くなるほど強く握りしめている。
「何がだ」
「……私のせいで、春奈さんに変なこと言わせて……。私、やっぱり、湊くんに迷惑ばっかりかけてます。……住み込みの、従業員なのに……」
湊は、苛立ち紛れに椅子を引いた。
春奈に暴かれた「執着」の残滓が、胸の奥でドロリと燻り、嫌な汗となって背中を伝う。
迷惑。
そんな言葉で片付けられるようなレベルじゃない。
こいつがゴミ箱をひっくり返すたびに、こいつが夜中にうなされるたびに、湊の心臓は彼自身が許容できないほどの速度で跳ね、彼の「完璧な自立」を内側から食い破っていく。
「……迷惑なのは、今に始まったことじゃない。……さっきも言ったはずだ。俺は、お前のことで頭がいっぱいなんだ」
湊は、それを「トラブルの未然防止」という意味で言ったつもりだった。
だが、少しだけ震えてしまったその声は、湊の制御を離れ、別の熱を持って詩織に届いた。
詩織の瞳が、大きく見開かれる。
その瞳の奥で、張り詰めていた何かが、音を立てて決壊した。
「湊くん……っ! 私……私、やっぱり言わなきゃ……っ!」
詩織が、勢いよく立ち上がった。
その足元はひどく覚束なく、視界が溢れ出した涙で歪んでいるのが、湊の位置からもわかった。
極限の焦りが、彼女の神経を完全に狂わせる。
ガシャーン!!
「あ、あわわわわわっ!?」
物理的な崩壊。
テーブルの端のコップを薙ぎ倒し、慌ててそれを拾おうとした詩織は、濡れたフローリングに大きく足を滑らせた。
湊が手を伸ばすより早く。
彼女の身体は宙を舞い、キッチンの隅に置かれた「自治体指定の45リットルゴミ袋」をセットした、口の広い大型ゴミ箱の中へと、きれいな軌道を描いて吸い込まれた。
ズボッ!!
「…………」
静寂。
ゴミ箱から細い脚だけを出して、ジタバタと溺れるようにバタつかせている少女。
湊は、天を仰いだ。喉の奥が、乾いた笑いで引き攣る。
「……おい。何をやっている。……じっとしてろ。……抜くぞ」
湊は膝をつき、彼女の細い腰を両手で掴んだ。
薄いブラウス越しに伝わる体温が、異様に高い。湊自身の呼吸も、先ほど春菜に暴かれた動揺のせいで、自分でも嫌になるほど浅く、早くなっていた。
「……三、二、一」
スポン!
情けない音と共に、詩織の頭がゴミ箱から解放された。
彼女の髪には、湊が今朝捨てた卵の殻の欠片が絡まっている。
「……ぷはっ! ……ぁ、あ、はぁ……っ、はぁ……っ」
ゴミ箱から救出された詩織は、湊の腕の中で、ひどく荒い息を繰り返していた。
涙と汗で前髪が額に張り付き、真っ赤に染まった顔で、酸素を求めるように小さく肩を上下させている。
顔には恥辱と、それ以上の、引き返せない場所まで来てしまった者の熱情が入り混じっていた。
湊の指が、無意識に彼女の髪へ伸びる。
絡まった卵の殻をそっと払う。その時、湊の指先が、熱を持った詩織の耳たぶに微かに触れた。
「……っ」
ビクリと、詩織の肩が跳ねる。
湊もまた、その火傷しそうなほどの熱さに、思わず息を呑んだ。
その、あまりにも事務的で、あまりにも無防備な指先の感触が、張り詰めていた詩織の神経に最後の、決定的なスイッチを入れた。
詩織が、小さく、けれど肺の底まで届くほど深く、息を吸い込む音がした。
「……湊くんっ、大好きですぅぅぅぅ!!」
叫んだ。
それと同時に、彼女は弾かれたように地を蹴った。
それは抱擁という情緒的な動作ではない。
ドンッ、と床を蹴る鈍い音。
正確無比で、暴力的な――本物のハードタックルだった。
「ぐはっ……!?」
不意を突かれた湊の横隔膜から、すべての酸素が物理的に押し出される。
詩織の頭頂部が、湊のみぞおちを正確に射抜く。
背中が玄関のドアに激突し、鈍い衝撃音が家中に響き渡った。
ドゴォン!!
肺が潰れ、心臓が爆ぜ、視界が明滅する。
鼻を突いた詩織の石鹸の匂い。
あまりの衝撃と、彼女の「大好き」という言葉の異様な重さに、湊の理性のヒューズが音を立てて飛んだ。
「……おま、え……っ……」
暗転していく視界の向こう側で、なぜかアメフト選手の幻がサムズアップしていた。
(……ボビーワグ……ナー?)
そこで、世界が落ちた。
膝から崩れ落ちる湊。
その体温を、パニックになった詩織が「湊くん!? 湊くぅぅぅん!!」と絶叫しながら受け止める。
壁の向こうで、まだ誰かが満足そうに笑っている気がした。




