第13話:聖域の境界(ボーダーライン)
駅前からの帰り道。俺たちの間に、会話は一切なかった。
六月の湿った夜気は不快なほどに重く、制服の生地を通して肌にべっとりと張り付いている。
旧態依然とした街灯が放つ頼りない橙色の光が、ひび割れたアスファルトの上に、俺と詩織の長く歪な影を落としていた。
俺の右手には、いまだにあの異常な感覚が痺れるように残っている。
カラオケボックスの、あのノイズだらけの空間で、衝動的に掴んだ詩織の腕。
その細さ。指先に伝わった、想定外の柔らかさ。
そして――触れた瞬間に理解してしまった、彼女が必死に縋っていた理由。
隠蔽のためにとった、最短距離の物理的接触。
俺の論理が導き出した最善手のはずだったその行動の代償は、想定を遥かに超える重い不快な余韻となって、今も右手の掌にこびりついて離れない。
背後を歩く詩織は、カラオケ店を出てから一言も発さない。
いつもなら、俺の斜め後ろ、二歩分ほどの距離を申し訳なさそうについてくる彼女が、今日はあきらかに距離を置いている。
三歩、いや四歩。
春奈奈々が放った、「知らない女の人の匂い」という一言。
オカルトという皮を被った、あまりに稚拙で、それゆえに詩織のような純粋なエラーには抗いようのない致命的な嘘が、目に見えない強固な障壁となって、俺たちの間に音もなく居座っていた。
「……阿久津の天敵っぽいよな。あいつ」
駅の改札で別れ際、矢野が俺の耳元で囁いた声が、鼓膜の奥で呪いのようにリピートされる。
俺が自分から他人の情報を探るという、擬態を自ら破るような行動を見せた瞬間、あのトリックスターはすべてを悟っていたのだ。
俺が完璧に管理し、誰にも知られずに完結させていたはずの箱庭。
だが、その壁はとうの昔に奴らに透かされていた。
その事実が、足を進めるたびに俺の自尊心をじりじりと削っていく。
◇
自宅の重い鉄の扉を開け、玄関に足を踏み入れる。
本来なら、ここは外界のあらゆるノイズから俺を切り離す、絶対的な安全地帯であるはずだった。
だが、背後でドアが「カチリ」と虚しく響いた瞬間。
俺はその停滞した空気に、吐き気すら覚えるほどの息苦しさを感じた。
靴を脱ぐ音すらしない。
振り返ると、詩織がリビングへと向かう廊下の暗がりに立ち尽くしたまま、動こうとしなかった。
ただ、肩を小さく震わせ、自分を抱きしめるように両腕を組んでいる。
「……冬馬。手を洗ってきてくれ。すぐにお茶を淹れる」
俺は努めて平坦な、いつもの事務的な声を作った。
だが。
「……湊くん」
詩織の声は、掠れ、ひどく湿り気を帯びた声。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
街灯の光がわずかに差し込む玄関先で、その瞳は暗闇の中でも異様な光を宿して、俺を真っ直ぐに見つめていた。
そこに浮かんでいるのは、裏切られた怒りではない。
底の見えない、深い絶望と――俺という「命綱」を失うことへの、狂気的なまでの懇願だ。
「……本当に、知らない女の人の匂い……してたんですか?」
阿久津湊という人間が、彼女にとって唯一残された居場所であること。
この閉鎖された空間での生活が、彼女の生存を担保する唯一の基盤であること。
俺は、その重みを理解していた。
だからこそ、大人たちに介入されないよう完璧に管理してきたつもりだった。
だが、春奈のついたデタラメは、詩織の思考の回路を根底からショートさせていた。
「春奈の言ったことはすべてオカルトだ。……俺が誰かと会う時間も、理由もない」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。
だが、詩織には届かない。
「でも……湊くんは、嘘をつくのが上手だから……っ! 私には、湊くんが何を考えているのか、本当のところは一つも分からないから……っ!」
詩織の瞳から、耐えきれなくなったように大粒の涙が溢れ出した。
「私を捨てる準備をしてるんじゃないかって……春奈さんと話してたら、急に怖くなって……湊くんがいなくなったら、私は、私はどこに行けば……どこに行けばいいんですか……っ!」
彼女はたまらず一歩踏み出し、俺の制服の胸元に両手で縋り付いた。
細い指先が、布地を千切れんばかりの力で握りしめる。
俺の胸板に押し付けられた彼女の額。
そこから伝わる熱を帯びた、激しい嗚咽。
肺から空気を無理やり絞り出すような、ヒュウヒュウと音を立てる過呼吸寸前の歪な呼吸。
俺は、硬直した。
自分の領域で、自分が保護しているはずの少女が、自分の手の中で今にも壊れそうに震えている。
その生身の質量、髪から漂う洗剤の匂い、そして伝わってくる圧倒的なまでの依存の熱。
俺は、彼女の背に手を回すべきか、それともこのまま引き剥がすべきか。
論理的な思考が停止しかけた、その絶望的な静寂の最中だった。
――ピンポーン。
無機質で、無慈悲な電子音が、死んだように静まり返っていた部屋に鳴り響いた。
鼓膜を直接針で刺されたような、暴力的な衝撃。
二十時三分。
この部屋を、予告なしに訪ねてくる人間など、この世のどこを探しても存在するはずがない。
心臓が、肋骨の檻を内側から突き破らんばかりの激しい鼓動を打ち始めた。
俺は縋り付いていた詩織の肩を押さえ、半ば強引に引き剥がすと、音を殺して玄関のインターホンへと歩み寄った。
掌に滲んだ嫌な汗が、プラスチックの筐体にねっとりと付着する。
液晶モニターの起動スイッチを、指先で押す。
ブツッ、という微かなノイズ。
青白い画面には、一瞬、黒い影しか映らなかった。
カメラの故障か?
いや、違う。何かが、レンズのすぐ手前にへばりついているのだ。
その影が、ゆっくりと後ろへ下がる。
ピントが合い、暗闇の中に浮かび上がったのは――カメラを覗き込む、丸く見開かれた春奈奈々の瞳だった。
「っ……!」
いつの間にか隣で画面を覗き込んでいた詩織が、短く鋭い息を飲み、反射的に一歩後ずさった。
彼女の顔面から、一気に血の気が引いていく。
画面の中で、春奈は春の陽だまりのような、どこまでも無邪気で一点の曇りもない笑顔を作った。
『阿久津くーん。聞こえてる? 忘れ物だよ。詩織ちゃんの。……大事な証拠(忘れ物)でしょ?』
春奈が魚眼レンズの向こうで、右手になにやら「黒い塊」を誇らしげに掲げている。
俺は目を細め、モニターの解像度を疑うようにその物体を凝視した。
……全身の血の気が、一気に足元から抜けていった。
それは。
黒い布のようなもの。
その輪郭を見た瞬間、俺の背筋が凍った。
そこに浮かんだ柄を、俺は知っていた。
あの日、俺が処分したはずの――あの『幾何学模様のマスク』だった。
詩織が予備としてカバンの奥深くに隠し持っていたのか。
それを、あのカラオケのノイズに紛れて抜き取ったのか。
春奈は、レンズ越しに俺の心臓を直接覗き込むように笑い、トドメを刺すように唇をマイクへと近づけた。
『阿久津くん、開けて〜。詩織ちゃんも中にいるんでしょ? ……ここ、二人で住んでる匂いが、外まで漏れてるよ?』
喉の奥が、砂を噛んだように急速に干からびる。
肺に空気が入ってこない。
俺の脳内で、必死に組み立てようとしていた論理のブロックが、音を立てて崩れ落ちていく。
開ければ、すべてが終わる。
俺の自由も、詩織の平穏も、この春奈奈々という怪物に蹂躙される。
だが、居留守を使えば、この能天気なまでの明るい声で、隣近所に俺たちの『異常』を吹聴されるだろう。
選択肢など、最初からなかった。
完全なチェックメイトだ。
俺は右手を伸ばした。
ただ扉を開けるだけの単純な動作。
それなのに、指先が震えて止まらなかった。
金属の冷たさが、汗ばんだ掌に痛いほどに刺さる。
ここで鍵を回せば、俺が築き上げた日常は終わる。
だが、回さないという選択肢は、とうの昔に奪われていた。
だが。
右手が、これまでの人生で培ってきたはずのすべての自制心を裏切るように、小刻みに震えて止まらない。
いつものように一秒で開くはずの、単純な物理動作。
それが、今の俺にはたまらなく困難に感じられた。
カチャ。
静寂の中で、その音だけがやけに大きく、俺の無能さを嘲笑うように響いた。
十七歳の、ただの臆病で、無力なガキがそこにいた。
「……湊くん。開けて。……開けなきゃ、ダメ」
詩織の、死刑宣告のような囁き。
俺は、震える右手を左手で無理やり押さえつけ、指先に力を込めた。
カチリ。
聖域を外界へ開放する、絶望的な解放音が、静まり返った玄関に響き渡った。
俺はドアノブを握りしめ、ゆっくりと引いた。
湿った梅雨の夜気とともに、この部屋には絶対に存在するはずのない「乾いた春の匂い」が、暴力的なまでの質量で雪崩れ込んでくる。
――ふっと、玄関の温度が数度下がったような、異様な錯覚。
扉の向こう側。
春奈奈々は、三日月のように細められた瞳で俺の青褪めた顔を見上げ、満足げに一つ頷いた。
「お邪魔しま〜す」
彼女は、俺が制止する間も与えず、軽やかな、まるで友人の家に遊びに来た女子高生そのままの足取りで、三和土へと上がった。
俺は、一言も発することができなかった。
何を言っても、彼女の「観測」という名の侵食を加速させるだけだということが、本能的な恐怖として理解できていたからだ。
春奈は、玄関の隅に几帳面に並べられた二組の室内履き――俺のものと、明らかにサイズが小さく、可愛らしいリボンのついた詩織のものを、無機質な好奇心で一瞥した。
そして、彼女は廊下の奥へと視線を向けた。
「わあ」
彼女はニコリと笑い、俺を見上げて囁いた。
「……綺麗な城だね。阿久津くん」
その言葉の直後。
春奈の視線が、すっと横へ滑った。
俺の背後に隠れるようにして立ち尽くしている、顔面蒼白の詩織。
その怯えた瞳を真正面から射抜き、春奈はひときわ深く、楽しそうに微笑んだ。
俺は無言のまま、自分の背後でドアが閉まる音を聴いていた。
カチャリ、と。
春奈が入ったあと、玄関が閉まる音が響いた。
だが、その音はもう外敵を防ぐためのものではない。
俺自身が招き入れた存在と、同じ檻に入ったことを告げる音だった。




