第12話:密室のノイズ、あるいは観測者の実験
肺の奥まで侵食してくるような、安っぽい重低音が内臓を揺らしていた。
薄暗い室内を、赤や青、紫といった毒々しい原色のLEDライトが、狂ったような周期で舐め回している。
染みついた古いタバコのヤニと、人工的な甘いアルコール、そして強力な消臭スプレーが混ざり合った、鼻の奥がツンとするような特有の匂い。
放課後の、駅前にある大手チェーンのカラオケボックス。
俺は今、人生で最も嫌悪する「不確定要素に満ちた密室」の片隅で、合成皮革のひび割れたソファに浅く腰掛けていた。
「いやー、今日はマジで歌う気分だったんだわ! 奢ってやるから、お前らも適当に飲んでてくれ!」
部屋の中央で、マイクを握りしめた矢野が、やけにハイテンションな声を張り上げている。
画面には、最近流行っているらしいアップテンポなロックナンバーのイントロが流れ始めていた。
鼓膜を直接殴りつけてくるような暴力的な音量が、狭い空間に反響する。
すべては、六時間前の教室から始まっていた。
昼休みに俺から春奈奈々の情報を引き出した矢野は、放課後のホームルームが終わるや否や、帰り支度をしていた俺と詩織、そして図書室へ向かおうとしていた春奈の三人を、半ば強引に捕獲した。
『新しくできた駅前のカラオケ、ポテト無料券あるから行こーぜ!』
有無を言わさぬ、トリックスターの強襲。
ここで俺が「行かない」と頑なに拒絶すれば、それはそれで矢野の好奇心に油を注ぎ、俺が春奈を『過剰に避けている』という事実を証明することになる。
結果として、俺は「仕方なく付き合いで来た、無害で無口なクラスメイト」という石ころの擬態を維持したまま、この地獄の四者面談に足を踏み入れるしかなかった。
テーブルの上には、先ほど店員が運んできたプラスチックのグラスが四つ、無造作に置かれている。
俺は、自分の前に置かれたメロンソーダのグラスを引き寄せた。
氷がカラン、と安っぽい音を立てる。
グラスの表面にはすでにびっしりと水滴が浮かび、指先をひどく冷たく濡らした。
「詩織ちゃーん、ポテト食べる? ケチャップつけるね〜」
重低音を切り裂くように、春奈奈々のふんわりとした声が響いた。
俺の視線の先。
U字型になったソファの、俺とは対角線上の位置。そこに、詩織と春奈が座っていた。
春菜は、全く悪びれる様子もなく、詩織の肩が触れ合うほどの至近距離にピタリと密着して座っていた。
「ひゃ、ひゃいっ。あ、ありがとうございます……」
詩織は、ひどく居心地が悪そうに身を縮こまらせ、細い指でフライドポテトを一本つまんでいる。
彼女の視線が、助けを求めるようにチラチラと俺の方へ向けられる。
だが、俺は無表情のままメロンソーダのストローを咥え、一切の視線を合わせなかった。
接触してはいけない。
今、ここで俺が詩織に不用意な視線を送れば、横で観察している春奈に決定的な情報を与えることになる。
俺と冬馬詩織は、ただのクラスメイトだ。
たまたま矢野に誘われてここに来ただけで、互いに何の関心もない。
その均衡を、死ぬ気で保たなければならない。
だが。
矢野の野郎が、サビに入ってさらに声量を上げた、その時だった。
春奈が、フライドポテトの皿をテーブルの奥へ押しやり、詩織の耳元へと顔を近づけた。
爆音のBGM。矢野の歌声。
それらが完璧な防音壁となり、春奈の口から紡がれる言葉は、たった数メートルしか離れていない俺の耳には、一切届かなかった。
見えているのに、聞こえない。
俺の喉の奥が、急速に干からびていくのを感じた。
春奈の唇が、ゆっくりと動く。何かを、囁いている。
――ねえ、詩織ちゃん。
俺は、メロンソーダのグラスを握る指先に、無意識に力を込めた。
冷たい水滴が、指の隙間を伝って手のひらへと滑り落ちる。
詩織の表情の変化が、俺の脳内に最悪の警告音を鳴り響かせた。
春奈の囁きを聞いた瞬間。
詩織の肩が、まるで高圧電流を流されたかのようにビクンと跳ね上がったのだ。
「えっ……?」
詩織の口の動きから、その短い動揺が読み取れた。
彼女の顔面から、一気に血の気が引いていく。
大きく見開かれた瞳が、信じられないものを見るように春奈を見つめる。
だが春奈は、春の陽だまりのような、一切の悪意を含まない無邪気な笑顔のまま、さらに言葉を紡ぎ続けた。
――今日ね。阿久津くんの背中の生霊、ちょっと変なんだ。
聞こえないはずの言葉が、なぜか俺の脳内に幻聴のように響く。
詩織の震える指先が、膝の上でギュッと固く握りしめられる。
彼女の呼吸が浅く、早くなっているのが、遠目からでもはっきりと分かった。
――女の人の匂いが混ざってるんだ。
詩織の瞳が、限界まで見開かれた。
動揺。混乱。そして――明確な、少女としての強烈な『拒絶』。
女の人の匂い?
湊くんに?
そんなはずがない。だって――私の世界は、もうあの部屋しかないのに。
ようやく掴み取った、絶対的な安全地帯。
それを脅かすノイズが、詩織の理性を一瞬で焼き切った。
――でもおかしいよね。詩織ちゃんの守護霊って、毎日一緒にいるはずなのに。
春奈が、首をコテンと傾げて最後の引き金を引いた。
詩織の唇が、ワナワナと震え始める。
違う。違う。湊くんは、私だけの――。
爆音のカラオケボックスの中。
詩織が、バネで弾かれたようにソファから腰を浮かせた。
彼女は、俺と春奈だけではなく、歌っている矢野にすら聞こえるような大声を張り上げようと、深く息を吸い込んだ。
「そ、そんなはずありませんっ!!」
ノイズを切り裂く、詩織の悲痛な叫び。
矢野が「お?」という顔で、マイクを持ったままこちらを振り返る。
春奈の瞳が、期待に満ちた光を帯びて詩織を見つめている。
「だって、湊くんは……っ! 昨日の夜も、ずっと……っ!」
家で。
その二文字が、彼女の震える唇から紡ぎ出されようとした、まさにその刹那だった。
ガシッ、という鈍い音が、響いた。
「…………えっ?」
詩織が、間抜けな声を漏らす。
気がつけば、俺はソファから立ち上がり、身を乗り出すようにして、テーブル越しに詩織の細い左腕を、右手で強く掴んでいた。
グラスから滴り落ちていた冷たい水滴と、俺の掌に滲んだ嫌な汗。
それが、詩織の熱を持った肌に直接触れている。
静電気でも走ったかのように、俺の指先が微かに震えていた。
俺は、自分が何をしようとしているのか、どんな行動をとってしまったのか、一瞬だけ完全に理解できなかった。
ただ、彼女の口から決定的な事実が漏れるのを防ぐために。
石ころとしての完全な擬態をかなぐり捨てて、理性をすっ飛ばして、本能だけで彼女に触れていた。
「……っ」
息が、詰まる。
喉が焼け付くように乾いている。
室内の狂ったようなLEDライトが、俺と詩織、そして春奈の顔を順番に照らし出している。
歌を止めた矢野が、マイクを下ろし、ニヤリと底意地の悪い笑みを深めたのが視界の端に映った。
沈黙。
いや、BGMのけたたましい伴奏だけが鳴り響いている。
だが、俺たちの間だけは、真空パックされたような恐ろしい静寂が落ちていた。
「……み、湊、くん……?」
腕を掴まれたまま、詩織が怯えたような、けれどどこか熱を帯びた瞳で俺を見上げてくる。
俺は、奥歯をギリリと強く噛み締めた。
ここで、何らかの理由をつけなければならない。
この異常な行動を、ギリギリ日常のラインに引き戻すための、強引な言い訳を。
俺は、左手でテーブルの上に置かれていたもう一つのマイクを掴み上げると、それを詩織の胸元へと乱暴に押し付けた。
「…………冬馬」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、ひどく掠れていた。
「歌え」
「……ひゃっ!?」
「次、お前の番だ。さっさと選曲しろ。……耳障りなんだよ、さっきから」
俺は、突き放すように彼女の腕から手を離した。
掌に、彼女の体温の余韻がべっとりと張り付いているような気がして、無意識にズボンの生地で手を拭う。
「あ、えっと……う、歌う……!? わ、私、カラオケなんて、その、初めてで……っ!」
マイクを押し付けられた詩織は、顔を真っ赤にしてパニックになりながら、テーブルの上のデンモクを震える手で操作し始めた。
先ほどまでの「家」という単語は、強引にマイクを握らされたことによる混乱で、完全に彼女の脳内から飛んでいた。
「ははっ! 何だよ阿久津、冬馬に無茶振りかよ! 冬馬、俺が一緒に歌ってやろうか!?」
矢野が、この状況のすべてを理解した上で、わざとらしく場を和ませるような大声を出し、再びBGMに合わせて歌い始めた。
危機は、去った。
ギリギリのところで、致命的な情報漏洩は防いだ。
俺は、どっと押し寄せてきた疲労感に耐えながら、再びソファに深く腰を下ろした。
額に滲んだ冷や汗が、前髪を肌に張り付かせている。
呼吸を整えようとするが、心臓はまだ警鐘を鳴らすように激しく脈打っていた。
……最低だ。
自らの感情をコントロールできず、あろうことか他人の前で、物理的な接触という最も愚かな手段で事態を収束させようとした。
それは、俺が軽蔑してやまない、感情だけで動く『大人たち』と同じ、ひどく人間臭くて、みっともない行動だった。
ふと、視線を感じた。
俺は、無表情を取り繕う余裕もないまま、視線の方へと顔を向ける。
テーブルの向こう側。
デンモクと格闘する詩織の隣で。
春奈奈々が、両手で顎杖をつきながら、俺をじっと見つめていた。
その唇が、音もなく、ゆっくりと形を作る。
――やっぱり。阿久津くん、人間だ。
ドクン、と。
俺の心臓が、今日一番の大きな音を立てて跳ねた。
胃の奥底が、完全に冷え切っていく。
完全な、敗北だった。
俺が必死に守り抜こうとしていた『無害な石ころ』という仮面は、この狭い四角い箱庭の中で、観測者の悪意のない実験によって、完全に引き剥がされてしまったのだ。




