第11話:観測者の影、あるいは四角い箱庭
低く、どこか恨みがましいような換気扇の唸り声だけが、狭いキッチンを満たしていた。
使い込まれた黒い中華鍋の中で、粗く刻んだ白ネギと溶き卵、そして昨晩の残りの冷やご飯が油の膜で均等にコーティングされ、ジュワァァ、パラパラと小気味よい音を立てて宙を舞っている。
焦げた醤油の香ばしさと、ラードの重い匂いが鼻腔をくすぐり、換気扇へと吸い込まれていく。
それは、この奇妙な共同生活が始まってから築き上げた、数少ない平穏な日常の一つだった。
だが、その平穏は、背後から発せられた震える声によって、いとも容易く一時停止させられることとなった。
「……えっと、その。図書委員の春奈さんが……」
リビングのテーブルの端。
そこは、本来なら俺が出来上がったチャーハンを置き、彼女が「いただきます」と小さく手を合わせるのを待っている、定位置の席だった。
だが今、詩織はその席で背中を丸め、まるで怯えた小動物のように両手で膝を抱え込みながら、消え入りそうな声で意味不明な供述を繰り返している。
「あの、私たちの守護霊が、同じ洗濯機を使って洗われてるって、言ってて……。それで、湊くんの生霊が、私の後ろでアイロンを持って立ってるって……」
「……は?」
「だから、波長が合うからって、手を、握られて……それで、その……」
詩織はそこで一度言葉を切り、泣きそうな顔で俺の背中を見上げた。
「……お友達に、なって、しまいました……っ」
俺の手の中で、中華鍋を振るリズミカルな動きが、ピタリと止まった。
コンロの青い炎が、虚しく鍋の底を舐める。
ジュワ、と、少し焦げついた米粒の音が、静寂に落ちた。
俺は無言で、手元のスイッチをカチリと回して火を消した。
換気扇の唸り声だけが、やけに耳障りに響き続ける。
シンクに置かれた濡れた布巾を手に取り、油の跳ねた指先を一つ一つ丁寧に拭きながら、俺はこめかみの奥でドクドクと脈打つ鈍い痛みを、もう片方の手で強く押さえた。
「……すまない、冬馬。俺の理解力が致命的に欠如しているのかもしれないが」
俺はゆっくりと振り返り、極力感情を排した、ひどく平坦で温度のない声を作った。
「もう一度、俺にも理解できる言語で説明してくれないか」
詩織は「ひゃっ」と小さく肩を跳ねさせ、涙目で何度も何度も首を縦に振った。
◇
数十分後。
皿に盛られた出来上がったばかりのチャーハンを前に、俺は箸を持ったまま、深い思考の泥沼に沈んでいた。
冷めていく米粒からは香ばしい匂いが立ち上っているはずだが、今の俺の舌と鼻は、それをただの無機質な炭水化物と油の塊としてしか認識できていなかった。
詩織が語る「生霊」や「守護霊」、「前世の洗濯機」といったオカルトのノイズを完全に削ぎ落とし、事実関係の骨格だけを抽出する。
図書委員の春奈奈々。
あいつは、図書室のカウンター越しに、俺と詩織の『柔軟剤の匂いの一致』に気づいた。
しかも、高級品ではない、近所のドラッグストアで売られているような『安い柔軟剤』の微かな香りを。
同じ安価な柔軟剤を使っている高校生など、探せばいくらでもいるだろう。
だが、同じクラスの、まったく接点のないはずの男女から、まったく同じ時期に、まったく同じ匂いが漂ってくる。
それを、あいつは計算でも証明でもなく、ただ「違和感」として拾い上げた。
さらに、あいつは詩織の無防備な態度と反応から、『俺が毎朝、彼女のセーラー服にアイロンをかけている』という具体的な生活動作の事実まで、完全に引きずり出した。
偶然では、絶対に説明がつかない。
胃の奥底に、冷たくて重い鉛の球を飲み込んだような錯覚を覚える。
「……湊くん、ごめんなさい……。私、どうしたら……」
一口も手をつけていないチャーハンを見つめながら、泣きそうな顔で俺の顔色を窺う詩織に、俺は短く息を吐き出した。
論理も根拠もないはずなのに、なぜか一番触れられたくない場所に辿り着いてくる。極めて厄介なタイプだ。
「……気にするな。冬馬が悪いわけじゃない。冷める前に食え」
俺は、彼女を責める言葉を飲み込み、極力事務的なトーンで告げた。
「ただ、いいか。明日から、あいつとは三つだけ約束してくれ」
詩織が、ビクッと背筋を伸ばす。
「一つ、二人きりになるな。二つ、不用意に触らせるな。……三つ、俺の話題が出たり、『守護霊』なんて単語が出たら、すぐに理由をつけてその場を離れろ。……できるな?」
「は、はいっ……!」
詩織は、決意を込めるように両手で拳を握り、力強く頷いた。
だが、俺の背筋に張り付いた嫌な汗は、引く気配がなかった。
彼女のその「決意」が、いかに脆く、いかに頼りないものなのかを、俺自身が一番よく分かっていたからだ。
◇
翌日。火曜日。
昼休みの教室は、弁当を広げる者たちの話し声と、開け放たれた窓から流れ込む生ぬるい風によって満たされていた。
俺は珍しく、自分の席に逆向きに跨ってスマホを弄っている矢野に、自ら声をかけた。
「お? 阿久津から話しかけてくるとか、槍でも降るんじゃねーの」
「……図書委員の、春奈奈々について聞きたい」
俺が声を落として尋ねると、矢野はスマホをスクロールする指をピタリと止めた。
数秒の沈黙。
やけに矢野は、顔を上げて俺の目をじっと見つめ……ふっと、待ちわびていたショーの幕が上がったかのように、嬉しそうに口角を上げた。
「……お。ついに『もう一人の正解者』に行き着いたか。思ったより早かったじゃん」
ドクン、と。
俺の心臓が、嫌な音を立てて大きく跳ねた。
喉の奥が急速に干からびていく。
俺は表情筋を微塵も動かさないよう必死に堪えながら、低く問い返した。
「……お前、知ってたのか」
「あのな、お前みたいにガチガチに頭で計算するタイプの鉄壁と、あいつの野生の勘。どっちが勝つか、ずっと楽しみにしてたんだよ」
矢野は楽しそうに肩をすくめ、スマホの画面をスワイプした。
「あいつ、いつも教室の隅っこでさ、クラスの連中の相関図書いてんだよな。お前らのあの妙な距離感、あいつが放っておくわけないと思ってたけど。……で? どこまで暴かれた?」
「……笑い事じゃない」
俺の低い声にも、矢野は全く動じない。春奈奈々という爆弾がいつ俺たちに投下されるかを、観客席の最前列でニヤニヤしながら眺めていたのだ。
「でもさ。あいつ、別に悪い奴じゃねーぞ。……ただ、観察するのが好きなだけだ」
俺は無言で矢野を見た。
敵ではない。だが、危険。
矢野のその評価が、逆に俺の警戒心を限界まで跳ね上げた。
目の前でニヤニヤと笑うこの共犯者も、図書室の観測者も。
どちらも俺の周りで起きる「不協和音」を心底楽しんでいる。
俺の平穏な箱庭は、とうの昔にこいつらの遊び場になっていたのだ。
だが、その手遅れの事実すらも、甘い認識だったと思い知らされたのは、そのわずか数時間後のことだ。
午後の休み時間。
俺がトイレに立とうと席を離れかけたその時、廊下の方から春奈奈々が、春の陽だまりのような全く悪びれない笑顔で、詩織のパーソナルスペースへと侵入してきたのだ。
「詩織ちゃーん、おはよ〜。あ、今日もうしろの守護霊さん、アイロンのシワ伸ばしに必死だね〜」
「ひゃっ!?」
詩織の肩がビクンと跳ね上がり、耳が瞬く間に茹でダコのように朱色に染まる。
マズい。俺は足を止め、視界の端で二人のやり取りを注視した。
昨晩俺と交わした三つの約束。二人きりではない。触られてもいない。だが、「守護霊」というワードが出た。
逃げろ、冬馬。
「ねえねえ、昨日帰って、誰とご飯食べたの?」
「ひ、ひゃい!? チャ、チャーハン……あっ、じゃなくて! えっと、昨日はその、米料理を……!」
即アウトだった。
春奈の無邪気な問いかけに、詩織は限界まで目を見開き、パニックのあまり完全に自爆した。
米料理、という苦し紛れの言い訳が、余計に彼女の不器用な嘘を際立たせている。
俺はジャージのポケットに突っ込んでいた右手で、無意識に何もない空間を強く握り潰した。
◇
放課後。
俺は詩織に「寄り道せずに帰れ」と厳命し、一人で図書室へと向かった。
これ以上、あの無防備な情報源を晒しておくわけにはいかない。
俺自身が、直接あの怪物に釘を刺す必要がある。
西日が斜めに差し込む図書室は、古びた紙と糊の匂いが濃く淀んでいた。
カウンターの奥で、春奈奈々は、黒い表紙の使い込まれたノートにペンを走らせていた。
俺が足音を殺して近づくと、彼女は顔を上げ、分厚い眼鏡の奥の瞳を丸くした。
「……阿久津くん」
俺の名前を、彼女が初めて呼んだ。
俺は極めて無機質な、一切の温度のない表情を貼り付けて、カウンターの前に立った。
春奈はニコリと笑い、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がる。
「石鹸の匂いの人。……でも最近、あの安い柔軟剤の甘い匂いが混ざってる」
沈黙が図書室に落ちた。
俺は表情筋を微塵も動かさず、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
心理戦の幕開け。
だが、俺の視界の端には、カウンターに無防備に広げられた彼女のノートが、否応なく入り込んでいた。
そこには、俺と詩織、矢野、そしてクラスの全員の名前が、狂気的なまでの密度で矢印によって結ばれていた。
ただ線を引いているだけではない。その一本一本の矢印には、几帳面な字で『片思い』『利用』『依存』『興味』といった、人間の生々しい感情のラベルが貼り付けられていた。
背筋がゾワリと粟立つ。
そして。俺の視線は、無意識のうちにそこへ吸い寄せられた。
『阿久津』と『冬馬』を結ぶ、その矢印。
クラスの他の誰とも違う、そこだけが真っ黒に塗りつぶされたような、異質な『二重線』で引かれていた。
こいつは、この教室という四角い箱庭の生態系すべてを、特等席で観測しているのだ。
「……詩織ちゃんの守護霊、すごく必死なんだよ」
春奈は、ノートをパタンと閉じ、ふわりと笑った。
「隠蔽行動がすごいから。……だから、見ててすごく面白い」
「……何が言いたい。冬馬に変なちょっかいをかけるのは、やめてくれ」
俺の静かで、だが確かな警告に、春奈は不思議そうに首を傾げた。
「別に〜。お友達だから、観察してるだけだよ」
悪意は、本当に微塵もないのだろう。
だからこそ、タチが悪い。
こいつの行動原理は「観測すること」そのものなのだ。人間関係そのものを、面白おかしいオカルト現象みたいに眺めている。
俺は喉の奥に張り付ような乾きを覚えながら、小さく息を吐き出し、背を向けた。
これ以上会話を長引かせれば、俺の「石ころの擬態」から、さらに余計な情報を拾われる。
「……阿久津くんってさ」
図書室の出口へ向かう俺の背中に、春奈の声が楽しそうに追いかけてきた。
振り返らない。足も止めない。
「石ころのフリ、上手だよね」
ドアノブに手をかけた俺の指先が、ほんの一瞬だけ、微かに強張った。
「でも、詩織ちゃんの前だと」
背後で、彼女がクスッと笑う気配がした。
「ちょっと、人間になるね」
図書室を出て、冷たい廊下に出た瞬間。
俺の背筋を、氷の刃を滑らせたような強烈な悪寒が駆け抜けた。
反射的に、後ろを振り返りそうになる。
だが、振り返らない。絶対に振り返れない。
もし今、ここで振り返ってあいつと目が合えば、俺が必死に守り抜こうとしている、俺の一番奥底にある決定的な何かを、完全に「見透かされる」気がしたからだ。




