6話 雨の日に壊れた歯車
蒸気機関が発達した世界、機械いじりが好きな少女エマは、祖父と営む小さなパン屋で幸せに暮らしていました。
ところがある日、パンの大企業チェーン「ロイヤル・ギア・フーズ」がエマ達の街にやって来ます。
そして現れる謎の少年。
機械いじり好きな少女が、パン屋を守るために奮闘するスチームパンク作品です。
恋愛、モノ作り、下町の空気感を楽しんでいただければ嬉しいです。
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※この作品は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しております。
《歯車亭ベーカリー》は、その日は久しぶりに忙しかった。
朝から蒸気オーブンは休みなく唸り続け、焼きたての香りが店いっぱいに広がっている。扉の鈴は絶えず鳴り、狭い店内には客たちの笑い声が重なっていた。
「エマちゃん、蒸気スープパンまだあるかい?」
「今ちょうど焼けたところ!」
エマはオーブンから籠を引き出しながら声を返し、パンを並べる。
熱気で頬が火照ってゆくが、気にしていられない。
最近考えた“蒸気スープパン”は、思っていた以上に評判になっていた。
パンの中に温かいスープを閉じ込め、食べる時に中から湯気があふれる仕組みだ。さらに改良した保温箱のおかげで、配達しても熱が逃げにくい。
寒い季節にはぴったりだった。
工場帰りの労働者たちが「身体が生き返る」と噂し、その評判は少しずつ街に広がっていた。
「昨日のやつ、うまかったよ!」
「ほんと? ありがと!」
笑顔で返事をしながら、エマは胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
ちゃんと届いている。
自分の作った機械も、パンも、誰かの役に立っている。
それが嬉しかった。
店の隅では、ルークがぎこちない手つきで袋詰めをしている。
「ルーク、それ三番テーブルの!」
「これか?」
「違う、そっちは予約分!」
「分かりづらいな……」
「ちゃんと札を見て!」
慌てて向きを変えるルークを見て、客たちがくすくす笑う。以前の彼なら、そういう笑いを嫌がっていただろう。
だが今は違う。少し困ったように眉を寄せながらも、ちゃんと笑い返している。
エマはその変化に気づいていた。
最初に店へ来た頃のルークは、どこか壁みたいなものをまとっていた。
綺麗で、静かで、近寄りがたい壁。
けれど最近は、すすで服を汚しながら薪を運び、子どもの客に話しかけられては困った顔をする。その姿を見るたび、エマの胸は妙にくすぐったくなった。
昼過ぎ。客足がようやく落ち着き、店内に静けさが戻り始めた頃。
エマは新しい看板を持って店先へ出ると、不意に低い機械音が通りへ響いた。
重厚な蒸気エンジンが唸りをあげる。
それを振り返って見た瞬間、エマは思わず立ち止まってしまう。
黒塗りの大型蒸気車が、《歯車亭》の前へゆっくり停車する。
磨き上げられた真鍮の装飾。深い紺色の車体。側面には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
《ロイヤル・ギア・フーズ》。
周囲の通行人たちのざわつく声が聞こえる。
「ロイヤル・ギアの車じゃないか」
「なんで下層区画に……?」
周りの空気が少しずつ張り詰めていく。
蒸気車の扉が静かに開き、降りてきたのは、灰色のスーツを着た男だった。
細身で、銀縁眼鏡をかけている。年齢は四十前後だろうか。整った身なりをしているのに、どこか機械みたいに冷たい印象の男。
男は周囲を一瞥すると、そのまま店の中へ足を向ける。
エマは無意識に身構えた。
「……何か御用ですか?」
男は答えずに静かな視線で店内を見回し、やがてルークに目を向け、話しかける。
「ルーク様」
低く落ちたその声に、店の空気が凍りついた。
その瞬間、エマは頭が真っ白になり、思わず聞き返しそうになる。
今、“様”と言ったのか。
エマがゆっくり振り返ると、パン籠を抱えていたルークが、その場で硬直していた。
明らかに顔色が変わっている。
男はルークへ一歩進み、深く頭を下げた。
「お迎えに参りました」
周囲がざわめく。
「え……?」「まさか……」
エマだけが状況を理解できずに立ち尽くしていた。
ルークはしばらく何も言わなかったが、やがて、押し殺したように声を落とす。
「……帰れ」
「旦那様がお待ちです」
「帰れと言ってる!」
その声音に、エマは息を呑んだ。
いつものルークじゃない。柔らかさのない冷たい声。
男はわずかに目を伏せたが、淡々と続ける。
「《ロイヤル・ギア・フーズ》次期当主が、このような場所に長居されては困ります」
その瞬間、頭の中で何かが繋がった。
ロイヤル・ギアの次期当主。それがルーク。
「……え?嘘」
喉がうまく動かなかった。
ルークは視線を逸らしたまま黙っている。
その沈黙が、何より雄弁だった。
エマの胸の奥がどくりと脈打つ。
「うそ……」と繰り返す。
自分でも情けないくらい小さな声だった。
男は静かに、だが周りにはっきりと分かるように言う。
「ルーク様は、《ロイヤル・ギア・フーズ》社長のご子息です」
世界の音が、急に遠くなった気がした。
客たちの話し声も。蒸気オーブンの音も。通りを走る蒸気車の響きも。
全部がぼやける。
エマはルークを見た。ルークを見ていると今まで一緒に働いていた姿を思い出す。
薪を運んでいた姿。
すすだらけで笑っていた顔。
工房で不器用に工具を握っていた手。
それらが一瞬で遠ざかっていく。
「……なんで」
喉の奥が痛かった。でも聞かずにいられない。
「なんで言わなかったの……」
ルークの唇がわずかに動く。
「言えなかった」
「どうして!」
思った以上に大きな声が飛び出した。
店内の空気がびくりと震える。
「うちを潰そうとしてる会社の人だったの!?」
胸の奥が熱い。
怒っているのか、悲しいのか、自分でも分からない。ただ苦しかった。
ルークは何か言おうとするが、何を言おうとしても言葉が出てこない。
最初は本当に視察のつもりだった。
それだけのはずなのに気づけば、この店へ来る時間ばかり考えていた。
エマの笑い声を聞きたかった。
工房でくだらない話をしたかった。
焼きたてのパンの匂いの中にいたかった。
それがどれほど大切になっていたか、今さら思い知らされる。
正体を知られた瞬間に、全てが壊れるのが怖かった。
そして実際に、壊れてしまった。
「エマ……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
エマは一歩後ろへ下がった。
その小さな距離が、胸に深く突き刺さる。
「……帰って」
エマの声からは想像もつかないほど震える声。それでも、はっきり聞こえた。
ルークは動けない。
エマは唇を噛み、俯いたまま言う。
「今、顔を見たくない……」
外では蒸気車のエンジンが低く唸っていた。
灰色の空から落ち始めた雨が、石畳を静かに濡らしていく。
その雨音だけが、不思議なくらい耳に残る。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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