第5章 8話 それぞれの覚悟(後編)
蒸気機関が発達した街、グラン・ロア
下層区のパン屋で暮らす機械いじり好きの少女エマは、じいちゃんと穏やかな毎日を送っていました。
ある日、《歯車亭》の釜が壊れてしまい、パン屋が開けられなくなりました。途方に暮れるエマにルークが出した提案は、お屋敷のメイド!?
メイド修行のなかでできた新しい友達、そして海外から戻ってきたルークそっくりの従兄弟になぜか迫られて、エマはどうなってしまうのか!?
恋愛、モノづくり、そして蒸気あふれる下町の空気感を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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※本作は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しています。
「少し、お話があります」
アリシアの静かな声に、レオンは一瞬だけ目を細めた。だが、すぐにいつもの人懐っこい笑顔へ戻る。
「私ですか? でも立ち話も何ですし、少し庭園を歩きませんか?」
「分かりました」
二人は並んで石畳の小道を歩き始める。
夕暮れが近づき、庭園には柔らかな風が吹いていた。しばらく無言の時間が続くが、やがてアリシアが足を止めた。
「単刀直入に申し上げます」
アリシアはレオンに向き合い、真っすぐに見つめる。
「あなたは、エマさんを利用していますわね」
話を聞いていたレオンの笑みが、ほんのわずかに固まる。
「……何のことでしょう?」
「誤魔化しても無駄です」
アリシアの声は穏やかだった。だが、その瞳だけは鋭い。
「あなたはエマさんへ近づきながら、本当に見ているのはルーク様です」
レオンは何も答えない。
「エマさんが笑えば、あなたは必ずルーク様の反応を確認する」
「ルーク様が近くにいるとき、わざと距離を縮めている」
アリシアはあくまで静かな口調で、一つ一つ事実を並べていく。
「それは恋をしている人間の行動ではありません」
アリシアは一呼吸置いてから問いかける
「まるで――ルーク様を試しているようでした」
レオンは苦笑して肩をすくめる。
「参ったなぁ。そこまで見られていたとはね」
「否定なさらないのですね」
「否定する意味がないから」
その瞬間、レオンの表情から軽薄な笑みが消え、静かで冷静な眼差しを初めて見せる。
「そう、君の言う通りだ。僕はエマさんにわざと近づいた」
本性を現したアリシアは息をのむ。
「目的は何ですの?」
レオンは庭園の噴水へ目を向けた。やがてゆっくりと話し出す。
「ルークのためさ、彼はアシュフォード家の跡継ぎだからね」
穏やかな声で、理解を求めるように話し続ける。
「会社を背負い、この街を支え、多くの人の人生を預かる責任と義務がある。そんな立場の人間が、恋愛だけで結婚相手を決めていいと思う?」
アリシアは同意もせず黙って聞いている。
「僕は思わない」
レオンは首を横に振る。
「彼には政治も経済も理解し、社交界でも支えられる女性が必要さ。その方がルークのためになる。だから、エマさんにはルークを諦めてもらう」
そう言い切ってアリシアの瞳を見据える。
「そのために、あなたが近づいた……」
「そう、彼女が僕へ気持ちを向けてくれれば、ルークも、エマさんもお互い苦しまなくて済む。ルークのことを思うと、それが一番いい」
二人の間に静かな沈黙が流れる。
次の瞬間、ぱしん――と、乾いた音が庭園へ響き、レオンの頬が横へ流れる。
アリシアが平手でレオンの頬を打つ。その瞳には静かな怒りが滲み、肩は小さく震えていた。
レオンはアリシアの思っても見なかった行動に驚いたように目を見開く。
「最低ですわ」
アリシアは震える声で続ける。
「人の心を……何だと思っていますの!」
「アリシアさん……」
「人の恋心を利用して、人を傷つけて、それを『家のため』と正当化する。そんなものは責任でも義務でもありません!」
声を荒げて、肩で息をするアリシアの瞳に涙が滲む。
レオンは感情的にならずに、黙って聞いていたが話を聞き終わると、アリシアをたしなめるような口調で伝える。
「あなたには分かりませんよ」
「いいえ、分かります! 分かりますとも!」
レオンの言葉に、感情を抑え続けてきた令嬢が初めて本気で怒った。
「わたくしも、幼い頃から家のために生きるよう育てられました。ルーク様との婚約も国のため、家のためと、そう教えられてきました」
自分の感情を抑えようと胸へ手を当て、呼吸を整える。それを見てレオンはただ静かに聞いている。アリシアは気持ちを落ち着かせると、涙をぬぐって続ける。
「ですが、初めてお会いしたルーク様は、とても誠実な方でした。政略結婚だと忘れてしまうほど」
アリシアは優しく微笑み、出会ったときのことを思い出しながら語り続ける。
「でも、気づいてしまった。ルーク様の心は、最初からエマさんへ向いていました。それでも、わたくしは、ルーク様の良き婚約者であろうとしました」
それは初恋であり、初めての失恋だった。
「とても苦しかったです。泣きもしました。ですが、愛する人が幸せになることを願う。それが、本当に人を想うということではありませんの?」
その表情はどこまでも穏やかだった。
レオンは何も言わずに聞いている。
「あなたのしていることは、ルーク様もエマさんも、誰一人幸せになりません。だからこそ、貴方の行為が見過ごせなかったのです」
アリシアが話し終わると長い沈黙が流れた。レオンが空を見上げると、夕日が赤く染まってきている。やがてレオンはゆっくりと口を開く。
「それでも、僕は自分が間違っているとは思わない。ルークには背負うべき未来がある。僕はそれを守りたいだけだ」
「いいえ、あなたは間違っています。わたくしは大切な人たちの幸せを、誰にも壊させはしません。」
夕風が銀色の髪を揺らす。アリシアは静かな、それでいて揺るぎない声で否定する。
「今、ここで言い争っても、決めるのはあの二人です。今日はここで失礼します」
そう言ってレオンは踵を返す。アリシアは
レオンの去っていく背中を見つめながら、二人が心を揺らされないよう想うしかなかった。
「蒸気街のパン屋と御曹司」第5章が始まりました!
今回が最終章、この物語は終わりとなりますが、最後までよろしくお願いします。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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