第4章 10話 危険な取引
蒸気機関が発達した街、グラン・ロア
下層区のパン屋で暮らす機械いじり好きの少女エマは、じいちゃんと穏やかな毎日を送っていました。
しかしある日、「グラン・ロア再生計画」が動き出し、ルークの婚約者を名乗る少女が突然現れます。
揺れ動くエマとルークの想い。そして、街の未来を左右する「グラン・ロア再生計画」に隠された真実とは。
恋愛、モノづくり、そして蒸気あふれる下町の空気感を楽しんでいただけたら嬉しいです。
感想・ブックマーク・評価をいただけると、とても励みになります。よろしくお願いいたします。
※本作は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しています。
グラン・ロア下層区の火災から数日後、セレナは一人でレイウッド公爵の屋敷に向かっていた。
屋敷は朝靄の中に静かにそびえ立ち、その威容はまるで城塞のようだった。磨き上げられた石壁には蔦一つ這わず、窓ガラスは陽光を受けて冷たく輝いている。
門前に立つだけで、この屋敷の主がどれほどの権力を持つ人間なのかが嫌というほど伝わってきた。
セレナは深く息を吸い込み、重厚な黒檀の扉へ視線を向けた。そして意を決し、真鍮のドアノッカーを持ち上げて叩くと、乾いた音が屋敷の奥深くまで響き、静寂が再び辺りを包む。
しばらくして、内側から錠前が外れる重々しい音のあとにゆっくりと扉が開く。
姿を現したのは、白髪をきっちりと撫でつけた初老の執事だった。皺ひとつない燕尾服を身にまとい、背筋は定規を当てたようにぴんと真っ直ぐ張っている。
その灰色の瞳は穏やかな笑みを浮かべながらも、訪問者を一瞬で見極めようとする鋭さを宿している。
執事はセレナの姿を見ると音もなく一礼した。
「ようこそお越しくださいました。セレナ様。失礼ですが、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
執事は柔らかな口調で伺うが、その一言には、主人の意向に沿わないものは決して屋敷へ通さないという揺るぎない職務への矜持が感じられた。
セレナはその視線を真正面から受け止め、小さく拳を握りしめる。
(ここで引き返すわけにはいかない)
そう自分に言い聞かせると、まっすぐ執事を見据え、静かに口を開いた。
「『依頼をお受けします』と言えば分かってもらえるかしら」
執事は全てを理解している様子で頷き、セレナを屋敷の中に招き入れる。
「セレナ様、それではご案内致します」
執事の後につきながら、セレナは周囲を見渡し思考を巡らせる。
おそらくこの屋敷内、アトリエに隠されているかも知れない『グラン・ロア再生計画』の真意を探る。 本当に下層区の再生ではなく、下層区を一掃するのなら、エマ達下層区の人々の故郷がなくなる。なんとしても証拠を手に入れて、計画を阻止しなければならない。
◇
談話室で過ごしていたアリシアが窓辺で本を閉じようとしたそのとき、屋敷の二階へ続く大理石の回廊で、執事の後ろを歩く一人の見知らぬ女性の姿が目に入る。
切れ長の瞳に長い髪、背筋がスッと伸びており、無駄のない洗練された立ち姿。その女性は、執事に案内されながらも、壁に飾られた絵画や廊下の分かれ道、部屋の配置へ何気ない視線を送っていた。
ふとした瞬間に強い意志を宿した力強い眼差しは、まるで屋敷の造りを頭に刻み込んでいるような歩き方だった。
(……あの方は)
父の来客だろうか。
だが、貴族らしい華やかな装いではない。商人や役人とも違う。何より、その瞳には目的を持った人間だけが宿す鋭さがあった。
(普通のお客様ではありませんわね……)
アリシアはそっとカーテンの陰へ身を寄せる。
女性は一度だけ廊下の奥へ視線を送り、何かを確かめるように小さく頷いた。
その仕草に、アリシアの胸がざわつく。
『グラン・ロア再生計画』に疑問を持ってから、父の屋敷で起こる些細な出来事さえ見逃せなくなっていた。
(あの方も……何かを探している。)
根拠はないが、そう確信せずにはいられなかった。アリシアは本を閉じると、気配を消すように静かに歩き出す。
執事にも女性にも気づかれない距離を保ちながらその後を追うと、執事が女性を更衣室に案内する。その奥にあるのは父のアトリエだ。
アリシアは察した。あの女性は父が呼んだ新しいモデルだ。それにしてはあの眼光……何かある。アリシアは自身の直感を信じて、父が出てくるまで談話室で待つことにする。
◇
セレナは更衣室の中で身につけているものを全て外してガウン一枚になり、執事に準備ができたことを告げる。
執事はセレナをアトリエまで案内すると、扉を叩く。「入りたまえ」と返事を確認して、セレナにアトリエに入るように促す。
セレナがアトリエに入ると、伯爵は奥の椅子に座り、キャンパスかすでに準備されている。
「よく来てくれたね。早速、準備をしてくれたまえ」
伯爵の言葉にセレナはガウンを脱ぎ、一糸纏わぬ姿で伯爵の前に立つ。身体の柔らかな曲線美と、程よく引き締まった肉体が伯爵の前に露わになる。
「実に美しい……私の予想通り、女性の理想の身体だ。モデルをするのは初めてかな?」
「そうね」
「それにしては随分、堂々としているね」
「色々と危ない思いもしていますから」
「よろしい、なら始める前に」
伯爵が一呼吸置く。
「では、君の『イチジクの葉』を頂こうか」
伯爵の言葉の意味を察して、セレナの顔が僅かに引きつる。
「変な意味ではないよ。ただ、演技ではない君の飾らない姿を描きたいだけだ」
テーブルに置かれた刷毛入りの陶器から、ほのかに湯気がたっていた。
「蒸気街のパン屋と御曹司」第4章が始まりました! ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この作品は、月・水・金曜日の更新を予定しています。
少しでも楽しんでいただけていたら、書いていて良かったと感じます。
評価・感想・ブックマークなどをいただけると、とても励みになります。
これからもよろしくお願いいたします!




