第4章 9話 あなたが選ぶべき人
蒸気機関が発達した街、グラン・ロア
下層区のパン屋で暮らす機械いじり好きの少女エマは、じいちゃんと穏やかな毎日を送っていました。
しかしある日、「グラン・ロア再生計画」が動き出し、ルークの婚約者を名乗る少女が突然現れます。
揺れ動くエマとルークの想い。そして、街の未来を左右する「グラン・ロア再生計画」に隠された真実とは。
恋愛、モノづくり、そして蒸気あふれる下町の空気感を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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※本作は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しています。
エマたち三人は、窓越しに街の様子を見つめていた。つい数時間前まで人々が行き交っていた通りは、今や興奮と怒号に飲み込まれている。
遠くでは建物が燃えていた。赤黒い炎が夜空を焦がし、立ち上る黒煙が街全体を覆っている。風に乗って焦げた木材の臭いが流れ込み、時折、何かが崩れ落ちる鈍い音が響いた。
通りでは大勢の住民たちが声を張り上げている。
「俺たちを追い出す気か!」
「全部、上の連中の仕業だ!」
怒りに染まった叫びがあちこちで飛び交い、その熱は周囲の人々へ次々と伝染していく。誰かが投げた石が店の窓を砕き、ガラスの破片が夜の街へ散った。別の場所では看板が引き倒され、怒号と悲鳴が入り混じる。
真実を知る者などほとんどいない。それでも火災への不安と行き場のない怒りは、根拠のない噂を燃料にして膨れ上がっていた。
もはや群衆は冷静さを失っている。
街全体が、いつ爆発してもおかしくない怒りのるつぼと化していた。
アリシアを見ると身体を小刻みに震わせていた。震える手はルークの袖を掴み、辛うじて平静を装っている。
その横でルークはアリシアを見つめて、「大丈夫だ」と、アリシアを不安がらせないように優しい声で伝える。そしてルークはなんとかこの状況を打破できないか思案するが、考えている余裕はない。
二人の姿を見てエマは迷わなかった。
まずは二人の安全を確保するのが最優先だ。なんといっても二人は政府側の人間で、今の街の人たちが話を聞いてくれるとは思えない。暴動が収まるまではここで匿うのが一番いい。ならば善は急げだ。
「二人ともこっちに来て!」
街の喧騒が大きくなっている。エマは二人を急いで店の奥へ連れていき、そこから狭い階段を上がり、普段は物置代わりに使っている小さな空き部屋へ案内する。
「少し狭いけどここなら大丈夫。騒ぎが収まるまで、ここにいた方がいいと思う」
「ありがとう。」
ルークが安心したように笑うと、エマも少しだけ安心した。
「私は下にいるから、落ち着いたらまた来るね」
扉が閉まると、部屋には静寂だけが残った。窓から差し込む月明かりが、小さな部屋を照らしている。
狭い部屋なので、二人は向かい合う形になる。向かい合うと思っていた以上に距離が近くて、アリシアは視線を逸らした。
(こんな時に考えることではありませんわ……)
そう思うが、胸の中の疑問はどうしても消えてくれない。
「……ルーク様」
アリシアは少しだけ迷ってから、思い切って尋ねた。
「ルーク様は……エマさんのことをどう思っていますの?」
突然の質問にルークは目を丸くした。言葉が出てこない。
「答えたくなければ構いません。」
静かな声、だけどその瞳は真っ直ぐルークを見据えていた。
ルークは少し考え込んで、やがて小さく笑う。
「俺にも、まだ分かリません。」
「分からないとは?」
ルークは一呼吸置いて続ける。
「でも……《歯車亭》へ来ると安心するんです。仕事で失敗した日も、父と喧嘩した日も……ここへ来ると全部忘れられる。」
その言葉に、アリシアの胸が少しだけ痛んだ。
ルークの優しく笑う横顔。その表情を見て、アリシアはもう何も言えなくなった。
その時、階下から怒鳴り声が響いた。
「ここだ!」
「政府の車が止まっていたのを見た奴がいた!」
人々の怒声とともに店の扉が激しく叩かれる。
ルークとアリシアは同時に立ち上がって、小窓から外を見ると、店の前には十数人の住民が集まり皆、怒りに顔を赤くしている。
「上層区の人間を隠してるんだろ!」
「隠してないで出せ!」
騒ぎを聞きつけたエマは扉を開けて、皆の前に向かって立ち、落ち着くように説得を試みる。
「みなさん落ち着いてください!」
「これが落ち着いていられるか!」
「話だけでも――」
エマの声は周囲の怒声にかき消され、誰も話を聞こうとしない。店内に入ろうと押し寄せた人波がエマを強く押しのけ、エマは激しく転倒した。
そのとき、二階の扉が勢いよく開く。
「やめろ!」
ルークはすぐさま一直線に駆け下り、エマの前へ立ち、両手を広げてエマを庇う。
「彼女は関係ないだろ! 文句があるならこの僕に言え!」
ルークが危険を冒して私を庇ってくれている……ルークを見上げながらエマは息を呑んだ。
ルークの姿を見た暴徒たちの顔色が変わる。明らかに身なりの良い格好。上層区の人間を前に暴徒たちの怒りがさらに上がってゆく。
「あいつ……上層区の服だ!」
「政府の犬め! 捕まえろ!」
暴徒の一人がルークの胸ぐらを掴み上げた。
エマは思わずルークにしがみついて叫ぶ。
「ルーク、逃げて!」
それでもルークは微動だに動かなかった。
「エマには指一本触れさせない!」
「そこまでじゃぁぁぁっ!!」
そのとき、暴徒の後ろから雷のような怒声が響いた。
この場にいたほぼ全員が声の方を振り向くと、店の入口に、じいちゃんが立っていた。
大きな工具袋を肩へ担ぎ、ゆっくり中へ入ってくる。
「ギルド長……まさかここはギルド長の……」
暴徒の一人が呟くと、この場の空気が急速に冷え込んでゆく。
じいちゃんはギルドでも古参の重鎮、何度もこの街を支え続けてきたことを街の職人なら知らない者はいない。
暴徒たちが振り上げた拳を下ろし、怒りが収まる様子を見たじいちゃんは、ゆっくりと低く響く声で話し始める。
「皆の怒る気持ちも分かるが、怒りに任せて人や店を襲うようになったら、お前さんらは誰を守っとるんじゃ?」
店内は静まり返り、一人、また一人と視線が下がっていく。
「まずは火事を止めて、街を再建させるのが先じゃ。犯人捜しはその後でも良かろう」
じいちゃんの言葉に誰も逆らえなかった。
やがて暴徒たちは私たちに謝罪の言葉を言って、店を後にしていく。
そして店に静寂が戻る。
エマは張っていた力が抜け、その場にへなへなと座り込んだ。
「終わった……どうなるかと思ったけど、じいちゃん、ありがとう」
ルークもじいちゃんに礼を言いエマを見つめると、ようやく安堵の息を吐く。
その様子を、二階からアリシアは静かに見つめていた。
あのときルークは迷わなかった。
危険だと分かっていても真っ先に飛び出した。
その守ろうとした相手は――。
(私ではありませんでしたわね。)
胸が少しちくり、とする。けれど不思議と涙は出なかった。
答えは、もう分かってしまったから。
エマの前に立つルークの背中はとても自然で、あの姿を見てしまえば、もう迷えない。
(私は婚約者候補として隣に立とうとしていました。でも、あの方の心が帰る場所は……)
アリシアは小さく微笑んだ。それはどこか寂しくて、それでいて穏やかな笑みだった。
(応援いたしますわ……ルーク。)
その瞬間、彼女の初恋は静かに幕を閉じた。
「蒸気街のパン屋と御曹司」第4章が始まりました! ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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