第4章 7話 婚約者とパン屋の娘
蒸気機関が発達した街、グラン・ロア
下層区のパン屋で暮らす機械いじり好きの少女エマは、じいちゃんと穏やかな毎日を送っていました。
しかしある日、「グラン・ロア再生計画」が動き出し、ルークの婚約者を名乗る少女が突然現れます。
揺れ動くエマとルークの想い。そして、街の未来を左右する「グラン・ロア再生計画」に隠された真実とは。
恋愛、モノづくり、そして蒸気あふれる下町の空気感を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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※本作は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しています。
『ルーク様とエマさんは、どのようなご関係なのですか?』
アリシアの問いかけは穏やかだったが、その青い瞳は少しも揺らいでいない。婚約者として目の前の男性を知ろうとしている。その真っ直ぐな眼差しからルークは逃げることができなかった。
嘘をつくことは簡単だ。「ただの友人です」と言えば、この場は丸く収まるだろう。けれど、それはエマにも、アリシアにも失礼だ。
ルークは静かに息を吸い、覚悟を決めるように口を開いた。
「……正直に言います」
一度息を吸い、アリシアを真っすぐ見つめ返し、想いを噛み締めるように伝える。
「エマは、大切な人です」
その一言に、部屋の空気が静かに張り詰める。
「まだ、自分でもこの気持ちに名前を付けられるほど整理はできていません。でも、彼女が困っていれば放っておけない。笑っていてほしいと思うし、傷つけば胸が痛む」
ルークは自嘲気味に小さく笑った。
「だから、『ただの友達です』とは言えません」
その瞳には、迷いはあっても嘘はなかった。
「ですが、それと同時にあなたとの婚約を軽く考えているわけでもありません。だからこそ、あなたにも嘘はつきたくありませんでした」
ルークは一呼吸置いて、言葉を締める。
「今の僕が言えるのは、それだけです」
応接間を静寂が包んでゆく。アリシアはルークを見つめたまま何も言わない。その沈黙が何を意味するのか、ルークは次に紡がれる彼女の言葉を静かに待った。
やがて、アリシアはふっと口元を緩めた。
「……安心いたしました」
アリシアの言葉に、ルークは思わず安堵の表情を浮かべる。
「もしルーク様が、『ただのお友達です』とお答えになっていたら……私は、少し悲しくなっていたかもしれません」
アリシアは紅茶のカップを静かにソーサーへ戻して話を続ける。
「大切な方を、大切だと言えない方では、この先どれほど立派なお立場になられても、人の心を動かすことはできませんもの」
アリシアの穏やかな微笑みは変わらない。けれどその瞳には、先ほどまでの探るような色はもうなかった。
「ルーク様は、誠実なお方なのですね」
その一言は婚約者としての評価でも、令嬢としての社交辞令でもない。一人の人間としてルークに向けられた言葉だ。
「私も、エマさんのことをお話しして、よかったと思いました」
アリシアは柔らかく微笑む。
「これからは『グラン・ロア再生計画』の真実を追う同志として、どうかよろしくお願いいたします」
そう言って差し出された白い手を見つめ、ルークも静かに微笑み返した。
「よろしくお願いします、アリシア様」
その握手は、政略によって結ばれた婚約者同士ではない。同じ未来を守ろうと誓い合う、初めての約束だった。
空が茜色から群青色に染まる頃、ルークが会社に戻ると、秘書からセレナ様がお待ちです。と伝えられる。
◇
応接間ではすでにセレナがくつろいでいた。お茶を頂いてすっかりくつろいでいる。
ルークが入ってくると、手を挙げて「待ちくたびれたわよ」と、含み笑いを浮かべておどけてみせる。まるで家にいるような馴染み方にルークは頭を抱える。
「要件はなんですか?」
セレナの含み笑いから、婚約のことなど面白がって聞かれると思うと、身体が身構えてしまう。アリシアとの話は意義があったが、今日はとにかく疲れた。話はそこそこにして休みたい。
「婚約の話……と、言いたいけど『グラン・ロア再生計画』のほうが先。アリシアお嬢様も計画に疑問を持っているみたいだし、何を話してきたのかな? 教えてごらん」
……どこでその情報を掴んだんだ。ルークは驚きと諦めの表情を浮かべる。隠しても無駄だ。
ルークはセレナにアリシアとの会話を話す。
「なるほど。『区域浄化指数』という資料が切り取られている。もしかしたらベルク公爵家の御屋敷にあるかもしれない、ということね。」
少し間をおいて、セレナが続ける。
「ルーク、あなたはお父様を説得して、いつでも動けるようにしておいて。お父様もこの計画にはあまり乗り気じゃないんでしょ? 頼むわよ」
そして、意を決したように続ける。
「資料の件は、何とかするわ」
◇
次の日、昼時に《歯車亭》の扉が開くと、ルークの姿が見える。ルークの顔を見るのも久しぶりだ。エマは顔を上げ、笑顔で迎えようとするとルークの後ろにアリシアがいる。
「こんにちはエマさん。また、パンを買いにきました」
二人が並ぶ姿は、まるで最初からそこにいるのが当たり前のように絵になっている。
「い、いらっしゃいませ」
エマはなんとか笑顔を作るが、その声と表情は自分でも驚くほど固かった。
パンを購入したあと、アリシアがルークを見て声をかける。
「ルーク様、少しお疲れのようですね。座りましょうか」
よく見るとルークはどこか疲れた顔をしていた。目の下には薄く隈ができ、身体に活気がない。
アリシアは椅子を引き、静かに彼を座らせると顔色を覗き込み、エマに水を持ってきてほしいと伝える。
ルークはすぐに顔を上げた。疲れを押し隠すように口元へ笑みを浮かべ、そのままアリシアへ視線を向ける。その笑顔は、「心配はいりません」と静かに語っているようだった。
「大丈夫なようですが、ルーク様は無理をなさる方ですから心配なんです。件の資料は私がまとめておきますから、後はゆっくり休んでくださいね」
二人のあまりにも自然なやりとりを見て、水を持ってきたエマはトレーを持つ手にぎゅっと力が入る。
(私……気づかなかった)
いつも顔を合わせていたのに。パンを焼くことばかり考えて、ルークの疲れた表情すら見落としていた。
エマの胸の奥が、じくりと痛む。
アリシアはルークを支えられる。隣に立って、自然に気遣える。
それに比べて自分は――笑顔でパンを運ぶことしかできない。
二人を見送ったあとも、焼きたてのパンの香りは店いっぱいに満ちていた。
けれどエマだけはその温かな香りの中で、取り残されたように小さく俯いていた。
「蒸気街のパン屋と御曹司」第4章が始まりました! ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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