第4章 3話 婚約者の令嬢アリシア
蒸気機関が発達した街、グラン・ロア
下層区のパン屋で暮らす機械いじり好きの少女エマは、じいちゃんと穏やかな毎日を送っていました。
しかしある日、「グラン・ロア再生計画」が動き出し、ルークの婚約者を名乗る少女が突然現れます。
揺れ動くエマとルークの想い。そして、街の未来を左右する「グラン・ロア再生計画」に隠された真実とは。
恋愛、モノづくり、そして蒸気あふれる下町の空気感を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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※本作は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しています。
鏡の前で、アリシア・フォン・ベルクは静かに髪を整えていた。
今日はロイヤル・ギア社の御曹司、ルーク・アシュフォードとの初めての食事会だ。給仕たちは「婚約者様とのお食事会ですね」と、どこか浮き足立っていたが、アリシア自身にそんな感情はない。
これは恋愛ではなく、政略結婚だ。父が推し進めるグラン・ロア再生計画の成功のために結ばれるべき縁。アリシアは幼い頃から、そう教えられてきた。
机の上に置かれた手袋を手に取ったとき、ふと亡き母の言葉を思い出す。
『アリシア。貴族との結婚は恋だけでは決まらないのよ』
まだ幼かったアリシアは、意味が分からず不満そうに頬を膨らませた。
『好きな人と結婚しちゃ駄目なの?』
すると母は優しく微笑み、彼女の頭を撫でた。
『もちろん、それが一番幸せよ。でもね、誰かを支えるために結ばれる結婚もあるの。大切なのは相手を尊重し、その人の幸せを願うこと』
幼かったときは母の言葉を理解できなかったが今なら分かる。自分はベルク家の娘であり、この国に仕える者だ。ならば与えられた役目を果たすべきだろう。
ルーク・アシュフォードについて調べたことも頭に入れてある。若くして技術開発に携わり、将来を期待される人物。会話の題材もいくつか用意した。感情ではなく理性で向き合う、それが最善だと思っていた。
しかし準備を終えて立ち上がった瞬間、アリシアは胸の奥がわずかに落ち着かないことに気付く。これから会う相手は、資料の中の名前ではなく、一人の人間だと気付いたから。
母ならこんな時に何と言うだろうか。アリシアは小さく息を吐き、扉へ向かった。
「まずは、お話をしてみましょう」
その言葉は、誰に聞かせるでもない小さな決意だった。
食事会が始まり、ベルク家の御屋敷で開催されたパーティ会場には柔らかな陽の光が差し込み、豪華な生花と華やかなドレスコードに包まれた人達が会場を彩っていた。磨き上げられた銀食器が輝き、運ばれてくる料理は一流の料理人が腕を振るったものばかりだ。
しかし、その豪華な食卓の向かい側に座るルークは、ほとんど料理の味を覚えていなかった。
ナイフを動かす手が止まる。視線は皿でも会場でもなく、ただ遠くを見ていた。
そんなルークを見て、アリシアは静かに紅茶のカップを置いた。
「ルーク様」
呼びかけられたことに気づいたルークが顔を上げる。その反応は、心ここにあらずと言った様子が誰から見ても一目瞭然だった。
「先ほどから三度ほど、同じことを申し上げていますわ」
「……アリシア様、申し訳ありません」
ルークの素直に謝罪する姿に嘘はない。
だが彼の心はこの食卓にないことをアリシアは確信していた。料理の話をしても反応が薄く、再生計画の話題を振っても上の空だった。
それどころか、窓の外へ視線を向けるたび、その表情には焦りにも似た感情が浮かんでいた。明らかに誰かを気にかけている顔だった。そして、その誰かが自分ではないことも。
アリシアはナプキンを整え小さく息を吐いた。
「ルーク様、失礼を承知で申し上げます」
アリシアの真っすぐ見つめる目に、ルークの肩がわずかに強張る。
「あなたは今、この食事会にいらっしゃいませんわ。いえ、正確には身体だけがここにあります」
その通りだ。アリシアの指摘にルークは言葉を失った。それと同時にアリシアに申し訳ないという罪悪感が芽生える。
ただアリシアは責めるような口調ではなく、淡々と語りかける。
「婚約の話が突然だったことは理解しています。私も同じですから」
それでも、と彼女は言った。
「相手に向き合う気持ちもないまま席に着くのは、不誠実ではありませんか?」
その通りだ。言い訳のしようがなく、ルークは視線を伏せる。
「……アリシア様、申し訳ありません」
同じ言葉しか出てこない自分が嫌になる。
アリシアはその様子を見て、ようやく核心へ踏み込んだ。
「あなたの心は……誰に向いているのですか?」
会場の時計が、静かに時を刻んでゆく。
ルークは答えられない。答えられないこと自体が、何より雄弁な返事だった。
「ルーク様、少し外の空気を吸いに行きません?」
ルークを責めるでもない穏やかな問いかけにアリシアへのわだかまりも自然に解けていった。
◇
その数時間前、《歯車亭》に、いつもの身なりの良い給仕さんが『蒸気リンゴパイ』を買いに来た。給仕さんは随分と急いでいる様子で、パイを受け取ると慌てて店を後にした。「なんだろ?」とエマは気になるが、お客がまだいるため気にかける余裕はなかった。
店が一段落してからエマが店内を掃除しようとすると、床の隅に高級そうな分厚い財布が落ちていた。
「こんな財布、誰のだろう?」
エマが財布の中身を確認すると、思わず目を見開いた。そこには信じられない程多くの札束と上層区の御屋敷の身分証が入っていたから。
この財布、さっきの給仕さんの物かな? こんな大金無くしたら絶対まずいよね。なんか慌ててたみたいだし。身分証を見れば何処の御屋敷か分かるから返しに行かないと。
エマは新しく作成した『小型蒸気二輪車』の試運転も兼ねて、上層区の御屋敷に財布を届けに行くことにする。
エマが二輪車に搭載した小型蒸気機関の調子は良いようだ。専用のスロットルを回すと、二輪車は軽快に、徐々に速度を上げて御屋敷に向かう。
……本当はルークに一番に見せたかったけど。
エマが御屋敷に到着すると、庭では華やかなパーティが行われているようだ。場違いな雰囲気を感じて、エマは財布を守衛さんに渡して帰ろうとするが、会場の人々の視線が自分に向けられているのに気づく。
洗練されたドレスコードを身にまとい、周囲との完璧な調和を見せている会場の人々に対して、エマのぼさぼさの三つ編みと、汚れたオーバーオールが嫌でも際立ち、自分だけが何もない存在になったかのように息苦しくなる。
周囲のざわめきにルークが振り返ると、参加者の視線の方向に、エマがいた。
どうしてここに……ルークはエマに何も伝えてないことに後ろめたさを感じる。と同時にエマがルークに気づく。
「ルーク……」
エマはルークを見ている。いつもの元気なエマからは想像もつかない、とても頼りなさそうな目をしている。
「エマ、どうしてここに」
普段と違うエマの様子を見て、ルークは居てもたってもいられずにエマに駆け寄る。
「エマ、ごめん。後でちゃんと説明するから」
「どうしてルークが謝るの?」
二人がやりとりしている間に、アリシアが二人に近づいてくる。
「ルーク様、その方は貴方のお知り合いですか?」
エマの目の前に現れたのは、淡い銀色の髪を後ろでまとめ、深い青色の瞳に清楚な水色のドレスをまとった容姿端麗な美少女だった。
エマが気後れしているところに、アリシアはエマに向かって微笑み、自ら自己紹介をする。
「初めまして。私はアリシア・フォン・ベルク。ルーク様の、婚約者ですわ」
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