2話 雨の日の蒸気リンゴパイ
蒸気機関が発達した世界、機械いじりが好きな少女エマは、祖父と営む小さなパン屋で幸せに暮らしていました。
ところがある日、パンの大企業チェーン「ロイヤル・ギア・フーズ」がエマ達の街にやって来ます。
そして現れる謎の少年。
機械いじり好きな少女が、パン屋を守るために奮闘するスチームパンク作品です。
恋愛、モノ作り、下町の空気感を楽しんでいただければ嬉しいです。
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※この作品は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しております。
雨は夕方まで続いている。
グラン・ロアの空は低い雲に覆われ、工場群から吐き出される煙が雨に溶け込んでいる。
石畳は濡れて黒く光り、通りを走る蒸気車の車輪が、水たまりを跳ね上げながら遠ざかっていった。
《歯車亭ベーカリー》の軒先にも、細かな雨粒が絶え間なく落ちている。
店の中にはお客様はいない。
夕方なら本来、仕事帰りの客で少しは賑わう時間だ。だが最近は違う。向かいの大通りにできた《ロイヤル・ギア・フーズ》へ、人の流れがごっそり変わってしまった。
窓越しに見える新店舗は、今日も明るい。
巨大な蒸気看板。磨き上げられた真鍮。白い制服の店員たち。自動搬送機が忙しなくパン籠を運び、店先には長い列が続いている。
エマは布巾を動かしながら、ツンと小さく唇を尖らせた。
「また並んでる……」
拭いたばかりの窓に、自分のしかめ面がぼんやりと映る。
店の奥では、祖父が帳簿を開いたまま黙り込んでいた。ページをめくる音さえ重たい。
売り上げが落ちていることは、エマにも分かっていた。
売れ残ったパンの数を見て祖父がため息をつく。仕入れを少しずつ減らしていることは、言葉にしなくても伝わってくる。
同じパンでも、安くて、早くて、数を作れる、そして綺麗な店。
生活が苦しい人ほど、そちらを選ぶしかないことは頭では理解できる。
けれど理解することと、悔しくないことは別だ。
エマがモヤモヤした気持ちのまま作業を続けていると、店の扉についた鈴がカランと控えめに鳴った。
「いらっしゃいませ」
振り向いたエマは、わずかに目を見開くと、
そこには見慣れない少年が立っていた。
年齢は自分と同じくらいだろうか。黒いコートを着ているが、生地の質が明らかに違う。襟元も靴も雨に濡れているのに、どこかきちんとして見える。
下層区画の人間ではない。と、エマはすぐにそう思った。
けれど奇妙だったのは、その少年が店の中をじっと観察していたことだ。棚に並ぶパンだけではない。蒸気オーブン、配管、壁際の工具箱にまで視線を走らせている。
まるで工房を見学しに来たみたいだった。
「……パン、買いに来たんだよね?」
エマが尋ねると、少年は我に返ったように軽く頷いた。
「ああ」
だが落ち着いた声の奥に、どこか不慣れな響きが混じっている。
「おすすめは?」
「今日は黒麦パンと、蒸気リンゴパイ」
「蒸気リンゴパイ?」
「知らない?」
エマは少し身を乗り出して説明する。
「焼く前に蒸気シロップを閉じ込めるの。冷めても生地が固くなりにくいんだ」
そう言いながら、彼女は内心少しだけ得意になっていた。
エマが開発した新しいレシピ。
オーブンの温度調整も、蒸気圧も、何度も失敗してやっと形になった自信作。
少年は興味深そうにパイを見つめていた。その様子は子供みたいでなんか可愛い。
「じゃあ、それを」
「はい、焼きたて」
紙袋を差し出した瞬間、エマはふと相手の手に目を留める。
白くて綺麗な指。
油汚れも、切り傷も、火傷の痕もない。
エマは無意識に、自分の指先を隠した。細かな傷と煤汚れが、爪の隙間にまで入り込んでいる。
少年はパイをひと口かじった。
その途端、静かだった表情が揺れる。
驚いたように目を見開き、それからゆっくり味わうように噛みしめた。
エマは理由もなく落ち着かなくなった。どうかな?失敗してないかな?我慢できずに聞いてみる。
「……どう?」
「おいしい」
少年は少し考えてから「温かい味がする」
変な感想だったけど、馬鹿にしているわけではないことは分かる。
エマは思わず吹き出した。「なにそれ」
「変か?」
「ちょっとね」
少年と話してると、さっきまでモヤモヤしてた空気が少しだけ和らいでゆく。
パイを食べながら、少年の視線が店の隅へと向かってゆく。
そこには真鍮製の小さな保温箱が置かれていた。配管が何本も伸び、時折ぷしゅ、と細い蒸気を吐き出している。
「その箱は何?」
「ああ、これ?」エマの顔がぱっと明るくなり、得意げに言う。
「この保温箱は私が作ったの」
「それを君が作ったの?」
「そう、壊れたボイラーを改造したんだ。熱が逃げないように中を二重構造にして——」
語り始めると止まらなかった。
圧力弁の調整。廃棄された時計部品の利用。蒸気循環の仕組み。
説明しているうちに、エマはすっかり夢中になっていた。
ふと気づくと、少年が静かにこちらを見ている。
その眼差しには、呆れでも退屈でもなく、不思議な熱が宿っていた。
「……なに?」
「いや」少年は小さく笑った。
「凄く嬉しそうな顔をするんだなと思って」
「嬉しそうな顔?」
「機械の話をしてる時」
エマは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「好きなんだよ。機械」そう言ってから、彼女は保温箱をそっと撫でた。
「壊れてたものが動くようになると、なんだか嬉しいから」
その言葉を聞きながら、ルークは胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
彼の知っている機械は、もっと巨大で冷たく、効率のために動くものだった。
古くなれば交換され、壊れれば廃棄される。
そこに愛着が入り込む余地はない。
けれど目の前の少女は違う。
煤だらけの工具を握りながら、まるで友達の話をするように機械のことを嬉しそうに話す。
その姿から目が離せなかった。
温かいオーブンの熱とパンの香り。そして優しい蒸気の音。
この小さな店には、彼の知っている工場にはない何か、優しい空気が流れている。
ルークは素直な気持ちを口にする。
「あのさ、また来てもいいかな?」
いきなりの質問にエマは思わずきょとんとするが、すぐに何でもないように言う。
「別にいいけど。パン買ってくれるなら」
「もちろん、買うよ」
即答した自分に、ルーク自身が少し驚く。
エマはくすりと笑った。
「ふふっ、変な人」
その笑顔を見た瞬間、ルークの胸が不意に高鳴った。
なぜだか分からないけれど、またここに来て、エマに会えば分かるのかな。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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