10話 歯車の向こう側で
蒸気機関が発達した世界、機械いじりが好きな少女エマは、祖父と営む小さなパン屋で幸せに暮らしていました。
ところがある日、パンの大企業チェーン「ロイヤル・ギア・フーズ」がエマ達の街にやって来ます。
そして現れる謎の少年。
機械いじり好きな少女が、パン屋を守るために奮闘するスチームパンク作品です。
恋愛、モノ作り、下町の空気感を楽しんでいただければ嬉しいです。
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※この作品は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しております。
雨が止んだ翌朝、グラン・ロアの空には久しぶりに薄い光が差していた。
それでも街には、一昨日の騒ぎの痕跡が残っている。中央蒸気管の周囲には修理用の足場が組まれ、作業員たちが忙しなく行き来しており、濡れた石畳には煤と泥が混ざり、壊れた配管の破片がまだ端に積まれている。
《歯車亭ベーカリー》の前でも、祖父が朝から新聞を読んで呟く。
「無事に済んで良かったのう。お前たちのおかげだな」
新聞には、“蒸気主管破裂寸前”の文字が大きく載っていた。私たちのことも小さく記事になっている。
エマはパン生地をこねながら、ちらりとその記事を見る。
一昨日のことを思い出すと、胸がざわついた。 熱を持った蒸気管。吹き荒れる雨。
そして、自分の隣で弁を押さえていたルーク。
エマは無意識に手を止める。
祖父は何も言わずに、ただ、小さくため息をついて新聞を畳む。
「ルークに会いに行かんのか」
ルークの名にエマの肩がぴくりと揺れた。
「まだ会いたくない」
「嘘じゃな」
「うっ……」
図星だ。昨夜から、頭の中にルークの顔が居座っている。
まだ怒っているし、許したわけじゃない。
でも、それだけじゃなかった。
蒸気管の前で、ルークは危険だと分かっていながらも、迷わずに飛び込んできた。
あの時の表情が、どうしても演技には思えない。
エマは唇を噛む。
「……分かんないよ。何が本当なのかなんて」
ぽつりと漏れた本音は、自分でも驚くほど弱かった。
その時、通りの方から蒸気の音と、人々のざわめきが聞こえてくる。
エマは顔を上げた。「なんだろ」
店の外へ出ると、人だかりができていた。
視線の先には、《ロイヤル・ギア・フーズ》本社の大型蒸気車。
その前に、一人の少年が立っている。
ルークだった。
エマは思わず息を呑む。
ルークの向かいには、灰色のスーツ姿の男——以前迎えに来た秘書らしき人物がいる。
周囲の空気が張り詰めている中、「旦那様がお待ちです」と男は低い声で言った。
「今回の件についても、正式な説明が必要になります」
「分かっている」
ルークは静かに答える。その表情には、もう迷いはなかった。
「だから、すぐに戻る」
エマは人混みの後ろで立ち止まった。
ルークの言葉に、胸の奥が少し痛む。
やっぱり、向こうの世界へ帰るんだ。
そう思った瞬間に、ルークが続ける。
「でも、その前に言っておく」
周りに聞こえるようなはっきりとした言葉に、周囲が静まり返った。
ルークは真っ直ぐ前を向き、秘書に伝える。
「ロイヤル・ギア・フーズに《歯車亭》の技術盗用をやめさせる」
その発言に周囲の人々がどよめいた。
秘書の顔色が変わる。
「……何を仰っているのです」
「聞こえなかったか?」
ルークの声は静かだが、はっきりしていた。
「保温機構の設計は、エマのものだ。現場が無断で参考にしたことも調べがついてる」
ルークの発言に、エマの目が見開かれる。
秘書は眉をひそめながら、ルークの発言を訂正しようとする。「企業発展のためには——」
だが、すかさず「それは違う!」と、ルークは秘書の発言を遮ぎる。
「そんなやり方で作ったものに価値はない!」
その瞬間、エマは胸が強く鳴るのを感じた。
雨の日の工房で、『効率だけじゃ寂しい』とルークが話してたこと。覚えていてくれたんだ。……嬉しい。
「そのようなこと、旦那様がお認めになるとは思えません」
秘書の発言に対してルークは一歩前へ出る。
「それでも父と話さなくてはいけないんだ。僕はもう、見て見ぬふりはしない」
今までの僕は、決められたレールの上を歩き、何を作るべきかも誰かに決められていた。
だけど、今は自分で決めるんだ。
その横顔は、エマの知っているルークより少し大人びて見えた。
初めて《歯車亭》へ来た時の彼は、どこか頼りなかったから。
秘書はしばらく黙っていたが、やがて冷たく言った。
「後悔なさらぬように」
「後悔なら、もうしたさ」
分からないという顔をした秘書を横目に、ルークは小さく息を吐き、続ける。
「大事なものを傷つけてしまったから」
それってもしかして、私のこと?
その言葉に、エマの胸が締めつけられた。
秘書は一礼すると、蒸気車へ戻っていった。
重たいエンジン音を響かせながら、車が遠ざかっていく。
蒸気車が去ると、通りには静けさだけが残り、ルークはそこでようやく肩の力を抜いた。
そして、人混みの中でエマを見つける。
二人の視線が合わさったが、二人ともすぐには動けなかった。
ルークの告発で誤解は解けたけど、何を言えばいいのか分からない。
エマが何と言おうか考えていると、ルークの方からゆっくりと、エマの方へ歩いてくる。
「聞いてた?」
「……聞こえてた」
エマは素直になれず、ぶっきらぼうに返した。
二人の間に再び沈黙が落ちる。
心地良い風が二人の間を抜け、髪を揺らした。
ルークは少し迷ったあと、小さく頭を下げる。
「ごめん」
その声は、前よりずっと真っ直ぐだった。
エマはしばらく黙っていた。何と話して良いか分からなかったから。
胸の中はまだぐちゃぐちゃだ。
誤解は解けたけど……でも、逃げずにここへ来たことだけは、分かった。
「……ばか」
ぽつりと呟く。
ルークが顔を上げる。
「ほんと、ばか」
エマの目には、少しだけ涙が滲んでいた。
「もっと早く言えばよかったのに」
ルークは何も言えず、ただ、その言葉を静かに受け止める。
空を覆っていた雲の隙間から、細い朝日が街へ差し込む。
濡れた石畳が、その光を淡く反射していた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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