ep.20 錬金術師の代価
リーゼルが歩けるようになるまで、さらに三日かかった。
その間に、世界は動いていた。
ヴェルナー准尉がレーヴェン王国本国に報告書を送った。始祖竜の因子の存在と、竜牙の使徒の脅威。そしてリーゼル・フォン・メルツハーゲンが因子の安定化において不可欠な人材であるという評価。
セレンの情報網を通じて、ガルシュタイン公爵の不正の証拠が帝国内部の改革派にも届けられた。イレーネの証言が添えられている。公爵家の政治的な基盤は、根元から揺らぎ始めていた。
そして——リーゼルの逮捕状について、王国から暫定的な回答が来た。
「逮捕は保留。ただし条件付き」
ヴェルナーが、砦の研究室で告げた。リーゼルは椅子に座ったまま聞いている。まだ長時間立っていられる体力が戻っていない。
「条件は?」
「一つ。因子の安定化研究を継続し、定期的に進捗を王国に報告すること。二つ。禁忌魔術の研究成果を、王国の学術機関と共有すること。三つ——」
ヴェルナーが、少し言いにくそうに間を置いた。
「三つ。人工生命体の製造を、今後は王国の監督下で行うこと」
リーゼルの目が、僅かに細まった。
監督下。
ルゥのことだ。
「……ルゥを取り上げるつもり?」
「そうではない。製造の継続は認められている。ただし、王国の魔術監査官が定期的に研究内容を確認する。——正直に言う。本国はお前を恐れている。十七歳で禁忌魔術を独力で実行できる天才を、放置はできない」
「放置ではなく、管理?」
「……そうなる」
リーゼルは黙って考えた。
管理される。研究の自由が制限される。それは——窮屈だ。
だが、逮捕されて研究が完全に止まるよりは、遥かにマシだ。
それに——正直なところ、一人で全部やる限界は思い知った。国家の資源にアクセスできるなら、因子の安定化も、ルゥの修復も、格段に進む。
「……ヴェルナー。一つだけ条件を追加させて」
「聞こう」
「ルゥの処遇に関しては、最終判断権を私に残して。ルゥは研究対象じゃない。——私の家族だから」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
家族。
今まで使ったことのない言葉だった。作品でも被造物でもなく——家族。
ヴェルナーは数秒黙り、それから頷いた。
「善処する。本国にはそのように伝える」
「ありがとう」
ヴェルナーが砦を出た後、ルゥが暖炉の前から顔を上げた。
「ママ。今、家族って言った」
「……言った」
「取り消さないの」
「取り消さない」
ルゥの紫水晶の瞳が、ほんの僅かに——潤んだように見えた。涙腺は未実装のはずだが。
「……ぼくのデータベースに、新しい分類を追加する。『家族』。定義:ママがそう言ったもの」
「ざっくりだな」
「定義は後から精緻化する。今はこれでいい」
リーゼルの手が、ルゥの頭に載った。今度は——ちゃんと、撫でた。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕方。
セレンが帝国側の情報をもたらした。
ガルシュタイン公爵は失脚の瀬戸際にあった。不正の証拠が宮廷内部に出回り、公爵を支持していた勢力が離反し始めている。イレーネの証言が決定打だった。
「公爵の失脚は時間の問題です。早ければ一ヶ月以内に」
セレンが報告した。
アルヴィンは壁際に立ったまま、黙って聞いていた。
公爵の失脚。
それは——自分を陥れた張本人が裁かれるということ。冤罪が晴れる可能性があるということ。
だが、アルヴィンの顔に喜びはなかった。
「……公爵が失脚しても、俺がやったことは消えない」
「消えませんね。婚約破棄と、過激派との接触。それは事実ですから」
セレンは容赦しなかった。だが、続けた。
「ただし、反逆の罪は冤罪です。魔力の封印と奴隷への転落は、公爵の工作によるもの。——帝国が正式に認めれば、部分的な名誉回復は可能です」
「部分的」
「全面的な復権は難しいでしょう。婚約破棄の事実は覆りません。ですが——少なくとも、奴隷の首輪を外す法的根拠にはなる」
首輪。
アルヴィンの手が、無意識に首に触れた。
この金属の輪が外れる。
それは——自由を意味するのか。
それとも——この場所を離れる理由ができてしまうことを、意味するのか。
「一つ、私から提案があります」
セレンが言った。翡翠の瞳が、穏やかだが真剣だった。
「イレーネ殿と、話をしてはいかがですか。——逃げ続けていることについて」
アルヴィンが身体を強張らせた。
「……逃げてなどいない」
「逃げていますよ。彼女が砦に来てから六日。あなたは一度もまともに彼女と向き合っていない」
否定できなかった。
イレーネがここにいる。自分のために証拠を集め、父を告発し、ここまで来た女が。
なのに——話しかけられない。
彼女の顔を見ると、あの夜の自分の声が蘇る。「退屈な女」。その言葉が、首輪よりも重い枷になって、喉を塞ぐ。
「セレン」
リーゼルの声が割り込んだ。
「それはアルヴィンが自分で決めること。あなたが急かすことじゃない」
セレンが少し驚いた顔をして——それから、微笑んだ。
「……失礼しました。おっしゃる通りです」
◇ ◇ ◇
翌日。
アルヴィンは一人で、ランテルン村に向かった。
ハンナの宿の前に立った。扉を見つめて、長い間動けなかった。
扉が内側から開いたのは、アルヴィンが立ち去ろうとした時だった。
ハンナが立っていた。
「突っ立ってんのは見えてたよ。——入りな。あの子は二階にいる」
「…………」
「あたしに言われなきゃ動けないのかい」
ハンナに背中を押されるようにして、宿に入った。
二階の小さな部屋。
イレーネが窓辺に座って、本を読んでいた。
リーゼルとは対照的に、きちんと整えられた部屋。ベッドの上には花が一輪、木の器に活けてある。
イレーネが顔を上げた。
「……来たのね」
「…………」
アルヴィンは部屋の入り口に立ったまま、動けなかった。
イレーネが本を閉じて、椅子を一つ引いた。座れ、という無言の誘い。
座った。向かい合った。窓から午後の光が差し込んで、イレーネの栗色の髪を照らしている。
「……イレーネ」
「なに」
「俺は——」
言葉が詰まった。
謝罪か。感謝か。どちらから言うべきか。どちらも足りない気がする。
イレーネが小さく息を吐いた。
「難しく考えなくていいわ。私、あなたに許してもらいたくてここに来たんじゃない。許しを求めてるのでもない」
「なら——なぜ」
「正しいことをしたかっただけ。父がしたことは間違っている。それを正すのに、あなたとの過去は関係ない」
イレーネの声は穏やかだった。
「あなたが私にしたことは、ひどかった。それは今でも思ってる。でも——あなたを冤罪のまま放置するのは、もっとひどいことだと思ったの」
「…………」
「だから証拠を集めた。あなたのためじゃない。自分のために。正しいと思うことをしないと、私が私でいられなくなるから」
アルヴィンは——その言葉の強さに、打たれた。
この人は、自分が思っていたよりもずっと強い人間だった。「退屈」などという言葉で片づけていい存在ではなかった。最初から。
「……すまなかった」
出た言葉は、結局それだった。
イレーネが微かに笑った。
「遅いわ」
「ああ。遅い」
「でも——聞けてよかった」
窓の外で、鳥が鳴いていた。
「あなた、変わったわね」
「……そうか」
「あの砦にいる人たちが、あなたを変えたのね。——あの錬金術師の子が、特に」
アルヴィンは答えなかった。答える必要がなかった。
イレーネには、見えていた。
「大切にしなさい。——今度は」
それだけ言って、イレーネは本を開き直した。
会話は終わりだった。
アルヴィンは立ち上がり、扉に向かった。
振り返った。
「……イレーネ。お前は——幸せになるべき人間だ」
イレーネが本から目を上げなかった。
でも——唇が、微かに動いた。
「なるわよ。自分の力で」
アルヴィンは宿を出た。
空が広かった。
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* * *
「政治情勢メモ
ガルシュタイン公爵の失脚:ほぼ確定。
アルヴィンの法的地位:冤罪の部分的解消の見通し。首輪の解除が可能に。
リーゼルの逮捕状:保留。条件付き研究継続。
ルゥの処遇:家族。(←これは政治メモに書くことじゃない気がするけど、大事なことだから書いておく)
追記:助手が村に行って帰ってきた。
顔がすっきりしていた。何があったかは聞かなかった。
でも、夕飯が少し丁寧だった気がする」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、雑記帳より
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