ep.19 覚めの後
リーゼルが目を覚まさなかった。
一日目。
アルヴィンはリーゼルの寝床の横に座り続けた。食事も取らず、眠りもせず。ルゥが「食べて」と言っても「寝て」と言っても、動かなかった。
リーゼルの呼吸は浅いが安定している。脈拍も正常。身体に外傷はない。——ただ、目を開けない。
魔力枯渇。
生命維持に必要な最低限の魔力すら底をつきかけている状態。人間の身体は魔力なしでも生きられるが、魔力を生命活動の根幹に組み込んでいる魔術師にとっては、枯渇は死に直結する。
ルゥが、リーゼルの手を握り続けていた。小さな手で、冷たくなった指先を包んでいる。
「ママ。起きて」
返事はない。
「ママ。ぼくのメンテナンス、まだ終わってない」
返事はない。
「……ママ」
ルゥの声が、微かに震えた。感情回路は未実装のはずだ。だが、声は震えていた。
カイが砦に食料を運んできた。アルヴィンの前に黙って椀を置き、「食え」とだけ言った。アルヴィンは首を振った。カイは何も言わず、砦の外で見張りに立った。
セレンが薬を調合した。魔力回復に効果のある薬草を煎じて、リーゼルの唇に少しずつ含ませた。セレンの手つきは慣れていた。これが初めてではないのだろう。
ハンナが村から毛布と温かい食事を持ってきた。リーゼルに毛布をかけ直し、アルヴィンの肩にも一枚かけた。「あんたが倒れたら、あの子が目覚めた時に困るだろ」と言った。
アルヴィンは——その言葉で、ようやくスープを口にした。
二日目。
イレーネが砦を訪れた。
リーゼルの寝顔を見て、しばらく黙っていた。
「……この人が、あなたを助けてくれたのね」
アルヴィンに向けた言葉だった。
アルヴィンは頷いた。声が出なかった。
イレーネは寝床の傍にしゃがみ、リーゼルの額にそっと手を当てた。
「……熱はないわ。でも、顔色が悪い」
「魔力が戻れば、目を覚ますはずだ。——はずなんだ」
「信じましょう。この人は——強い人よ」
イレーネが立ち上がり、砦を出る前に振り返った。
「アルヴィン」
「……何だ」
「あなたが誰かのためにそんな顔をするの、初めて見た」
アルヴィンは答えなかった。
イレーネは微かに笑って、出て行った。
三日目の朝。
アルヴィンは椅子に座ったまま、浅い眠りに落ちていた。
ルゥはリーゼルの手を握ったまま、休眠モードに入っている。
砦は静かだった。
朝日が壁の隙間から差し込み、リーゼルの銀灰色の髪を照らしていた。埃が金色に舞い、光の帯がリーゼルの顔にかかる。
指が——動いた。
ルゥが握っているほうの手。小さな指が、微かに、ルゥの手を握り返した。
ルゥの目が開いた。
「ママ」
リーゼルの瞼が——震えた。
ゆっくりと、重たそうに、目が開いていく。
薄い紫の瞳が、ぼんやりと天井を映した。
「…………」
数秒、何も言わなかった。天井の苔を見つめて、瞬きを何度かして、自分がどこにいるのか確認しているようだった。
「……ルゥ」
かすれた声だった。
「ママ!」
ルゥがリーゼルの手を両手で握りしめた。力加減がめちゃくちゃだった。
「ママ、三日寝てた。七十二時間と十四分。ぼく、ずっとここにいた。ずっと——」
「……ごめんね。心配かけた」
「心配は未実装。でも——魔力炉がずっときゅっとしてた。七十二時間ずっと」
「それは心配って言うんだよ、ルゥ」
リーゼルの指が、ルゥの頭に触れた。力がなくて、撫でるというより載せるだけだったが。
椅子の上で、アルヴィンが目を覚ました。
浅い眠りから引き上げられた目が、リーゼルを見た。
開いている。
目が。
紫の瞳が、こちらを見ている。
「…………」
アルヴィンは椅子から立ち上がった。一歩近づいて、立ち止まった。
何を言えばいいかわからなかった。
ありがとう。すまなかった。お前のせいで。お前のおかげで。生きていてくれて。もう二度とこんなことを。
全部、正しくて、全部、足りない。
リーゼルがこちらを見た。
ぼんやりした目。三日間の昏睡から覚めたばかりの、焦点の合わない視線。
「……アルヴィン」
「ああ」
「……私、何日寝てた?」
「三日だ」
「三日。……研究、三日分遅れた」
アルヴィンは——息を吐いた。
深く、長く。
身体の奥に溜まっていた何かが、その息と一緒に溶け出していくようだった。
「……お前は、本当に——」
言葉の続きは出なかった。代わりに、目の奥が熱くなった。
泣くな。泣くな。こんなところで——
「泣いてる?」
「泣いてない」
「目が赤い」
「五感の——」
「それ前にも聞いた」
リーゼルの唇が、かすかに動いた。
笑っている。
ほんの微かに。目元だけの、小さな笑み。
「……おかえり」
アルヴィンが言った。自分でも意外な言葉だった。
リーゼルが少し目を見開いた。
「……ただいま」
それだけだった。
それだけで——十分だった。
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* * *
「覚醒後メモ
三日間の昏睡から復帰。
身体状態:魔力枯渇からの回復中。四肢に力が入らない。頭痛あり。
記録すべきこと:意識接続術式は成功した。
因子の鎮静化を確認。音響魔力共鳴の有効性を実証。
安定化術式の完成に向けた、決定的なデータが得られた。
……記録すべきこと、もう一つ。
目が覚めた時、最初に見えたのはルゥの手だった。
二番目に見えたのは、アルヴィンの顔だった。
泣いてないと言い張っていたけど、あれは絶対泣いてた。
なんだか——嬉しかった。
嬉しい、って感情を、こんなにはっきり感じたのは、いつ以来だろう」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、覚醒後メモ(字がかなり揺れている)
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