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ep.18 人間であれ


 リーゼルの頭の中で、すべてが繋がった。


 写本の一節。『因子の覚醒者を繋ぎ止めるものは、鎖ではなく声である』。


 ルゥのメンテナンス時に確認された、音響による魔力炉の安定化効果。


 十三回失敗した安定化術式。因子の固有振動数の変動に追従できなかった理由——術式が「固定された構造」だったからだ。変動する標的には、変動する力で応えなければならない。


 術式ではなく、声。


 機械的な追従ではなく、生きた人間の声による、即興の共鳴。


 魔力を声に載せて、因子の振動に同調する。振動が変われば、声も変える。楽器を調律するように、因子の波長に寄り添い、暴走の波を鎮めていく。


 理論上は——可能だ。


 ただし、条件がある。


 声を届ける先は、封印の内側。アルヴィンの意識の最深部。竜の意識と人間の意識がせめぎ合っている場所に、外側から魔力を載せた声を送り込む。


 そのためには——術者自身の意識を、対象の内面に接続する必要がある。


 人体錬成の応用。


 リーゼルの専門分野であり、禁忌の領域。


 人間の身体を「素材」として理解する技術の延長線上に、人間の意識を「回路」として接続する技法がある。文献にしか存在しない、理論上の術式。実行した記録はない。——成功した記録も、失敗した記録も。


 失敗すれば、接続した術者の意識が対象の内面に取り込まれる。戻ってこられない。


 (……やるしかない)


 迷っている時間はなかった。


 アルヴィンの竜化は進行し続けている。背中から突き出た翼の骨格が伸び、膜が張り始めている。全身の鱗は黒曜石のように光を弾き、体躯が膨張して人間の輪郭を失いつつある。


 ヴァルターは距離を取って、変容を見守っていた。恍惚の表情。完全覚醒を見届けるつもりだ。


 「ヴェルナー准尉——!」


 リーゼルが叫んだ。


 野営地の方角から、金属の鳴る音が聞こえた。騎士隊が異変に気づいて駆けつけてくる。


 「あの男を抑えて! 詠唱を止めさせて!」


 ヴェルナーが状況を一瞬で把握した。竜化しつつある巨大な影と、それを見つめる灰白色の髪の男。


 「——全員、術戦用意! あの術者を制圧する!」


 騎士隊がヴァルターに向かった。四人の魔術師が展開する制圧術式。


 ヴァルターが初めて、リーゼルから目を離した。


 「……邪魔を」


 ヴァルターの手が動いた。黒い光の壁が展開され、騎士隊の術式を弾き返す。だが——四対一だ。ヴァルターは強力だが、騎士隊の連携攻撃に対応するために、アルヴィンへの干渉を中断せざるを得なくなった。


 外部からの刺激が弱まった。


 だが、もう遅い。因子は自律的に覚醒を進行させている。外から火をつけられた種火が、自力で燃え広がり始めている。ヴァルターを止めても、因子の暴走は止まらない。


 リーゼルはアルヴィンの前に立った。


 目の前にいるのは、もう人間の形をしていなかった。


 巨大な影。黒い鱗に覆われた身体。半ば形成された翼。金色に光る、縦に裂けた瞳。


 だが——まだ完全には変わりきっていない。


 顔の左半分にはまだ人間の肌が残っている。片方の手はまだ五本の指がある。人間の形と竜の形が、身体の上でせめぎ合っている。


 そして——首輪がまだある。


 第六層の封印。最後の一枚。ひびだらけだが、まだ辛うじて繋がっている。あの封印が完全に砕けたら、竜化は不可逆になる。


 ここが、境界線だ。


 リーゼルは竜化しかけたアルヴィンの前に膝をついた。


 巨大な影が見下ろしている。金色の瞳に、人間の知性は——かすかに、まだある。溺れかけている人間の目だ。水面の上に指先だけを出して、沈みゆく意識が最後の空気を求めている。


 「アルヴィン」


 名前を呼んだ。


 返事はない。だが、金色の瞳がこちらを向いた。


 獣の瞳だ。でもその奥に——深紅の残滓がある。消えかけている、人間の色。


 リーゼルは両手を伸ばした。


 鱗に覆われた首に触れた。首輪の上に、指を重ねた。金属と鱗の下で、二つの鼓動が脈打っている。人間の心臓と、竜の因子。


 「……聞こえてるなら、もう少しだけ持ちこたえて」


 魔力を練った。


 全身の魔力を、声帯に集中させる。


 そして——歌い始めた。


 歌詞はない。ルゥのメンテナンスの時に無意識に口ずさんでいた、あのメロディ。前世から持ってきた、名前のない旋律。


 低く、静かに。


 魔力を声に載せた。音波に魔力を重畳させる——音響魔力共鳴。理論上の技法を、ぶっつけ本番で実行する。失敗したら意識が戻らない。成功の保証はない。


 でも——この旋律なら、届く気がした。


 根拠はない。研究者としては最も唾棄すべき判断基準だ。「気がした」で命を賭けるなんて、論文なら査読で落とされる。


 でも、今は論文を書いているのではない。


 目の前で消えかけている人間を、引き戻そうとしている。


 声が——響いた。


 砦の石壁に反響し、森の木々に吸い込まれ、大気中の魔力と共鳴して、世界に溶けていく。


 同時に、意識の接続を開始した。


 声を導線にして、自分の意識の一部をアルヴィンの内面に送り込む。


 視界が——二重になった。


 外側では、自分の目がアルヴィンの竜化した身体を見ている。


 内側では——別の世界が開けた。



 ◇ ◇ ◇



 暗い場所だった。


 地平線のない闇。足元に水が薄く張っている。一歩踏み出すと、ちゃぷ、と微かな水音がした。


 ここがアルヴィンの意識の内側。


 見上げると、空のあるべき場所に——巨大な影があった。


 竜だ。


 翼を広げた黒い竜が、闇の天蓋を覆うようにしてそこにいた。目を閉じている。だが、身体中の鱗の隙間から金色の光が漏れ出していて、その光が闇全体を不穏に照らしている。


 因子の本体。始祖竜の残滓。アルヴィンの血に眠っていた、数百年分の力の結晶。


 そして——竜の足元に、一人の人間がいた。


 膝をついている。両手を地面について、顔を伏せている。身体が半透明に揺らいでいる。消えかけている。


 アルヴィンだ。


 リーゼルは走った。水面を蹴って、アルヴィンの前に滑り込んだ。


 「アルヴィン」


 顔を上げさせた。


 彼の目は——空っぽだった。深紅の瞳から光が消えかけている。


 「……誰だ」


 かすれた声が言った。


 「リーゼル。錬金術師。あなたの——」


 何と言えばいい。持ち主? 雇い主? 研究者?


 どれも嘘ではないが、どれも足りない。


 「——あなたのそばにいる人間」


 それしか出てこなかった。


 アルヴィンの空っぽの目が、リーゼルを見た。見ているが、認識しているかどうかわからない。


 「……俺は、もう」


 「もう、何」


 「……消えたほうがいい。この力が——俺が消えれば、誰も傷つかない」


 「消えたら困る」


 「……なぜ」


 なぜ。


 それを聞かれると思っていた。答えを用意していなかった。


 研究対象だから? 封印術式のサンプルだから? 助手として有用だから?


 全部、嘘だ。


 嘘ではないけれど、本当のことではない。


 リーゼルは——生まれて初めて、言葉に詰まった。


 前世でも今世でも、言語化できないことはなかった。感情を数値に変換し、事象を論理に分解し、世界を構造として理解してきた。それが自分の生き方だった。


 でも今、ここで必要な言葉は、論理の外にあった。


 竜が動いた。


 頭上の巨大な影が、ゆっくりと目を開けようとしている。金色の光が強くなる。竜が目覚めれば、アルヴィンの意識は完全に飲み込まれる。


 時間がない。


 言葉が見つからないなら——


 リーゼルは、歌った。


 あの旋律。前世から持ってきた、名前のない子守唄。


 声に魔力を載せて。


 言葉ではなく、音で。


 意味ではなく、響きで。


 論理ではなく——ただ、この人にここにいてほしいという、名前のない感情で。


 声が、闇に満ちた。


 水面が波紋を広げた。薄く張った水の上を、音の波が走っていく。波紋がアルヴィンに触れた瞬間——半透明だった彼の身体に、色が戻り始めた。


 竜が——止まった。


 開きかけていた金色の瞳が、細められた。旋律が竜の巨体に触れ、鱗の隙間に沁み込んでいく。


 共鳴が起きている。


 声の波長が、因子の固有振動数に寄り添っている。暴走する振動を抑え込むのではなく——並走している。嵐の中で、風に逆らわず、風と同じ速度で走ることで、相対的に静寂を作り出すように。


 竜が唸った。低く、長く。


 抵抗している。だが——力任せの抵抗ではない。旋律に触れたことで、暴走の勢いが鈍っている。


 アルヴィンの目に、光が戻り始めた。


 「……リーゼル」


 名前を呼ばれた。


 空っぽだった瞳に、深紅の色が滲んでいる。


 「聞こえてる。——お前の声が」


 「聞こえてるなら、掴まって」


 リーゼルが手を伸ばした。


 アルヴィンの手が——震えながら、持ち上がった。


 指先が触れた。


 冷たい。リーゼルの指はいつも通り冷たくて、アルヴィンの指は灼けるように熱い。真逆の温度が、掌の中で出会った。


 握った。


 強く。


 竜が咆哮した。


 闇全体が震えた。水面が波立ち、金色の光が爆発的に膨張する。因子が最後の抵抗を見せている。


 リーゼルの意識が軋んだ。接続が不安定になっている。自分の意識がアルヴィンの内面に引きずり込まれそうになる。


 戻れなくなるかもしれない。


 それでも——手を離さなかった。


 声を止めなかった。


 旋律を歌い続けた。同じメロディの繰り返し。前世の記憶。蛍光灯の下で、残業の合間に、誰もいないオフィスで口ずさんでいた曲。誰のための歌でもなかった。自分を慰めるためだけの、ささやかな旋律。


 それが今——一人の人間を、竜から引き戻すための楔になっている。


 竜の金色の瞳が、リーゼルを見た。


 巨大な、人間を一飲みにできる竜の目が——静かに、リーゼルを見つめていた。


 敵意は——なかった。


 代わりにあったのは、疲弊だった。


 数百年の眠りから叩き起こされ、無理やり覚醒させられた存在の、途方もない疲労。


 (……この竜も、望んで暴走しているわけではない)


 リーゼルの歌が、変わった。


 子守唄になった。


 目覚めさせるための歌ではなく、眠りに誘うための歌。安らかに、もう一度、眠りなさいと——そう告げる旋律。


 竜の瞳が——ゆっくりと、閉じていった。


 金色の光が退いていく。鱗の隙間から漏れていた光が、一つ、また一つと消えていく。巨大な影が小さくなり、闇の奥に沈んでいく。


 水面の波紋が収まった。


 静寂が、戻った。


 アルヴィンの身体から半透明が消え、はっきりとした輪郭を取り戻していた。深紅の瞳が、リーゼルを見つめている。


 「……戻って、きた」


 「うん」


 「お前が——呼んでくれた」


 「うん」


 「……なぜ」


 また、その問い。


 リーゼルは——今度は、詰まらなかった。


 「わからない。でも、あなたがいなくなるのは嫌だった。——理由は後で考える」


 アルヴィンが——笑った。


 初めて見る笑顔だった。


 泣きそうな、壊れそうな、でも確かに温かい笑顔。


 「……後でいい。後で——考えてくれ」


 掌を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。



 ◇ ◇ ◇



 意識が外側に戻った。


 リーゼルの視界が、アルヴィンの内面から現実に切り替わる。


 目の前にいたのは——人間だった。


 鱗は退いていた。翼の骨格は消えていた。全身に汗と泥と疲労をまとった、人間の男がそこにいた。膝をついて、肩で息をしている。


 首輪の第六層の封印は——繋がっていた。ひびだらけだが、持ちこたえた。


 リーゼルの耳に、戦闘の音が届いた。


 ヴァルターと騎士隊の交戦がまだ続いている。だが——ヴァルターの術式の出力が落ちている。因子の覚醒が頓挫したことで、動揺しているのか。


 カイの咆哮が聞こえた。森の方角から獣人の戦士が飛び出し、ヴァルターの側面を突いた。山刀が黒い光の壁を叩き割る。


 ヴァルターが後退した。


 「……まさか、声で因子を鎮めるとは」


 ヴァルターの金色の瞳が、リーゼルを見ていた。驚愕。そして——わずかな、称賛。


 「面白い女だ。——だが、これで終わりではない。因子は一度目覚めかけた。二度目は、もっと容易に覚醒する」


 「だったら、二度目が来る前に安定化させる。——今度は、方法がわかったから」


 リーゼルが立ち上がった。


 足が震えている。魔力の消耗が激しい。視界が霞む。だが——立てる。声は出る。


 ヴァルターは数秒、リーゼルを見つめた。


 それから——微かに笑った。


 「……また会おう、錬金術師殿」


 黒い光がヴァルターの身体を包み、次の瞬間——消えていた。転移術式。追跡は不可能だ。


 戦場に残されたのは、疲弊した騎士隊と、血と泥にまみれたカイと、膝をついたアルヴィンと——立っているのがやっとのリーゼル。


 「ママ!」


 ルゥが駆けてきた。リーゼルの足元に飛びついた。


 「ママ、大丈夫? 魔力が——すごく減ってる。危険なレベル——」


 「大丈夫。ちょっと——」


 視界が暗転した。


 膝が折れた。


 倒れる瞬間、誰かの腕が背中を支えた。


 大きくて、温かい腕。


 「リーゼル——!」


 アルヴィンの声が聞こえた。


 遠い。でも——温かい。


 意識が落ちる寸前、リーゼルは思った。


 (……あ、そっか。私、この人の名前呼ぶとき——「アルヴィン」って、ちゃんと呼べてたんだ)


 それが嬉しかった。


 理由は——後で考える。



---


*    *    *


「ママが倒れた。

 魔力枯渇。意識不明。

 ぼくにできることは、ここにいることだけ。

 ママの手を握って、ここにいること。

 ……ぼくは泣けない。涙腺は実装されていない。

 でも、胸の魔力炉がきゅっと縮んだ。

 これは——たぶん、泣いているのと同じだと思う」

——ルゥ、記録(文字が少し歪んでいる)


---

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