ep.17 竜の覚醒
それは、ヴェルナー隊との協議が一段落した翌朝のことだった。
リーゼルは砦の研究室で、因子安定化の新しいアプローチを試していた。音響と魔力の共鳴——ルゥのメンテナンス時に確認された効果を、術式に組み込む方法。まだ理論段階だが、糸口は掴みかけている。
外は穏やかな朝だった。
カイが狩りに出ている。セレンはランテルン村で情報の整理。ヴェルナー隊は砦の近くに野営し、本国への報告書を作成している。イレーネは村のハンナの宿に滞在している。
ルゥが屋根の上で見張りを続けている。
アルヴィンは——砦の裏手で水を汲んでいるはずだった。
平穏。
昨夜の戦闘が嘘のような、静かな朝。
だからこそ——次の一撃は、何の前触れもなく来た。
空気が、変わった。
リーゼルの肌が粟立った。大気中の魔力の流れが、突然歪んだ。術式を「見る」目が、異常を捉える。砦の周囲の魔力が——渦を巻き始めている。自然現象ではない。誰かが、外部から魔力の流れを操作している。
「ママ!」
ルゥの声が屋根から降ってきた。悲鳴に近い鋭さだった。ルゥがこんな声を出すのを、リーゼルは聞いたことがなかった。
「南の森。何かが来る。——ものすごく、大きい」
リーゼルは砦を飛び出した。
南を見た。
森の木々の上に、光が見えた。
黒い光。矛盾した表現だが、他に言いようがない。闇が凝縮して光を帯びたような、不吉な輝き。それが森の上空でゆっくりと回転している。
そして——その光の下から、声が聞こえた。
歌だった。
いや、詠唱だ。人間の声帯から発せられているとは思えない、低く重い共鳴音。古代の言語。意味は取れないが、音の一つ一つが大気を震わせ、魔力の渦を加速させている。
リーゼルの目が、詠唱の術式構造を捉えた。
見たことのない体系。レーヴェン式でもドラグノア式でもない。もっと古い——写本にすら記載のなかった、原初の術式。
その術式が狙っている先は——
「アルヴィン!」
叫んだ。
砦の裏手に走った。
水汲み場。湧き水の傍に、アルヴィンが倒れていた。
膝をついて、両手で首を押さえている。首輪が——光っていた。封印術式が外側からではなく、内側から激しく発光している。
因子が反応している。
外部からの詠唱が、封印を透過して因子に直接働きかけている。封印を解くのではなく、封印の内側にある因子だけを揺さぶり、強制的に目覚めさせようとしている。
「アルヴィン! 聞こえる!?」
駆け寄った。肩に触れた。
熱い。
皮膚の温度が異常に上がっている。触れた掌が焼けるように熱い。着ている服の下で、首筋から鎖骨にかけて——鱗が広がり始めていた。
「来る、な——」
アルヴィンが歯を食いしばって言った。目が——片方が深紅、片方が金色になっていた。
「頭の中に——声が——」
「声?」
「知らない声が、呼んでいる。目覚めろ、と。お前の本当の姿を——取り戻せ、と——」
外部の詠唱。あれが因子に「声」として届いている。
リーゼルはアルヴィンの首輪に手を当てた。封印術式の状態を読み取る。
五層残っている封印のうち、第二層と第三層に亀裂が入っていた。外部からの干渉で、封印の構造が内側から圧迫されている。因子が膨張し、封印を押し広げようとしている。
このまま放置すれば——封印が内側から破裂する。
「ルゥ! ヴェルナー隊に知らせて! 南の森に術者がいる!」
「了解!」
ルゥが屋根から飛び降り、走っていった。
リーゼルはアルヴィンの前にしゃがみ込んだ。両手で首輪に触れ、封印の補強を試みる。自分の魔力で亀裂を塞ぐ。
だが——押し返される。
内側からの圧力が強すぎる。リーゼルの魔力が、因子の膨張に押し負けている。
「……っ、く」
歯を食いしばった。指先に力を込める。魔力を搾り出す。
亀裂がさらに広がった。第四層にもひびが入り始める。
「——無駄だよ」
声がした。
南の森の方角から。近い。いつの間にか、詠唱の声がすぐそこまで来ていた。
木々の間から、一人の男が歩み出てきた。
長身。痩躯。フードのない灰色の外套。年齢は不詳——三十にも五十にも見える。髪は灰白色で、顔立ちは端正だが、人間味が希薄だった。作り物じみた完璧さ。
目が——異様だった。
虹彩が金色に光っている。人間の目ではない。竜の目だ。
「はじめまして、錬金術師殿。——私はヴァルター。竜牙の使徒を率いる者です」
穏やかな声だった。狂信者の声ではなく、学者が論文を朗読するような、抑制の効いた声。
「封印の補強は無意味です。あの因子は、封じ込めていい力ではない。解き放つべきものだ」
「解き放ったら大陸が滅ぶ」
「滅ぶのではなく、生まれ変わるのです。始祖竜の力による世界の再創造。腐った秩序を焼き尽くし、新しい世界を——」
「興味ない」
リーゼルが遮った。
ヴァルターの眉が、僅かに上がった。
「教義を聞く気はない。あなたがやろうとしてることは、この人を壊して大陸を巻き添えにする。それだけは理解した。——やめて」
「やめるつもりはありません。もう始まっている」
ヴァルターが片手を上げた。
空気が震えた。詠唱が再開される——今度は、さっきよりも強い。大気中の魔力が渦を巻き、ヴァルターの掌に集束していく。
その力が、アルヴィンの首輪に向かって放たれた。
不可視の衝撃波。リーゼルの目には、黒い光の槍として映った。
首輪に直撃した。
封印が——砕けた。
第二層。第三層。第四層。第五層。
ガラスが割れるような音が、四重に重なって響いた。
残ったのは第六層——最も深い層——だけ。そしてその最後の層にも、網の目のようにひびが走っている。
アルヴィンが——叫んだ。
人間の悲鳴ではなかった。
空気を引き裂き、地面を震わせる、獣の咆哮。
声と同時に、変容が加速した。
首筋の鱗が全身に広がっていく。腕が、脚が、胴体が——黒い鱗に覆われていく。背中の服が裂けた。肩甲骨の辺りから、何かが突き出ようとしている。翼の原型。骨格が変形し、人間の形を失い始めている。
目が完全に金色になった。
瞳孔が縦に裂けている。竜の目。
「美しい」
ヴァルターが呟いた。恍惚とした声だった。初めて感情らしいものが滲んだ。
「数百年ぶりの完全覚醒だ。——さあ、目覚めなさい。お前の本当の姿を」
アルヴィンの意識が——沈んでいく。
金色の靄が視界を覆う。身体の感覚が遠のいていく。自分の身体が自分のものではなくなっていく。
頭の中に、声が響いている。
ヴァルターの声ではない。もっと古い。もっと深い。世界の底から響いてくるような、途方もなく巨大な意識の残響。
——目覚めよ。
——我が血を継ぐ者。
——人の殻を脱ぎ捨てよ。お前は竜だ。竜として生まれ、竜として在るべきものだ。
抗えない。
身体が応えようとしている。細胞の一つ一つが、竜になることを望んでいるかのように、変容を受け入れていく。
人間としての自分が、薄れていく。
名前が——思い出せなくなりかけている。
自分は誰だ。
竜だ。
違う。
竜だ。竜として——
「——アルヴィン」
声がした。
金色の靄の向こうから。
遠い。ひどく遠い。だが——知っている声だ。
世界中のどんな音に紛れても、聞き間違えない声。
低くて、少しかすれていて、感情が平坦で、でも——時々、不器用に温かくなる声。
「アルヴィン。聞こえる?」
聞こえる。
聞こえているが、応えられない。声が出ない。喉が——もう人間の形をしていない。
「聞こえてるなら、聞いて。——私がなんとかする。だから」
金色の靄の中で、冷たい指先が——熱い鱗の上に触れた。
あの手だ。
傷を塞いでくれた手。封印を解いてくれた手。毛布をかけてくれた手。
「待ってて。——絶対に、戻す」
竜の意識が、咆哮した。
人間の記憶を喰らおうとする濁流の中で——その声だけが、唯一の楔として、アルヴィンの意識を繋ぎ止めていた。
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* * *
「時間がない。
書いている余裕もない。
だが記録は残す。これが最後の記録になるかもしれないから。
始祖竜因子——強制覚醒。封印は第六層を残して壊滅。
竜化進行中。推定猶予時間:不明。数分か、数十分か。
安定化術式は未完成。手段がない。
——嘘だ。手段はある。一つだけ。
成功する保証はない。失敗したら私が死ぬ。
でも、やらなかったら——この人が死ぬ。
この人が消える。
それは——
駄目だ。それだけは。
理由はうまく言えない。でも、駄目。
行ってくる」
——リーゼル・フォン・メルツハーゲン、走り書き(インクが途中で途切れている)
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