第二章 本物(三)祝福
条件書は週明けに届いた。
PDFで四ページ。印税率、初版部数の目安、改稿稿の締切、そして「正式なご案内までは、書籍化についての公表をお控えください」の一行。読めない言葉はなくても、自分に宛てられた言葉として読むのに時間がかかった。
その夜と翌日は算段に使った。会社の忙しい時期と改稿の締切が重なる月は、仕事にまだ余裕のあるうちに有休を入れて、書く時間を先に作ることにした。月一本の短編は、改稿が終わるまで止めると決めた。
この二日は、誰にも言わずに過ごした。会社で入金と請求書を突き合わせながら、頭の隅で第一話の直し場所を数えている。昼休みに書店に行って、四六判と文庫の違いを実物で確かめて戻ってきた。夜は『鍵のない棺』の第一話を読み直した。付箋は八枚になった。
公表できない。現実になりかけている出来事を自分ひとりで持っていると、時々、全部勘違いだったんじゃないかという気がしてくる。条件書を開き直すと現実に戻る。印税は六パーセント、初版は三千部。改稿にかかる労力を考えるとまったく割に合わない。だけど自分の作品が本になる。そう思って閉じる。その往復を何度もした。
翌朝、お受けします、と返信した。早坂からの返事は一時間で来て、「では進めます。まずは第一話から第三話の改稿を、来月末を目安に」と、もう作業の話になっていた。
カレンダーの来月末の欄に「1~3話」と書き込んだ。
***
水曜の夜、ましろさんへのメッセージを書いた。
ここだけの話にしてください、と打ちかけて手が止まった。ここだけの話なんですけど、と言う人は、たいてい方々で同じことを言っている。これを送れば自分も同類みたいだ。
少し迷って、それでも送ることにした。この二年、いちばん先に読んでくれた人に、いちばん先に言わないほうが嘘だと思った。
『まだ正式な発表前で、公表できないことなので、ここだけの話にしてください。
『鍵のない棺』に、書籍化のお話が来ました。霜月書房さんです。オンラインで担当の方と話して、今週、お受けしました。来年の秋に出る予定です。
まだ半分くらい信じていません。でも誰かに言わないと、いつまでも信じられない気がします。最初に、ましろさんに言いたかったです』
送信してから、画面を伏せて風呂に入った。上がって画面を開くと、返事が来ていた。
『読んだ瞬間、声が出ました。おめでとうございます。本当に、本当におめでとうございます。
わたし、『鍵のない棺』の最終話の感想に「紙で持っていたいです」って書いたの、覚えていますか。本当に紙になるんですね。
来年の秋、書店で見つけたら、隣の知らない人に自慢しそうです。わたし、この人の最初の読者なんですよって。
改稿は大変だと思うけど、無理をしすぎないでください。短編のほうは、いくらでも待ちます。約束より、本です。
ここだけの話は、ちゃんと墓場まで持っていきます。
ああ、まだどきどきしています。おめでとう、悠希さん』
最終話の感想のことは、覚えていた。紙で持っていたい、は、あのときは読者の社交辞令だと思っていた。本人のほうが正しかったことになる。
返事を書いた。
『ありがとうございます。最初の読者は、これからもましろさんです』
そう返して画面を閉じてから、来年の秋の書店を思い浮かべた。棚の前で、ましろさんが知らない人に自慢している。細部まで浮かぶのに、ましろさんの顔だけは浮かばない。
顔を知らないことを、初めて不便だと思った。




