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【3分】規定違反なし【社会SF】



 ある未来の陸上競技。

 女子100メートル。


 スタジアムを支配していたのは、明確な『悪』に対する、数万人の正義感だった。

 カミラがスタートラインに立っただけで、地鳴りのようなブーイングが巻き起こる。


「男が混じっているぞ!」

「記録を盗むな!」

「恥を知れ!」


 カミラ───かつて男子選手として名を馳せたそのランナーは地面を蹴り、無関心を装った。


 制度の変更、ホルモン値のクリア、戸籍の書き換え。

 カミラはすべての『ルール』を遵守している。


 だが、観客にとってそれは、スポーツの神聖さを汚す『最悪のズル』でしかなかった。


 隣のレーンの選手たちは、カミラと目を合わせようともしない。

 その拒絶は、潔癖なまでのスポーツマンシップの表れなのか。


"On your marks"


 カミラは静かに腰を下ろす。

 視線の先にあるのは、100メートル先のゴールラインだけだ。


"Set"


 全選手が構えに入る。


"Bang!"


 銃声が響き、カミラが飛び出す。

 その加速は圧倒的だった。


 男子時代から受け継いだ骨格と、爆発的な筋密度がトラックを叩く。

 観客の罵声が風に消える。


 ……だが、おかしい。


 視界の端。

 並走する影がある。


 第3レーンのエヴァだ。

 彼女の反応速度は、人間が物理的に感知できる限界を超えている。


 第5レーンのナディアも侮れない。

 その足取りはあまりにも力強く、まるで高速走行できる肉食獣のような躍動感がある。


 フィニッシュライン。

 カミラは胸を突き出し、コンマ差で1位をもぎ取った。


1位:カミラ・ブルックス 9.88

2位:エヴァ・ラインハルト 9.89

3位:ナディア・コレフ 9.90

4位:ジェイド・ハミルトン 9.91


 以下、5位~7位までの選手も僅差だった。


 掲示板にタイムが出た瞬間、スタジアムは怒号に包まれた。

 『男』が女子の金メダルを奪った。

 その事実の是非は、ドーピング検査という審判によって判断される。




 競走───いや、狂騒のあとの、静かなドーピング検査室。


 カミラは、隣で採血を受けているエヴァに声をかけた。


「……素晴らしい反応だったわね。あれは、練習だけで辿り着ける域じゃない」


 エヴァは、無機質な瞳でカミラを振り返った。


「そうね。あなたの骨格が、努力だけで手に入らないのと同じことよ」


 エヴァが理由を説明すると、カミラは言葉を失った。


 なんでもエヴァの腕の血管には、最新のナノマシンが泳ぎ、疲労物質を瞬時に分解しているのだそう。

 そして彼女の脳には、スタートの銃声を常人より早く認識する神経チップが埋め込まれているとの事だった。


 それだけじゃない。

 3位のナディアは筋肉のリミッターであるミオスタチンを制御し、常人離れした筋肉で肉体を魔改造していた。

 4位のジェイドは反発係数を極限まで高めた『走る義足』に近いシューズを履き、足の外科的強化もしていた。


 彼女たちは皆、笑っていた。


「私たちは皆、ルールを守っている。あなたと同じように」


 カミラは、自分の首にかけられた金メダルを見た。

 『性転換』は、誰の目にも見える『不公平』だ。

 だから叩かれる。


 だが、その影に隠れた『遺伝子』『神経』『ナノテクノロジー』などの、目に見えない『不公平』はどうなのだろうか。


 ふと、廊下の隅に、激しく吐き気を催しながら座り込んでいる8位の選手が見えた。


 全員が10秒を切ってるなか、彼女だけが10秒台のタイム。


 彼女だけが唯一、何もしていなかった。

 彼女だけが唯一、現代のスポーツ界において”ルール違反”に近いほど、何も持っていなかった。


「……ねえ」


 カミラがエヴァに問いかける。


「どこからが『ズル』で、どこまでが『努力』なの?」

「………」


 答えは返ってこない。

 電光掲示板には、依然として『規定違反なし』という無機質な文字が躍り続けていた。

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