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【7分】性欲の泉【ほんのり】



 月末になると、若者たちは泉へ向かう。


 正式名称は『国立性欲流通センター』


 だが誰もそんな呼び方はしない。

 誰が言い出したのか、性欲の泉という名称のほうが浸透していた。


「今日、泉行く?」


 『コンビニに行く?』くらいの軽さで、若者たちはそう言った。


 白いビルの受付には整理券の発券機があり、壁の大型モニターでは今日の相場が表示されている。


{本日の性欲指数:1ml=482円(前日比 +12円)}


「上がってるじゃん」


 値上がりを見て、和喜が笑う。


「昨日売らなくて正解だったな」


 隣の太一は無言でスマホをいじっている。


「お前も売るだろ?」

「まあ、少しだけ」

「昨日より相場上がってるのに?」

「もっと上がると見てるよ、俺は」


 太一は顔も上げずに答えた。

 和喜は端末に学生証をかざし、売却量を入力する。


 本日の売却量:4ml

 推定入金額:1928円


「昼飯代とガチャ代にはなるか」

「お前、最近売りすぎじゃない?」

「どうせ寝れば回復するし」


 和喜が肩をすくめて言う。


「こんなの持ってても使い道ないだろ」

「まあな」


 太一もあっさり同意。


 売却完了。

 端末から”ぴこん”と電子音が鳴る。


 その瞬間、和喜はなんとなく胸のあたりが軽くなるのを感じた。


 嫌な感じではない。

 むしろ雑音が一つ減ったような感覚。


「やっぱこれいい制度だよな」


 和喜は言った。


「恋愛とか性欲とか、正直ノイズでしかないし」

「めっちゃわかる」


 太一は即答した。


「俺、売り始めてからかなり楽になった」

「だよな」

「SNS見ても病まなくなったし」

「わかる」

「カップル見てもいちいち腹立たないし」

「それな」


 二人は妙な連帯感を覚えた。

 性欲の売買は、もはや若者の生活インフラだった。


 学費。

 家賃。

 サブスク代。


 用途はさまざまだ。

 テレビでは毎日のように討論している。


『性欲売買は少子化を加速させるバカな政策の極みだ』

『性欲を売ってる人間は主に非モテ層なのだから、少子化との因果関係はほとんどないでしょう』

『変動相場じゃなく、固定でいいと思う』

『性欲をふるさと納税の返礼品にすると面白いかも』

『良いシステムだと思うけどなあ。需要と供給は一致してるし』


 皆、好き勝手なことを言っている。

 誰も真剣に見ていない。




 誠は同じ建物の別フロアにいた。

 五階が性欲の売却所で、七階が購入所なのだ。


 エレベーターでたまに学生と乗り合わせる。

 そのたびに少し気まずい。


 誠は整理券を握りしめながら順番を待っていた。


{本日の買戻し価格:1ml=2830円}


「高いな……」


 受付係に向かって思わず呟く。


「最近上がってますから」


 受付係が事務的に言う。


「高齢者による買い注文の増加に伴い、品質の高い『若年層の性欲』の流通量が減っておりまして」

「品質って……」

「若年層の性欲は反応速度と情動感受性が高いため人気があります」


 株式市場みたいに言うな、と思った。


 自分の財布を見て、考える。

 少し悩み、結局1mlだけ購入した。


「少量ですね」

「お試しなんで」

「初回ですか?」

「はい」


 その言葉を聞き、受付が軽い説明をする。


「そうでしたか。副作用として、ときめき、羞恥心、衝動性の一時的増加が見られる場合があります」

「なんか怖いな」

「多くの方は『若返った感じがする』と表現されます」


 それは魅力的な響きだ。

 年を取れば取るほど、若かりし頃のエネルギーが懐かしくなる。


 購入完了。

 性欲を注入してもらうと、胸の奥で熱い何かがみなぎるような気がした。


 なるほど。

 たしかにいくらか若返ったような気分になる。


 帰り道、誠はふと花屋の前で足を止めた。

 春らしい淡い色の花束が並んでいる。


(……アイツ、こういうの好きだったな)


 妻の好きな花を思い出す。

 なぜ今まで思い出さなかったんだろう?

 誠は少し戸惑いながら、小さな花束を一つ買った。




「お前、最近なんか変じゃない?」


 太一が和喜に言う。


「そうか?」


 和喜はスマホから目を離さない。

 画面には通知。


【性欲の泉 診断結果】


湧出力:D


 継続的売却による回復機能低下が見られます


「また変な広告じゃない?」

「いや、公式」

「へえ」


 太一は興味なさそうにコーヒーを飲んだ。


「まあ、売りすぎ注意ってやつだろ」

「……かな」


 和喜は少しだけ不安になった。

 だが、その不安もどこか薄かった。


 焦るべきなのに、焦れない。

 それが一番気持ち悪かった。




 数日後。

 和喜は駅前で、好みのタイプの女性とすれ違った。


 今までなら胸のざわつきがあったはずなのだが、何も感じない。

 まるで単なる景色を見ているような感覚。


 駅のベンチに座り、スマホを開く。

 推しアイドルの公式サイトに、新しいフォトショットがあった。


 だがこれも、何も感じない。

 前なら推しアイドルのフォトショットは必ず保存していたはずだ。


 今は、ただの画像にしか見えない。


(なんか変だな……そうだ。次のコンサートのチケット発売日をチェックしないと)


 そう思ったのだが、チケットを取る気になれない。


(……そもそも、推し活って、する必要ある?)


 不意にそんな疑問が顔をもたげる。

 推しへの情熱が急激に冷めていくような感覚。


(どうしちゃったんだろう俺……前は推しのコンサートが楽しみで仕方なかったのに、なんか急にどうでも良くなってきた……)


 自分に訪れた急激な変化に和喜は怖くなった。

 ちょうどスマホに通知が届く。


【警告】

『あなたの性欲の泉は不可逆的枯渇リスク領域に入りました。売却を停止してください』


「……………は?」


 心臓だけが変に速くなる。


(嘘だろ……)


 和喜は画面を何度も見返した。




 大学でそのことを太一に話す。

 だが太一は平然としていた。


「で、性欲の泉が枯れて何が困るんだ?」

「いや、だって……完全に無くなるんだぞ。怖くないか?」

「全然。俺は何一つ困ってないし、これからも困らないよ」

「将来のことなんかわからないだろ」

「わかるさ。俺は永遠に非モテだってことがな。俺なんかが性欲を持っていても、どうせ誰とも永遠にマッチングできない。だったら性欲なんて邪魔なだけだよ」


 太一は過去、女子に酷い言葉を投げつけられたことがある。

 それがトラウマになっているのだが、和喜はそのことを知らない。


「性欲が完全に無くなったとき、ようやくマトモな人生を送れそうな気がするよ」


 太一がなぜそこまで達観してるのか、和喜にはわからなかった。

 自分も非モテの部類ではあるが、太一と違い、それが永遠に続くとは思ってない。


 和喜には、太一の言葉が少し怖く感じられた。

 うまく言えないが、性欲が完全に枯渇すると自分が透明になってしまうような気がしたのだ。




 後日、和喜は五階の売却所ではなく、初めて七階へ行った。

 買戻し窓口である。


 待合室で、誠と隣り合う。

 誠は花束を抱えていた。


「七階に若い人が来るのは珍しいね」


 誠が和喜に話しかける。

 誠の言う通り、七階に若者は和喜一人だけで、異様に目立っていたのだ。


「順番待ちをしてるということは、買いに来たということ?」

「ええ、まあ」

「珍しいね。君みたいな若い人が性欲を買うなんて」


 事情を話すのも気恥ずかしく思った和喜は、話題を逸らした。


「七階は年配の方が多いですね」

「そりゃあね。皆ほしいのさ。若さが」

「性欲って、買ってまで欲しいものなんでしょうか?」


 誠は少し考えてから答えた。


「買ってまで……」


 花束を見る。


「……そうだね。陳腐な言い方だが、なくして初めて気づく価値もあるよ」

「………」


 和喜は黙った。

 なんて返せばいいのかわからなかったのだ。


 順番が呼ばれる。

 和喜は財布を握りしめた。

 買える量はほんの少しだった。




 帰り道。


 和喜は春の風を受けながら歩いた。

 買い戻したのは、0.2mlだけ。


 笑えるほど少ない。

 それでも───


 駅前で可愛らしい女性を見たとき、ほんの少しだけ胸がざわついた。


 性欲に振り回されるのは煩わしいと思っていた。

 でも今は少し───ほんの少しだけ、その煩わしさを懐かしく感じた。


 和喜の枯れかけた性欲の泉の底で、まだほんの少しだけ、水音がしていた。




 夜、リビングでテレビを眺めていた志保は、玄関の開く音で顔を上げた。


「ただいま」


 戻ってきた誠の手には、不釣り合いなほど可愛らしいピンク色の花束があった。


「あ……これ」


 差し出された花を見て、志保は一瞬だけ、かつての記憶を揺り起こされた。


 それは、この家に『性欲の泉』の話題が上らなくなるよりもずっと前、二人がまだ『男と女』として必死にぶつかり合っていた頃の記憶だ。


「どうしたの? 今日、何かのお祝いだっけ」

「いや……駅前で、綺麗だったから」


 誠の耳が少しだけ赤い。

 志保はそれを見て、すべてを察した。


(……また、七階に行ったのね)


 一ミリリットル数千円もする、他人の情熱の欠片。

 そんなものにお金を払ってまで、この人は私に花を買おうとしたのだ。


 バカバカしい。

 本当に、バカバカしいシステムだと思う。


「……高いんでしょ、それ」


 志保はわざと少し呆れたような声を出し、花束を受け取った。

 かすかに花の香りが鼻をくすぐる。


 誠はバツが悪そうに視線を泳がせていたが、志保がキッチンから花瓶を持ってくるのを見て、少しだけ安堵したような顔をした。


「……似合うよ」

「何が?」

「その花」


 誠の言葉は、どこかたどたどしい。

 借り物のエネルギー特有の、ぎこちない熱がこもっている。

 それでも、志保の胸の奥には、何年も前に枯れたと思っていたはずの小さな波紋が広がっていた。


「……ありがとう。お茶、淹れるわね」


 志保は背を向け、蛇口をひねった。

 花瓶に注がれる水の音が、静かなリビングに響く。


 この人が今日買った『情熱』は、明日には消えてしまうかもしれない。

 でも、今日こうして活けられた花は、数日間はここで咲き続ける。


 志保は、自分の顔が少しだけ綻んでいるのを、誠に悟られないようにした。

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