【5分】常識をアップデートしなくていい権利【社会SF】
最初にその商品を見たとき、私は笑った。
<価値観をアップデートしなくていい権利、販売中!>
価格は三百万円。
こんな高額な詐欺のような商品を誰が買うのか、さっぱりわからない。
広告はやけに丁寧なフォントで、まるで保険商品みたいな顔をしている。
《もう価値観のアップデートは必要ありません》
《昔の価値観のままで生きていけます》
《新しい常識も新しい言葉も、もう覚えなくていい》
《変わり続けるのに疲れたあなたへ》
こんな高額なもの絶対に売れないだろうと思っていたのだが、予想は外れ。
政府が関わっているらしいという噂とともに、この商品は一部の層から熱烈に支持され、じわじわと広まっていった。
自治体によっては補助金が出るという話まであるとか。
気づけばそれは、当たり前の制度として社会に溶け込んでいった。
説明文にはこうある。
───本契約によりあなたは今後、社会的価値観の更新を強制されません
───制度変更、倫理基準、評価軸の変化に対し従来基準での扱いを保証します
つまりこれは、時代に置いていかれない権利ではなく、置いていかれても困らない権利らしい。
職場で最初に買ったのは課長だった。
「いやあ、もう疲れたんだよ」
彼は笑っていたが、その目はどこか乾いている。
「『これが新しい常識だから昔の常識は捨てろ、アップデートしろ』って、そういう社会の空気にうんざりしてたんだ。アップデートはけっこうだがな、もう、ついていくのがしんどいんだよ」
数日後、課長のデスクには銀色のプレートが置かれた。
《更新停止適用者》
免罪符のようでもあり、標的の印のようでもある。
変化はすぐに現れた。
課長は新しい社会常識を覚えず、新しい用語も使わなくなった。
何かと古い価値観ばかり持ち出す。
それでも咎められない。
会社は課長の意思を尊重し、彼の評価は旧基準で算定された。
普通、多くの人間は古い価値観に縛られている。
それを新しい価値観に作り変えるというのは非常に面倒だ。
最初は高額な詐欺商品と思ったが、意外と快適なのかもしれない。
正直、私は課長がちょっとだけ羨ましく思った。
だが、半年もすると空気が変わった。
会議で課長が発言するたび、沈黙が流れるのだ。
課長の意見を誰も否定しない。
更新停止の権利者だからだ。
だが、否定しないだけではなく、誰も課長の意見に同調もしない。
価値観が古すぎて、今の社会では通用しないからだ。
誰も否定しないのは優しさではなく、もう“別の基準の人”として扱われているからに他ならない。
後輩が小声で言う。
「課長って会議に居る意味あるんですかね? だってあれもう“ヒト”じゃないですよね」
後輩の言い方は辛辣だったが、頷ける部分がけっこうある。
「……」
私は何も言えなかった。
それから一年。
価値観の更新停止権はヒット商品になった。
ヒットしすぎて、三百万円が五百万円に値上がりしたほどだ。
三十代、四十代、五十代と、年齢が上がるにつれ購入率が高まる傾向があった。
街にも変化が現れる。
更新停止者専用の施設。
専用の窓口。
専用のレーン。
彼らは、変わらない世界の中で暮らし始めたのだ。
私はまだ買っていない。
正直に言えば、迷っている。
その頃、母から電話が来た。
「ねえ、あんた、あれ買った?」
「いや、買ってないよ」
「そう……お母さんね、買ったのよ」
「……」
言葉が出なかった。
「もうね、疲れちゃったの。新しいことが覚えられないのよ。間違えると怒られるし、恥ずかしいし」
私は何か言おうとしたが、うまく言葉にならない。
「でもね、楽よ。何も変わらないの。昔のままでいいの。安心するわ」
その“安心”が、なぜか底のない穴のように思えた。
数日後、実家に帰る。
母はいつも通りだ。
だが、少しだけ違う。
一緒に見ていたテレビで、ある企業の問題がニュースになっていた。
上司の威圧的な言動によって部下が心を病み、訴訟沙汰になったとか。
母はそれを見て、軽く笑った。
「何を大げさに騒いでるのかしらね。会社ではよくあることじゃない」
「!?」
私は言葉を失った。
母の辞書にはパワハラという概念が無くなったらしい。
また別の日、別のニュースが流れる。
歩きタバコをしてはいけない、という内容。
母は首をかしげた。
「そんなの、いちいち気にしなくていいのよ。みんな神経質すぎるわ」
その言い方は、昔の母そのものだった。
さらに別の日。
学校で、体罰が発生したというニュース。
母はそれを見て、ため息をついた。
「その程度で泣き言をいうなんて、軟弱な子供ねえ」
母が何か感想を言うたびに、私の中で何かが少しずつずれていく気がした。
母は変わっていない。
変わっていないはずなのに、私とは確実に違う場所に立っている。
同じ言葉を話しているのに、別の惑星から来た住人みたいだった。
私が新しい社会の価値観に関わる話をすると、母は笑顔で応じる。
だが、その理解の仕方が微妙に噛み合わない。
理解しないのではない。
更新されていない前提で理解するのだ。
このことが私の心に暗い影を落とした。
帰り際、母が言う。
「ねえ、あんたも買いなさいよ。楽よ?」
私は笑ってごまかしたが、胸の奥が冷たかった。
帰りの電車の中で広告が目についた。
『あなたの価値観を守ります』
その下に小さく書かれている注意書き。
【※周囲との整合性は保証されません】
私はスマートフォンを取り出し、申し込み画面を開いてみる。
名前。
金額。
支払い方法。
指が止まる。
このまま価値観をアップデートし続ければ、母とは少しずつ話が通じなくなる。
だがアップデートを止めれば、社会とは少しずつ話が通じなくなる。
どちらを選んでも何かが切れるのだ。
「……」
無言のまま画面を閉じる。
窓の外では街が変わり続けていた。
その変化の光が、スマホの黒い画面に揺れている。
まるで、私の迷いを照らすように。




