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勇者は神になれない  作者: ふたり旅団
レックス立志編
2/52

鍛冶見習いレックス、領主に呼び出される

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「レックス、おきなさい。そろそろ仕事に行くんでしょ」


母の声が、まだ夢の中の僕をやさしく揺らす。

布団の中で体を丸め、もう少し……と目を閉じる。

でも、薪の匂いと外から差し込む朝の光が、僕を無理やり起こす。


「まだ眠いけど……動かないとね」

小さくつぶやき、肩の力を抜いて布団から体を起こす。

赤褐色の髪が顔にかかる感触に、ちょっとだけ朝の幸せを感じた。

指先で寝癖を払いながら、深呼吸。冷たい空気が肺に入る。


服に着替え、天井裏にある自分の部屋を出ると、母が小さな器を差し出す。

豆と肉の入った、温かいシチューの香りが鼻をくすぐる。

湯気に手をかざして温もりを感じながら、僕は「いただきます」と口に運んだ。

まだ半分夢の中の体に、温かい食事がじんわりと染み渡る。


食後はうがいをし、顔を洗う。

冷たい水に少し飛び跳ねる。目が覚めて、瞳が赤く光るような気がした。

鏡の中の自分を見つめる。細めの眉、少年らしい中性的な顔。

「今日も頑張らないと……僕、やれるかな」

小さな不安を呟きつつも、胸に力を入れる。


「もう出かけるのか」

祖父の声。腰をかがめて新聞を読んでいたその姿は、いつも通り。

僕の家族は、母と祖父だけ。父は死に、祖母は行方不明。

兄弟もいない。だから僕は、二人に守られながら少しずつ世界を覚えていくんだと思う。


「行ってきます」

祖父に軽く頭を下げ、笑顔を返す。

背中には竹刀袋のような、研磨したばかりの棍棒を入れた荷物。

肩にかかる重みが、いつも少しだけ背筋を伸ばさせる。


扉を開くと、外の風が顔を撫でる。

草の匂いと、土の香りが混ざり、今日一日の始まりを知らせる。

心の中で「まだ眠いけど、僕は動くよ」とつぶやき、ゆっくり歩き出す。

小さな街の音が耳に入り、木々のざわめきが体に染み込む。


僕はただ、鍛冶場での仕事をこなしながら、自分なりに強くなっていく。

大丈夫。まだ諦めてない。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



セルディアの街は、いつだって活気にあふれている。

朝日が差し込む住宅街では、軒先の洗濯物が風に揺れた。

「おはよう、レックス!」

子どもたちの声が飛んでくる。僕は小さく手を振る。

棍棒を背負い、足の筋肉を意識して路地を駆け抜ける。


石畳が足裏に伝わる感触。靴底が跳ねる音が、リズムになった。

風が髪をかすめ、朝の匂いを運んでくる。

焼きたてのパン、焙煎したコーヒー、遠くの工房の鉄の匂い。

混ざり合った香りが街の息づかいになる。


住宅街を抜ける坂道。軽く息が上がる。

「はぁ……体がまだ眠ってるな」

でも棍棒の重さが体幹を意識させ、足が自然に前に出る。

坂の上で、小さなニア・ヒューマンの少年とぶつかりそうになる。

「わっ、すみません!」

「気をつけろよ、兄ちゃん!」

短い会話も、街のリズムの一部だ。


工業地帯に入ると、煙突から黒煙が立ち、鉄を打つ音が耳を打つ。

「火花が散ってる……でも、慣れてるんだろうな」

職人が手を振る。僕も声を返す。

「おはようございます!」

走るたびに、熱と汗が体にじんわりと広がる。

腕や脚の筋肉が疲れを感じつつも、バネのように反応する。


さらに進む商業地。通りには人間、ニア・ヒューマン、ビーストマンが入り交じる。

王国語で軽く会釈する人。帝國語で格式ばったお辞儀をする人。

魔王国風の礼節を重んじる獣人もいる。

「……挨拶ひとつで文化の違いが分かるんだな」

香辛料、焼き魚、焼き肉の匂いが混ざり、頭が少しクラクラする。

小さな衝突もあった。帝國商人が魔王国風の獣人に商品を押しすぎて、軽く言い争い。

「こういうところも、この街の魅力か……」

僕は息を整え、肩の荷を軽く感じる。


港近くの倉庫街。潮の香りと木材の匂いが混ざる。

大型船が停泊し、帝國の特産品を王国に運ぶ三角貿易の準備が見える。

「重そう……僕も少し手伝ってみたいな」

声に出して独り言。誰も驚かない。ここでは誰もが働き、学び、生活している。


商人や冒険者が集う酒場の前を通る。笑い声や掛け声が耳をかすめる。

民族混合の衣装、魔力装飾、交易品のアクセサリーが光に反射する。

色と模様で出身を示す者も多い。

小さな会話が街の生活感を作る。


住宅街、工業地、商業地、倉庫街……

どの区画も、それぞれの文化と生活が色濃く反映されている。

僕は息を整え、体が熱く、汗が額から滴るのを感じる。

でも心地よい疲労だ。

「僕はまだ子どもだけど、この街で生きるって面白いんだ」

走るたびに、目に入るもの、耳に届くもの、匂うものすべてが、新しい発見になる。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



仕事場にたどり着くと、鉄の匂いと熱気が体を包んだ。

「おはようございます」

声をかけると、職人たちは軽くうなずく。

見習いは僕を含めて数名。鉄を打つことを許された者だけが炉の前に立っていた。


オルグラード先生は、今日は来ないらしい。

少し残念だ。でも、あの人はいつも忙しくて、現場に出ることは少ない。

僕は火ばさみを手に取り、鉄片を整える。

炉の熱で手のひらがじんわり温かくなる感覚が、少しずつ心地よくなってきた。


鍛冶に興味を持ったのは、祖父と一緒に先生の仕事現場を見学したのがきっかけだった。

鉄を打つ音、火花の光、金属の熱。

触ったこともないはずの鉄片が、命を持ったかのように輝いて見えた。

「すごい……」語彙力が足りず、僕はただそう呟くしかなかった。


オルグラード先生の手元は、常に正確で無駄がない。

一振りで鉄を曲げ、一打で鋭い刃筋を生む。

でも、表情には満足感がない。

「まだ、およばんか」

腕を組み、眉を少しひそめ、目を細める。

手首の動きひとつで火花を操る様子を、僕は息を止めて見つめる。

その姿に、ただ尊敬の念が湧く。


弟子入りして三年。

材料運びで鉄片を落としたこともある。

掃除中に炉に近づきすぎて火傷をしたこともある。

でも、少しずつ動作が安定し、道具の扱いもわかってきた。

小さな失敗のたびに、反省と工夫を積み重ねてきたんだと思う。


まだ鉄を打たせてもらえないけれど、僕には目標がある。

先生に認められること。

鉄を打つ手元を、ほんの一瞬でも任されること。

今日も炉の前で、鉄片を並べながら小さく息を整える。

「よし……今日も頑張ろう」


雑用をこなしつつ、僕の心は少しずつ鍛えられている。

手のひらの熱、火花の光、鉄の重み。

それらを感じながら、僕は成長しているんだと、胸の奥で実感する。

オルグラード先生が目指す「命を吹き込む武器」に、いつか自分も近づきたい。


今日もまた、レックスは任せられた仕事に集中する。

小さな手応えを積み重ねながら、いつか先生のように、鉄に命を宿せる日を夢見て。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


仕事が終わる頃、いつもどおり兄貴分のガロードが迎えに来た。

「おいレックス、腹減ってるだろ」

そう言うと、彼は僕に肉櫛を手渡す。


ガロードは、オルグラード先生を師匠に仰ぐ僕の兄弟弟子だ。

でも僕と違い、鍛冶ではなく、強くなるために先生に弟子入りした。

戦闘一筋で、肉体と本能を研ぎ澄ませる武人タイプだ。


初めて会ったとき、彼は僕を戦闘の弟弟子だと勘違いした。

まったく鍛冶しか知らない僕を、無理やり訓練場に連れていったのだ。

「筋は悪くねえな」

彼は笑いながら僕の動きを観察した。


あの日、僕は腕を振るうたびに鉄棒に手をぶつけ、転びそうになった。

でも、彼は怒るどころか楽しそうに笑っていた。

「お前、覚え早えじゃねえか」

その一言で、僕は少しだけ自信をもった。

傍若無人で、荒々しい彼にあきれつつも、自然と「兄貴」と呼ぶようになった。


銀色の髪は光を受けて逆立ち、琥珀色の瞳は鋭く輝く。

頭の上の狼耳がぴくりと動き、息遣いも荒々しい。

野生の直感で相手を見極める。

仲間や弱い者に触れられると、冷静さを失うこともある。


「よし、行くぞ」

ガロードが低く構え、指先で地面を蹴る。

瞬間、砂ぼこりが舞い、耳元を風がかすめる。

呼吸のリズムが変わり、心拍が少し早くなる。

僕も棍棒を背に、自然と戦闘態勢を取る。


「兄貴の動き、やっぱり早い……」

小さく呟きながら、目を細める。

低く構えた姿勢から、彼の足が地面を蹴る音が聞こえる。

視界の端で、砂ぼこりと動きが混ざり、彼の位置が一瞬で変わる。

体に力が入り、自然と反応が先走る。


今日も、兄貴と一緒に学び、戦う時間が始まる。

鍛冶場で培った集中力が、ここでも少しだけ役に立つ。

僕は深く息を吸い込み、心を落ち着ける。

戦いは始まったばかりだ。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



仕事が終わる頃、いつも通りガロードが迎えに来た。

「おいレックス、腹減っただろ」と言わんばかりに、手には肉櫛を握っている。

銀色の髪が光に反射し、狼の耳がぴくりと動いた。

ガロードはそれを豪快にかぶりつく。

肉汁が滴り、口角に少し飛ぶが、まったく気にせず笑う。

「うま……っ!」

その表情は、少年のように無邪気でありながら、どこか野生を感じさせる。

僕も同じものをもらい、少し照れながら齧る。温かく、香ばしい。


ガロードは僕にとって兄貴分だ。

同じオルグラードの弟子でありながら、鍛冶ではなく、強くなるために師匠に弟子入りした。

初めて会ったとき、僕を同じ武術の弟弟子と勘違いし、戦闘訓練に連れ出されたこともあった。

あの時は驚いたけれど、筋の良さを褒められ、僕もついて行くようになったんだ。

その傍若無人ぶりに、最初はあきれたけれど、いつの間にか兄貴と呼ぶようになった。


「いくぞ」

ガロードはパルクールのように街の屋根や壁を飛び越え、道を無視して一直線に駆け出す。

「しょうがないな」と、僕は追いかける。

兄貴に毎日付き合わされれば、僕もそれなりには動けるようになる。


街を駆け抜ける。

住宅街の軒先をすり抜け、商業地の看板の下をくぐる。

工業地の煙を避け、石畳の路地を弾むように跳ねる。

ガロードの動きは速く、足音も軽い。

でも、彼の後ろ姿を追いかけると、どこか安心する。

兄貴の背中は、いつも僕に挑戦と成長を与えてくれる。


向かうのは、オルグラード所有の戦闘訓練場。

先生からは「掃除をちゃんとするなら好きに使え」と言われている場所だ。

今日も、ここでガロードとの戦闘訓練が始まる。

心臓が少し高鳴る。

でも、兄貴がいれば、大丈夫だ。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



戦闘訓練場に辿り着く。


石の壁に囲まれた広い空間。

床もすべて石造りだ。

五十人くらいなら同時に組手ができそうな広さがある。


オルグラード先生の私有地にある訓練場。

弟子たちが自由に使っていい場所だ。


僕は軽く息を吐きながら、水筒の水を口に含む。

乾いた喉に冷たい水が落ちていく。


「はぁ……はぁ……」


一方のガロードは、ほとんど息が乱れていない。

さっきまで屋根を飛び越え、壁を蹴り、街を駆け抜けてきたというのに。


やっぱり違うな、と思う。


一般的に、獣人は人間より体力がある。

その上で、ガロードは日常的に鍛え続けている。


つまり――化け物みたいに体力がある。


そのガロードは、すでに柔軟を始めていた。

肩を回し、脚を伸ばし、関節を鳴らす。

狼の耳がぴくりと動く。


「ルールはいつも通り。十本勝負だ」


琥珀色の目がこちらを向く。


「了解」


僕は背中の袋を下ろす。

竹刀袋のような袋の口をほどき、中から棍棒を取り出す。


黒い棍棒。

金属みたいに硬いのに、どこかしなやかな不思議な武器だ。


ガロードは、嬉しそうに口元を歪めた。

牙が少し見える。


……ほんと、この人。


戦えるとなると、子どもみたいに楽しそうな顔をする。


その貪欲さに、僕は少し呆れる。


けれど。


「……まあ、人のこと言えないか」


僕も、騎士とか。

勇者とか。


そういう存在に、憧れていないわけじゃない。


だから戦えるのは、やっぱり嬉しい。


ルールは基本的に寸止め。

訓練だから急所はなるべく避ける。


まあ――当たることもある。


でも問題ない。


オルグラード先生が、回復薬を大量に置いてくれているからだ。


理由は簡単。


昔、ガロードが門下生を次々と半殺しにしたから。


……本当に半殺しだったらしい。


結果。


弟子は全員辞めた。


先生は武術にそれほど興味がない。

「去るなら構わん」と言ったらしい。


結果的に、残ったのはガロードだけ。


そんな中。


ガロードが見つけたのが、僕だった。


最初は勘違い。

僕を武術の弟子だと思ったらしい。


そこから三年。


僕は潰れず、ここにいる。


むしろ最近は、そこそこ戦えるようになってきた。


その事実が、ガロードは嬉しいらしい。


だから――ほぼ毎日ここに連れてこられる。


「さて」


ガロードの目つきが変わる。


獣の目だ。


「一本目、いくか」


僕は棍棒を構える。


石の床を、足裏で感じる。


息を整える。


そして。


今日もまた。


訓練という名前の試合が始まった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


初手で動いたのは、当然ガロードだった。


地面を蹴る音。

次の瞬間には、もう目の前にいる。


速い。


兄貴はいつもそうだ。

先手必勝。速攻。

それがガロードの戦い方だ。


真正面から付き合うのは愚策。


だから僕は、最初からそれを捨てている。


相手の長所に合わせない。

自分の長所で戦う。


それが僕の基本戦術だ。


振り下ろされる手刀。


僕は棍棒を振る。


――ガンッ!!


金属がぶつかるような音が、訓練場に響いた。


「いって……相変わらずだな、それは」


ガロードが顔をしかめる。


僕の棍棒は硬い。

鋼の剣でも傷一つつかない。


最初に見た時、ガロードは本気で斬りかかってきた。


「なんじゃそれ!?」


あの時の兄貴の顔は、ちょっと面白かった。



くそ硬え。


手刀がじんじんする。


俺の爪なら岩だって割れる。

だがこの棒は別だ。


壊れねえ。


だが――それがいい。


レックスは弱くねえ。

むしろ厄介だ。


戦ってて、面白え。




力を込める。


棍棒を一回転。


腰を回し、遠心力を乗せる。


「はっ!」


ドンッ!!


ガロードの体が弾き飛ばされた。


普通の相手なら、ここで終わる。


だが。


兄貴は違う。


空中で体をひねる。


猫みたいに軽い。

いや。狼だ。


くるりと一回転。


音もなく着地する。


膝を少し曲げ、重心を落とす。


その姿は、まるで狩りの直前の獣だ。


「ますますやるようになったじゃねーか」


琥珀色の目が光る。


僕の背中に、冷たい汗が流れる。


「じゃあ――」


ガロードの口元が吊り上がる。


「こっちもギア上げる。ついて来いよ」




いいぞ。


今の一撃。


重い。

速い。

読みづらい。


だが。


まだ足りねえ。


俺の速さには。


地面を蹴る。


力を込める必要はない。


ただ、本能のままに。




嫌な予感がした。


来る。


次の瞬間。


ドンッ!!


地面が爆発したみたいな音。


ガロードが消える。


いや。


低すぎて見えない。


気づいた時には――



目の前に拳があった。


「遅えんだよ」


衝撃。


視界が回る。


石の床が迫る。


ドサッ。


僕は仰向けに倒れていた。


ガロードが腕を組んで見下ろしている。


「一本」


息を吐きながら、僕は空を見た。


……やっぱり強いな。


兄貴。


こうして今日も、

僕の一本目は終わった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「さて、ここまでで俺が7本」


ガロードが肩を回しながら言う。

息はほとんど乱れていない。


僕は膝に手をつき、肩で息をしていた。


「……僕が2本」


胸が上下する。

肺が焼けるみたいに熱い。


最近の平均成績は、だいたい七対三。

兄貴が勝ち越す。


もちろん、僕が勝ち越したことはまだ一度もない。


「今日は8にしてもらうぜ」


ガロードが牙を見せて笑う。


「いや」


僕は棍棒を握り直す。


「もう一本とる」


その言葉に、ガロードの口角が少し上がった。




だから面白えんだよ。


レックスは。


普通の奴なら、ここまでやられたら崩れる。

息も上がる。

動きも鈍る。


だが、こいつは違う。


まず、体幹。


どんな体勢でも崩れない。

倒れない。


無理な姿勢からでも、平然と攻撃を返してくる。


それで何度も一本取られた。


それに――


時々、妙に勘がいい。


俺の速度は上だ。

間違いなく上だ。


だが、時々読まれる。


あの瞬間。


まるで未来でも見てるみたいに。


……やりにくい。


だが。


だからこそ。


こいつを攻略できれば、俺はもっと強くなれる。


「いくぜ」




ガロードが消える。


いや。


速すぎて見えないだけだ。


低い姿勢。

地面を蹴る。


ドンッ!!


石床が鳴る。


拳が来る。


一撃。


二撃。


三撃。


僕は棍棒で防ぐ。


ガンッ!

ガンッ!


腕に衝撃が走る。


重い。


速い。


だけど――


まだ見える。


ガロードは距離を取った。


一瞬の間。


腰を落とす。


足に力を溜める。


……来る。


次は突進。


本気の加速。


僕は棍棒を構える。


その時だった。


――また、この感じだ。


世界が、少しだけ静かになる。


音が遠い。


風がゆっくり動く。


時間が伸びる。


ガロードが動く。


右。


僕の右を抜けるつもりだ。


体が自然に動く。


棍棒を振る。


そこに――


ガロードが来る。


ドンッ!!


鈍い音。


衝撃。


ガロードの体が止まる。


「いってぇ……!」


兄貴が顔をしかめる。


数歩よろけて、頭をかく。


「くそ……今日も3本目取られたか」


悔しそうに笑う。


僕は棍棒を下ろす。


息を吐く。


足が震えている。


だけど。


少しだけ、嬉しい。


こうして今日も。


僕たちの戦績は――


七対三。


ガロードの勝ち。


それでも。


僕にとっては、大事な三本だった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「おしいな。今日は8本のつもりだったんだがな」


ガロードは水袋を傾け、豪快に水を飲み干す。

ごく、ごく、と喉が鳴る。


額の汗を腕で拭いながら、満足そうに息を吐いた。


多少の悔しさはあるようだ。

でも、それ以上に――まだ強くなるつもりだ、という意志が伝わってくる。


ガロードが強くなりたい理由。


それは、昔ぽつりと言った言葉だ。


「誰よりも強くなって、すべてを救えるようになりたい」


それだけ。


どうしてそう思うのか。

何を救いたいのか。


それは教えてくれない。


……僕も、聞こうとは思わなかった。


あの時のガロードの目。


普段の豪快な兄貴の目じゃなかった。

暗い光を宿した目だった。


だから、追及する気にはなれない。


「次は4本とるよ」


僕は石床に座り込む。

呼吸を整えながら、水を少しずつ口に含む。


胸がまだ苦しい。


4本目。


言ってみたものの。

正直、いつになるか分からない。


3本だって確実じゃない。


今日の3本だって、ほとんど偶然だ。


そう思っていると、ガロードが急に首をかしげた。


「……?」


何かを思い出そうとする顔。


そして、ぽん、と手を打つ。


「あ、そうだ」


嫌な予感がした。


「師匠から伝言あずかってたんだ」


「先生が?」


僕は思わず顔を上げる。


珍しい。


オルグラード先生が、ガロード経由で伝言?


普段なら鍛冶場の人を通す。


ガロードは腰の袋をがさごそ探り、封書を取り出した。


それを僕に差し出す。


「明日、領主館に二人で来いってよ」


「……え?」


思わず声が出た。


「領主館に、兄貴と?」


封書を受け取る。


手触りが違う。


厚い紙。


そして――蜜蝋の封。


つまり。


領主としての正式な書状だ。


僕は思わずガロードを見る。


兄貴と一緒。


しかも領主館。


何の用事だ。


まったく見当がつかない。


「ま、行けばわかるだろ」


ガロードはあっさり言った。


「兄貴」


僕はじっと見る。


「こういうのは訓練の前に渡すものだよ」


「なんでだ?」


「先生からの重要なものじゃないか!」


思わず声が大きくなる。


するとガロードは肩をすくめた。


ガロードはけらけら笑った。


「しょーがねーだろ」


悪びれもせず言う。


「俺にはレックスとの今日の立ち合いの方が重要だ。用事は明日だしな」


……この人は。


本当に。


自分の師匠の伝言より訓練を優先したのか。


呆れる。


いや。


ちょっとだけ怒りもある。


もし明日の用事が大事だったら。


先生に密告してやる。


絶対に。


ガロードは続ける。


「あと、鍛冶場には休むって伝えてから来いってさ」


「それで?」


「その後、なるべく早く領主館に来いってよ」


僕は少し考える。


先生の言う。


「なるべく早く」


それはつまり――


素早く来い。


ぐずぐずするな。


という意味だ。


遅れたら。


……考えたくない。


「じゃあ」


僕は立ち上がる。


「明日はいつも以上に早起きだ」


「おう」


ガロードも立ち上がる。


そして自然に、二人で訓練場の掃除を始める。


石床を磨く。

散った砂を集める。


いつもの日常。


でも――


胸の奥に、妙なざわつきがあった。


明日。


領主館。


オルグラード先生が、僕たちを呼んだ理由。


それが。


僕たちの日常を変えることになるなんて。


この時の僕は、まだ知らなかった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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