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姫巫女と侍女、王都脱出

地下大聖堂の大礼拝堂は、重厚な石壁に囲まれ、静寂の中で空気が震えていた。

今日と明日が交わる境界の時間。世界が微かに揺れるような感覚があった。


中央には、幾何学模様が幾層にも重なる立体魔法陣。

その縁を白ずくめの神官たちが取り囲む。

尖った目出し頭巾で顔を隠し、跪きながら息を潜めて儀式を見守る。


その中心――姫巫女ノエリアが浮かんでいた。

蒼色の髪が静かに揺れ、緑色の瞳は遥か遠くを見つめる。

黒いハイネックチュニックにダークパープルの縁取り。

下には黒いパンツ。赤いロングマントがふわりと広がる。

小さく華奢な姿だが、場を支配する神秘的な存在感を放っていた。


ノエリアを中心に光が芽生える。

最初は淡い緑色の小さな粒子が、星のように瞬く。

次第に粒子は増え、青や紫、金色の光が渦巻きながらノエリアを取り囲む。

光はまるで小さな流星群のように、彼女の体を滑らかに回転しながら昇っていく。


魔法陣も応える。

線や模様が白金色に輝き、立体的な輪郭が宙に浮かぶ。

光は波打つように広がり、石壁に反射して虹色の影を生む。

空気が光の層に染まり、足元から天井まで光の柱が伸びていくようだった。


約五十年ぶりの儀式――星胎降臨の秘祀。

勇者へ星の光から生まれる鋼を与える、神聖な祈り。


ノエリアの口が静かに開く。

人には理解できぬ言葉で歌を紡ぎ、言葉は光の波紋となる。

淡い虹色の光が天井を突き抜け、床の魔法陣と共鳴し、振動する。

光はゆっくりと拡散し、神官たちの顔に柔らかく反射した。


神官たちは微かに息をのむ。

手が震える者もいる。歓喜と恐怖が混ざった小さな震え。

目配せする者もいる。長年の悲願がついに叶う瞬間。


ノエリアのオーラはさらに輝きを増す。

光の渦は小さな星座のように形を変え、空間を優雅に漂う。

魔法陣から立ち上る光柱が、彼女を包み込む。

この世界に、神の星を降ろす瞬間が、静かに、しかし確実に近づいていた。



◇◇◇ ◇◇◇


光はノエリアの手の中に、ひらひらと舞う青白い粒子となって流れ込んでいった。

手は水をすくうように形を作り、まるで小さな渦の中で光が渦巻くように集まる。

流れ星のように細く輝き、淡い虹色の軌跡を描きながら、両手で包み込まれていく。


緑の瞳の端に、一筋の涙が光る。

それはぽろりとこぼれ、手のひらの輝きの中に溶け込んだ。

光はその涙を吸い込み、さらに柔らかく、温かな色を帯びて輝く。


その瞬間、ノエリアを中心に巨大な鼓動が響いた。

空間を震わせる振動に、神官たちは思わず息を止める。

肩を小さく震わせる者、手を握り締め膝をつく者。

互いに目配せをしながらも、誰も声を出せずにいる。


光はさらに渦を大きくし、手のひらから淡い紫や金色の光が滲み出す。

空気が振動し、鼓動と光が一体となる瞬間。

礼拝堂の石壁に反響するその波動は、誰もが背筋を凍らせるほどの迫力だった。


「……これが、星の力……なのですか……」

小さく、誰かの息が漏れた。だが、神官たちは再び黙り込む。

何かが、確かにこの世界に生まれようとしていた。

光と祈り、そして命の鼓動が絡み合い、まだ見ぬ未来を形作ろうとしている。


ノエリアが、そっと目を閉じた。


蒼い髪が、ゆっくりと宙で揺れる。

祈りを包み込むように、赤いマントが静かに広がっていた。


そして。


彼女は、再び歌い始める。


最初は、かすかな声だった。

祈りのように小さく。

誰かに語りかけるように柔らかい。


だが、その歌は次第に強くなる。


声は、礼拝堂の石壁に触れる。

そして跳ね返る。


反響は、重なり。

重なり。


やがて空間を満たし始めた。


神官たちは息を呑む。


歌っているのは、ノエリアただ一人のはずだった。


だが――


耳に届く声は、一つではない。


二人。

三人。


十人。


いや。


数十。

数百。


まるで、無数の人々が同時に歌っているかのようだった。


古代の合唱。

遠い過去の祈り。

忘れ去られた魂たちの声。


それらすべてが、ノエリアの歌に重なっていく。


礼拝堂の空気が震えた。


次の瞬間。


ノエリアの頭上に――


星空が広がった。


石造りの天井は、そこにはない。

代わりに広がるのは、深い夜の宇宙。


無数の星々が瞬き、静かに回転している。


神官の一人が、思わず震える声を漏らした。


誰も答えない。


誰もが目を奪われていた。


その時だった。


ノエリアの唇が大きく開く。


そして――


人の声とは思えぬ絶叫が、礼拝堂を貫いた。


それは歌ではない。


誕生を告げる叫び。


星の産声。


星空が揺れる。


次の瞬間。


夜の宇宙の奥から、一つの光が走った。


それは、流星。


だが。


ただの流星ではない。


炎をまとった星だった。


赤く燃えながら、天から堕ちてくる。


礼拝堂の中央へ。


まっすぐに。


神官たちは思わず身を引く。


だが星は地面には衝突しない。


ノエリアの前で――


ぴたりと停止した。


人間の赤子ほどの大きさ。


炎の星は、ゆっくりと自転している。


青い火。

金色の火。

白い輝き。


星は、呼吸するように明滅していた。


そして。


ノエリアは、静かにそれを見つめていた。


彼女の緑の瞳の先で。


星は、確かに存在している。


沈黙が礼拝堂を満たす。


誰も声を出さない。


出せない。


そして。


神官の一人が、震える声で呟いた。


「……降臨……した……」


星が降りた。


神の星が。


勇者に与えられる鋼の源が。


この世界に。


生まれた。


その瞬間。


すべての神官たちの身体が震えた。


恐怖ではない。


歓喜だった。


長い年月。

何十年という祈り。


そのすべてが、今――


報われたのだ。



◇◇◇ ◇◇◇



星が降りた。


その奇跡を見届けた直後だった。


宙に浮かんでいたノエリアの身体が、ゆっくりと下降する。

蒼い髪がふわりと広がり、赤いマントが力なく揺れた。


足先が床に触れる。


その瞬間。


彼女の体から力が抜けた。


ノエリアは、そのまま前へ倒れ込む。

石床にうつ伏せになり、小さく息を吐いた。


蒼い髪は乱れ、顔にかかる。

華奢な肩が激しく上下していた。


呼吸は荒い。


体は小刻みに震えている。

祈りの代償なのか、全身が痙攣していた。


「……はぁ……っ……」


かすかな息。


しかし。


その異変に、すぐ駆け寄る者はいなかった。


神官たちの視線は――

すべて、あの星へ向けられていたからだ。


礼拝堂の中央。


炎の星は静かに浮いている。

青と金の光をゆっくりと明滅させながら。


それは、神から授かった鋼。

勇者に与えられる奇跡の核。


神官たちの瞳は、狂気にも似た熱を帯びていた。


「成功した……」


「ついに……ついに……」


歓喜に震える声。


誰もが星を見つめていた。


その時だった。


カラン。


乾いた音が、礼拝堂に響く。


カラン、カラン。


金属が石床を転がる音。


神官たちは顔を上げた。


「……何の音だ?」


「誰だ」


「儀式の最中ではないのだぞ」


一人の神官が眉をひそめる。


「神官兵士。調べろ」


数名の兵士が動こうとした、その瞬間だった。


光が走った。


次の瞬間。


礼拝堂の天井に、一本の巨大な亀裂が走る。


バキィィン――


石が砕ける。


巨大な天井が崩れた。


轟音。


無数の破片が雨のように降り注ぐ。


「なっ……!?」


「崩れるぞ!!」


神官たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。


石柱の陰に隠れる者。

床に伏せる者。


その混乱の中でも、叫ぶ者がいた。


「星を守れ!!」


「神鉄を!!」


その声は、必死だった。


だが――


その時。


そこに、立っていた。


いつからいたのか。


誰も見ていない。


礼拝堂の崩れた天井から差し込む月光の中に。


黒い影が立っていた。


長いロングコート。

色は黒からダークグレー。


膝下まで届く重厚な布。

内側には赤い裏地が覗き、金色の装飾線が静かに光る。


その上から、さらに長いマントを纏っていた。


重い布。

裏地は深い赤。


足元は黒革のロングブーツ。


そして――


顔。


それは人間の顔ではない。


闇色の鉄仮面。


頭部すべてを覆う、冷たい鉄の面。


表情はない。


視線すら分からない。


ただ、そこに立っていた。


侵入者。


鉄仮面。


「……見つけた」


小さな声。


しかしその言葉を聞き取った者はいない。


その瞬間。


巨大な石の破片が、鉄仮面めがけて落ちる。


だが。


鉄仮面は動かない。


ゆっくりと長剣を抜いた。


銀色の細身の刀身。

鍔は大きな円形に近い装飾。


柄は長く、両手持ちができる造り。

金の装飾が走る優美な剣。


次の瞬間。


一閃。


巨大な岩塊が、粉々に砕け散った。


鉄仮面は周囲を一瞥する。


安全を確認すると、静かに剣を鞘へ戻した。


そして歩く。


迷いなく。


礼拝堂の中央へ。


倒れているノエリアの元へ。


鉄仮面は彼女の傍らに跪く。


そして。


左腕で、そっと抱き上げた。


まるで壊れ物を扱うように。


「……だれ……」


ノエリアの瞳が、わずかに開く。


焦点は合っていない。


だが。


彼女は、かすかに呟いた。


「……アウラ……?」


鉄仮面は何も答えない。


ノエリアの意識は、そこで静かに落ちた。


完全に眠る。


鉄仮面は、右手を上げた。


握られているのは銃だった。


拳銃と遺物の中間のような形状。

全長は四十センチほど。


黒曜石のような黒い本体。

銀色の線が、神経のように走っている。


完全な機械ではない。


どこか、生き物のような武器だった。


鉄仮面が握ると。


銃身の中を、淡い黄金の光が流れる。


起動。


銃口の前に――


瞬間的に魔法陣が展開された。


幾何学模様の小さな陣。


光が収束する。


一拍。


そして。


トリガーが引かれた。


次の瞬間。


礼拝堂の内部を、凄まじい閃光が支配した。


誰も目を開けていられない。


白い光。


すべてを塗り潰す光。


数秒後。


光が消える。


神官たちは恐る恐る顔を上げた。


星はそこにある。


無事だった。


だが。


「……姫巫女は?」


沈黙。


誰も答えない。


礼拝堂の中央。


そこにいたはずの少女の姿は。


もう――


どこにもなかった。



◇◇◇ ◇◇◇



礼拝堂の外へ飛び出した瞬間。

鉄仮面のマントが夜風をはらんだ。


地下から続く石の回廊は、すでに騒然としている。

礼拝殿の異変に気づいた王国兵たちが、四方から駆けつけてきていた。


松明の光が揺れる。

甲冑の金属音が重なる。


そして彼らは、その姿を見た。


黒いコート。

闇色の鉄仮面。


その腕に抱えられているのは――


蒼い髪の少女。


姫巫女ノエリアだった。


「止まれ!!」


最初に気づいた兵士が叫ぶ。

次の瞬間、十数本の剣が一斉に抜かれた。


「姫巫女様を離せ!」


「包囲しろ!」


兵士たちは半円を描くように広がり、鉄仮面を囲む。


だが。


鉄仮面は彼らを見ていなかった。


視線は前方。

出口へ続く階段へ向けられている。


まるで、そこに兵士など存在しないかのようだった。


そして――


次の瞬間。


姿が消えた。


「なっ――!?」


誰かが声を上げたときには遅かった。


黒い影が兵士たちの間をすり抜ける。


一瞬。

本当に一瞬だった。


キィン。


細い金属音が連続する。


兵士たちの剣が、同時に折れた。


刀身の中央から、まるで紙のように断ち切られていた。


「……え?」


兵士の一人が呆然と呟く。


誰も斬撃を見ていない。


抜刀すら見えなかった。


ただ結果だけが残る。


現実とは思えない剣技だった。


兵士たちの動きが止まる。


その隙を、鉄仮面は見逃さない。


黒い影が石階段へ飛び込む。


上層へ続く長い階段。


鉄仮面は駆け上がる。


腕の中にはノエリア。


だが、その重さを感じさせない速度だった。


赤いマントが揺れる。


蒼い髪が夜気に流れる。


ノエリアは完全に意識を失っている。


「追え!!」


遅れて兵士たちが叫ぶ。


数名が階段を駆け上がる。


だが――


鉄仮面が振り返った。


右手に握られているのは、あの魔導銃。


黒曜石のような黒い銃身。

銀色の線が生き物の神経のように走っている。


銃を握った瞬間。


内部を淡い黄金の光が流れた。


起動。


銃口の前に、小さな魔法陣が展開される。


だが放たれたのは雷でも光槍でもなかった。


低く、鈍い衝撃。


次の瞬間。


階段の石が――沈んだ。


「……!?」


兵士たちが目を見開く。


見えない力が、階段を押し潰していた。


重力。


石の階段が、自分自身の重さに耐えきれなくなったように崩れ始める。


ミシミシと石が軋む。


そして。


ドォン!!


轟音と共に、階段の中央が崩落した。


巨大な穴が開く。


石の破片が地下へと落ちていく。


兵士たちは思わず足を止めた。


「跳び越えられない……!」


二十メートル近い空洞。


追撃は不可能だった。


だが。


鉄仮面は振り返らない。


確認すらしない。


ただ静かに階段を上り続ける。


腕の中の少女を抱えたまま。


黒い影は、やがて夜の闇の中へ消えていった。



◇◇◇ ◇◇◇



大聖堂の内部では、まだ混乱が続いていた。


崩れた石柱。

倒れた燭台。

砕かれた扉。


鉄仮面はあえてそれらを壊しながら進んでいた。

追跡を遅らせるためだ。


そして。


大聖堂の巨大な扉を抜ける。


夜の空気が流れ込んできた。


まだ空には月。

雲の切れ間から淡い光が落ちている。


鉄仮面は屋根へと跳躍した。


重いマントが夜風に翻る。


石造りの尖塔。

急勾配の屋根。


その上を、影が滑るように走る。


鉄仮面は一瞬だけ足を止めた。


視線を遠くへ向ける。


王都の城壁。


そこまで行けば、予定通りだ。

追手は振り切れる。


計画通り。


何も問題はない。


その腕の中にいる少女を確認する。


姫巫女ノエリア。


蒼い髪が夜風に揺れている。


呼吸は小さく、規則正しい。


礼拝堂で見せていた激しい痙攣は消えていた。


顔色も、少し落ち着いている。


鉄仮面はそれを確認すると、再び走り出そうとした。


その瞬間。


背筋に、鋭い感覚が走る。


殺気。


鉄仮面は考えるより早く跳んだ。


屋根瓦を蹴り、横へ飛ぶ。


次の瞬間。


ドンッ!!


重い金属音が夜に響いた。


鉄仮面が立っていた場所。


そこに突き刺さっているのは――


巨大な鉄球だった。


直径は拳より大きい。


重量は五キロはあるだろう。


鉄球は鎖に繋がれていた。


その鎖が、屋根の向こう側へと伸びている。


そして。


ゆっくりと引き戻された。


鎖が軋む。


屋根の影から、一人の女が姿を現した。


明らかに、この場には不釣り合いな格好。


クラシックなメイド服。


白いエプロン。

整ったスカート。


だが、その布の下には硬質な装甲が隠されている。


長身だった。


百七十五センチほどの均整の取れた体。

モデルのような立ち姿。


艶のある黒髪。

顎のラインで揃えられたボブ。


黒い瞳が、静かに細められる。


その手には武器。


鎖付き鉄球のフレイル。


しかも、両手に一本ずつ。


だが。


本当に恐ろしいのは武器ではない。


彼女が纏う空気だった。


怒気。


それは目に見えるほど濃密だった。


夜の空気が歪む。


冷たい月光の下で、彼女の視線だけが燃えている。


姫巫女を奪われた。


その事実だけが、彼女の感情を満たしていた。


だが表情は崩れない。


侍女として鍛えられた礼節が、それを許さない。


静かに。


丁寧に。


だが確実に怒っている。


「……姫巫女様をお離しいただけますか」


低い声だった。


丁寧な敬語。


だが、そこに交渉の余地はない。


女――アウラは一歩前に出る。


屋根瓦が小さく鳴った。


二本のフレイルが静かに揺れる。


「それとも」


わずかに声が低くなる。


「力づくのほうが、よろしいでしょうか」


メイド服の追跡者。


アウラは鉄仮面の前に立ち塞がった。


逃げ道は、ない。


その立ち振る舞い。


そして、彼女の纏う空気。


鉄仮面はゆっくりとノエリアを抱え直した。


そして。


右手を下ろす。


指が剣の柄に触れる。


静かな夜。


屋根の上。


次の瞬間、戦いが始まろうとしていた。



◇◇◇ ◇◇◇


屋根の上に、静寂が落ちた。


月明かり。

夜風。


その中央で、二人が対峙している。


黒い鉄仮面。

腕には姫巫女ノエリア。


その前に立つ女。

侍女兼護衛――アウラ。


彼女の黒い瞳は、揺れていない。


だが、怒気は隠せない。


「姫巫女様を返していただきます」


静かな声だった。


礼節は崩れていない。

だがその奥には、燃えるような殺気がある。


アウラは一歩踏み出す。


鎖が鳴る。


両手に握られたフレイル。

鉄球が重く揺れた。


次の瞬間。


風が裂けた。


ブンッ――!


鉄球が唸りを上げて飛ぶ。


空気を引き裂く速度。

直撃すれば骨など残らない。


だが。


鉄仮面は動かなかった。


わずかに身体を傾ける。


それだけ。


鉄球は、髪一筋の距離を掠めて通り過ぎた。


屋根瓦が砕け散る。


アウラの瞳がわずかに細くなる。


(速い……)


違う。


速すぎる。


彼女は次の鎖を放つ。


二本目のフレイル。


横薙ぎ。


鎖が蛇のように軌道を変え、逃げ道を塞ぐ。


だが――


鉄仮面は踏み込んだ。


自ら鎖の内側へ。


「……!」


アウラの目がわずかに見開く。


危険な距離。


だが、鉄仮面の動きはさらに速い。


抜刀。


銀の閃きが一瞬だけ走った。


キィン。


金属音。


次の瞬間。


アウラのフレイルの鎖が弾かれていた。


完全に軌道を逸らされる。


信じられない剣速だった。


アウラはすぐに距離を取る。


屋根の上を滑るように後退。


鎖を引き戻す。


鉄球が再び手元に戻る。


だが。


追撃は来ない。


鉄仮面はその場に立ったままだった。


腕の中にはノエリア。


それでも。


戦闘姿勢は崩れていない。


むしろ。


余裕がある。


(片腕で……戦っている……?)


アウラの思考が冷える。


あり得ない。


フレイルは重武器だ。


しかも二刀流。


それを。


片手で。


防がれた。


しかも――


こちらの攻撃を読んでいる。


アウラの額に、初めて汗が浮いた。


だが。


退くわけにはいかない。


姫巫女は、この腕の中にいる。


アウラは鎖を巻き取りながら低く呟く。


「……あなた」


その声は冷静だった。


「何者ですか」


返事はない。


鉄仮面は沈黙のまま。


顔を覆う闇色の鉄仮面。


その奥の表情は見えない。


体格も分からない。


長いコート。


重いマント。


声も発さない。


男か女かすら分からない。


ただ。


そこに立っている。


沈黙が答えだった。


アウラは小さく息を吐く。


そして。


再び構えた。


「……そうですか」


鎖が鳴る。


鉄球が回り始める。


先ほどより速く。


重く。


殺意を込めて。


「ならば」


声が低くなる。


「力で聞き出すしかありませんね」


次の瞬間。


アウラが屋根を蹴った。


戦闘は、まだ終わらない。



◇◇◇ ◇◇◇



夜の屋根の上。

月光が瓦を淡く照らしている。


対峙する二人の距離が、ゆっくりと開いた。


鉄仮面は一歩下がる。

そして――


腕の中のノエリアを、静かに屋根の上へ降ろした。


蒼い髪が瓦の上に広がる。

彼女はまだ意識を失ったままだ。


だが呼吸は穏やかだった。


鉄仮面は一瞬だけ視線を落とし、位置を確認する。

その動きは丁寧だった。


そして、立ち上がる。


今までとは違う空気が流れた。


それは明らかだった。


――本気。


先ほどまでの戦いは、片手のまま。

姫巫女を抱えた状態だった。


だが今は違う。


両手が自由になっている。


そのわずかな変化が、屋根の上の空気を張り詰めさせた。



◆◆ アウラ視点 ◆◆


――ノエリア様を解放した。


だが。


それは降参ではない。


むしろ逆だ。


これから本気で戦うという意思表示。


アウラはそれを瞬時に理解した。


自然と体が強張る。

フレイルを握る手の中に汗が滲む。


今、下手に攻撃すれば。


鉄仮面は間違いなく――


ノエリアを巻き込む。


距離は近い。

屋根は狭い。


この状況で大振りの武器を使うのは危険だ。


アウラは歯を食いしばる。


――何たる重圧。


護衛兵士などでは、到底相手にならない。


あの動き。


姫巫女を抱えたまま、あれほどの速度と剣技。


そして今。


その枷を外した。


両手が自由。


つまり。


本当の実力は、まだ見えていない。


アウラは深く息を吸う。


それでも退くわけにはいかない。


「姫巫女様は……お渡ししません」


フレイルが回る。


鎖が鳴る。


アウラは一歩踏み込んだ。


その瞬間だった。


ドン。


鈍い衝撃音。


視界が揺れる。


鉄仮面の姿が――


消えていた。


次の瞬間。


視界の端に黒い影。


回し蹴り。


それを理解した時には遅い。


強烈な衝撃が側頭部を打ち抜いた。


「姫……様……」


言葉が最後まで出ない。


世界が暗転する。


意識が、闇へ沈んだ。


◆◆◆◆◆◆◆



アウラの体が崩れ落ちる。


鉄仮面はすぐに動いた。


片腕でその体を受け止める。


そして静かに屋根の上へ横たえた。


乱暴さはない。


ただ確実に、戦闘不能にした。


予想外の妨害者。


それは排除された。


鉄仮面はすぐに背を向ける。


ノエリアの元へ戻るためだ。


屋根の上を数歩歩いた、その時。


背後で音がした。


瓦が軋む。


鉄仮面が振り返る。


そこに立っていた。


先ほど完全に気絶したはずの女。


アウラ。


彼女はゆっくりと立ち上がっていた。


だが。


先ほどまでとは違う。


空気が変わっている。


アウラの周囲の気配。


それは冷たい。


暗い。


そして、重い。


黒い瞳が鉄仮面を見つめる。


感情が消えている。


そこにあるのは、ただ戦意だけ。


護衛メイド。


その姿が、別の何かへ変わっていく。


アウラの唇が動いた。


声は出ていない。


だが。


鉄仮面には読めた。


――戦闘開始。


次の瞬間。


銀の閃きが走る。


剣が抜かれる。


同時に。


フレイルが唸った。


ガキィィン!!


屋根の上に、金属音が響き渡った。



◇◇◇ ◇◇◇



◆◆◆◆ ノエリア視点 ◆◆◆◆◆


――ここは、どこ……?


まぶたが重い。

ゆっくりと目を開く。


空気が冷たい。

肌を撫でる風が、礼拝堂のものではない。


どうやら外らしい。


ぼんやりとした意識のまま、ノエリアは小さく息を吸った。


確か――


礼拝堂にいた。


星を呼ぶ儀式。

神官たち。

歌。


そこまでは覚えている。


(儀式は……)


思い出そうとする。


胸の奥に、微かな温もりが残っていた。


(……最後まで、歌えた)


その感覚がある。


だからだろうか。

体がひどく重い。


指先すら思うように動かない。


それでも、ゆっくりと視界が定まってくる。


瓦屋根。


月。


そして――


二つの人影。


「……アウラ?」


見慣れた背中だった。


背筋をまっすぐに伸ばした立ち姿。

黒髪のボブ。


クラシックなメイド服。


ノエリアの侍女。

そして護衛。


王宮の人たちが、ノエリアのために選んだ人。


普段は身の回りの世話をしてくれる。


髪の手入れ。

服装の整え方。


礼儀作法。


王都のこと。

国のこと。


色々なことを教えてくれる、頼れる人だ。


そのアウラが、今は屋根の上に立っている。


ノエリアから見て、背を向けた形で。


そして。


その前に、もう一人。


「……あとは、誰?」


知らない人だった。


というより。


そんな人は、今まで見たことがない。


全身を覆う黒い装束。

長いコート。


そして顔には――


重そうで、格好よくない鉄の仮面。


ノエリアは小さく首を傾げる。


(変な人……)


だが。


不思議だった。


怖いと思わない。


普通なら、怖いはずだ。


こんな夜中に。


知らない仮面の人。


それなのに。


胸の奥が、静かだった。


その時。


月光が、剣の刃に反射した。


鉄仮面の人が持つ剣。


その刃に――


見たことのない模様が浮かんでいる。


淡く光っている。


生き物のように、ゆっくりと流れる紋様。


(きれい……)


ノエリアはぼんやりとそれを見つめた。


アウラと鉄仮面の人は、何か話しているようだった。


だが。


距離がある。


声は聞こえない。


二人は戦っているようには見えない。


むしろ。


静かに向き合っている。


アウラの肩が、わずかに動いた。


そして。


小さく頷いた。


ノエリアは少し驚く。


(アウラが……?)


アウラは礼儀正しい人だ。


だが。


簡単に誰かに頭を下げる人ではない。


まして。


正体のわからない相手に。


二人の会話は、そこで終わったらしい。


鉄仮面の人が動く。


静かに。


ゆっくりと。


剣を鞘に収めた。


金属の小さな音が、夜に溶ける。


そして。


鉄仮面の人はこちらに歩いてきた。


瓦の上を、静かな足取りで。


ノエリアの前で止まる。


そして。


ゆっくりと――


片膝をついた。


ノエリアの視界に、鉄仮面が近づく。


その瞬間。


ふっと。


意識が遠くなる。


体の力が抜けていく。


(……眠い)


月が揺れる。


空が、ぼやける。


最後に見えたのは。


鉄仮面の奥にある、見えない誰かの視線だった。


そして。


ノエリアの意識は、再び闇に沈んだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆



◇◇◇ ◇◇◇



◆◆◆◆ ノエリア視点 ◆◆◆◆◆


また、目を覚ますことができた。


まぶたを開くと、すぐ近くに顔があった。


自分を心配そうに覗き込む、黒髪の女性。


「……アウラ?」


見慣れた顔だ。


少し安心する。


「おはよう、アウラ」


まだ空は暗い。

月も出ている。


だから本当は朝ではないのだろう。


それでも挨拶は大事だ。


そう教えてくれたのも、アウラだ。


そのアウラは、ノエリアの言葉を聞くと――


堰を切ったように話し始めた。


「痛いところはありませんか」


「体に怪我はありませんか」


「手は動かせますか」


「足は動かせますか」


「お腹は痛くありませんか」


「頭は痛くありませんか」


「めまいはありませんか」


質問が次々に飛んでくる。


ノエリアは少し目をぱちぱちさせた。


そして。


アウラは突然、指を三本立てる。


「これは何本ですか」


「……三」


そう答えると。


アウラの表情が崩れた。


ぽろり、と涙がこぼれる。


そして次の瞬間。


ぎゅっと抱きしめられた。


「……よかった」


小さな声だった。


ノエリアの頬に、アウラの髪が触れる。


知っている香り。


アウラの香りだ。


そして。


とても暖かい。


ノエリアは少し考えてから、口を開いた。


「アウラ」


「はい」


「……あの鉄仮面の人は?」


するとアウラの顔が、すっと真面目になる。


「ノエリア様を拉致しようとした悪漢です」


即答だった。


「諦めたのか、姫様を置いて逃げたようです」


アウラは拳をぎゅっと握る。


「次に来たら、必ず抹殺します」


静かな声だった。


だが怒りがこもっている。


ノエリアは少し首を傾げた。


「アウラは、その鉄仮面さんと何を話していたのですか?」


「……?」


アウラが不思議そうな顔をする。


「ノエリア様。まだ記憶が混乱されていらっしゃいますか」


そう言って、ノエリアの額に手を当てた。


ひんやりしている。


気持ちいい。


「違うのですか?」


ノエリアは小さく聞く。


「はい」


アウラは落ち着いた声で言った。


「私が振り向いた時には、悪漢はノエリア様に近づこうとしていました」


「私はすぐに攻撃しました」


「すると、そのまま逃走しました」


きっぱりとした説明。


アウラの顔は、とても真面目だった。


ノエリアは少しだけ考える。


(あれ……?)


自分の記憶では。


鉄仮面の人とアウラは、向かい合っていた。


何か話していたような気もする。


アウラが頷いていた気もする。


(……あれ?)


少しだけ、頭の中が混乱する。


だが。


その混乱は、長く続かなかった。


ノエリアは、ぽん、と手を叩いた。


「そうでしたか」


にこっと笑う。


「きっと夢ですね」


アウラは一瞬だけ目を丸くした。


だがすぐに咳払いをする。


「……おそらく」


ノエリアは深く納得した。


夢なら、変なことがあってもおかしくない。


重そうな鉄の仮面の人とか。


光る剣とか。


それに。


アウラが嘘をつくはずがない。


ノエリアはそう思った。


するとアウラが、真剣な顔で言う。


「それよりノエリア様」


「王都は危険です」


声が低くなる。


「今回のような悪漢の侵入を防げない弱兵では、ノエリア様を守りきれません」


「再び危険に晒される可能性があります」


アウラは静かに続けた。


「私と共に、一時的に王都を脱出されることを提案します」


ノエリアはゆっくりと立ち上がる。


夜風が髪を揺らした。


そして。


空を見上げる。


月の周りに、星が瞬いていた。


その瞬間。


胸の奥に、微かな感覚が走る。


未来の欠片。


姫巫女の予知。


ノエリアは静かに言った。


「はい」


振り返る。


「今、予知しました」


真っ直ぐにアウラを見る。


「私は、行かなければなりません」


その声は、はっきりしていた。


姫巫女ノエリア。


そして侍女アウラ。


この夜。


二人の運命は、大きく動き出した。


王都を離れ。


まだ誰も知らない未来へ。


――それは、やがて世界を揺るがす旅の始まりとなる。


第一話 完


◇◇◇ ◇◇◇


2026/03/12 全面書き直しを実施

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