13.幼いころ
森の中を歩いていると、奥に狩猟小屋があった。
アメリア様はもう歩ける様子ではなかった。小屋を見てほっとしたようにその場に座り込んだ。
小屋の前に手ごろな石を置いて、ハリーと私で簡単な囲いを作って火を起こした。暗くなってから火を起こしていたら何も見えなくなってしまう。何が起こるかわからないから一応ね、そう言ってハリーが持っていた火打石を上着の内ポケットから出した。王太子の癖に用意がいいな。そんな風に思った。火をつけるのも上手くて、王太子って何でもできるんだなあと感心してしまった。
「ナスカ――」
起こした火を中心にして三人で座っていた。そろそろ夕方に差し掛かってきて、木漏れ日の色が濃くなってゆく。空を見上げるとぽっかりと空いた穴の上に金色が広がっていた。
私に呼び掛けるアメリア様の声は、消え入りそうなほど小さかった。
「殿下を襲ったのは――お父様の差し金なのかしら……」
アメリア様が不安そうにぽつりと呟いた。アメリア様が本当に問いかけたいのは、ハリーにだ。
「アメリア嬢」
ハリーはアメリア様の思いを察して、優しく語り掛けるようにその名を呼んだ。
「あなたに非はない――そう言っただろう? 僕らは賭けに出たんだ」
ハリーの顔が色の濃くなった木漏れ日に照らされていた。
「賭け、ですか?」
「そう。僕は王太子だ。それは母上がおっしゃっていたように譲れない。だけどね、それをよしとしない人たちが少なくはない――ということだ。明らかに僕が邪魔なのは第二王子のアーノルドとその一派だね。彼はわかりやすい。で、その彼に加担しているのが誰か――という話だったんだ」
「ブランケル伯の他に、ということですね」
「そう。まず疑ったのは、二人」
そう言った後に、ハリーが少しだけ息をのんだ。
「王妃陛下である母上と、ボールネ公だ」
その言葉に、アメリア様がくっと喉を鳴らした。アメリア様は想定内だと思いつつも、やはり自分の父親が、と思いたくはないのだろう。
「待って、待って。でも、だったらどうして王妃様は私にドレスを? それにボールネ公だって私をお屋敷に迎えてくれて………」
アメリア様の気持ちを想うと、ハリーの言葉に同意できなかった。
「ボールネ公がナスカを迎えたのは、単純な理由だよ。貴族社会というのは、建前でできているからね。後見である彼が僕の申し出を断ることはできない。それに、ボールネ公の屋敷でナスカに何かあったら真っ先に疑われるのは彼だ。疑われる、噂になる、それだけで貴族社会というのはいらぬ敵を誘い込んでしまう。ボールネ公にとって僕と対立することは表向きでは是ではない。だからこそ、ボールネ公はナスカの身の安全を図るだろう。ボールネ公爵邸ほど安心な場所はない。そう思って、ナスカをボールネ公爵に預けることにしたんだ」
淡々と語るハリーに、アメリア嬢は息をのむ。
「お妃教育というのは建前だよ。元々ナスカに完璧な教育なんて期待していない。だから、形だけでもお妃教育を受けさせる――そういうことにしておけばよかったんだよ。だけど、アメリア嬢、あなたのおかげでナスカにきちんと教育を受けさせることができた。感謝している」
ハリーがアメリア様に笑いかける。アメリア様はそんなハリーの言葉を聞いて俯いてしまった。
「すまない、アメリア嬢。あなたにとって気分のいい話ではないね」
涙をこらえるアメリア嬢に、ハリーの声音が優しく響いた。
「僕は殺されるわけにはいかないからね。僕がアメリア嬢と婚約を破棄すると言えば、僕を王太子という椅子から引きずり降ろそうとしている奴らが、ここぞとばかりに動き出すと考えたんだ。それは簡単に予想できた。だから、賭けに出たんだ。
そして王妃陛下直々に王宮にナスカを招いたことで、本格的に動き出すと踏んだ。もしもアメリア嬢、あなたがいるときに事を起こすならばそれはボールネ公が加担してのことではない。ボールネ公は娘を切り捨てるほど非情ではない。だから、今回のことはあなたの父上の差し金ではない。心配しなくてもいいよ」
ハリーの言葉に、アメリア様が嗚咽を漏らした。そっとアメリア様の肩を抱く。今までのいろんな感情が、その涙に込められているのだと思えた。
「ナスカ、アメリア嬢、心配ない。二人のことは僕が守る」
ハリーの微笑みに、なぜかこんな状況なのに安心していた。
真っ暗な闇を迎えて、起こした火がぱちぱちと音を立てた。アメリア嬢は疲れからか、うとうととしている。ここで寝てしまうと危ないからとハリーがアメリア嬢を小屋の中に抱いて連れて行った。小屋においてあった毛布を床に敷くと、その上にアメリア様を寝かせ、もう一枚の毛布をそっと掛けた。
「――ハリー、強いのね」
アメリア様が寝てしまった後、私とハリーは寝ずの番を交代ですることにした。ハリーは私にも休めと言ったけど、ハリーだけに負担をかけたくなかった。
ハリーが燃えている火に枯れ枝を差し込んだ。
「……グリードと一緒に騎士団で鍛錬したからね」
人が死ぬことは珍しくない。だけど剣で人が切られるのを見たのは、初めてだった。
「僕が、恐ろしくなった?」
そう問いかけるハリーの顔は火に照らされて闇に浮かび上がっているようで、半身はまるで深い闇に溶けているように影を落としていた。
黙って首を横に振った。
怖くなかったと言ったら、嘘になる。でも、怖いと言ってもどうなるものでもないのももうわかっている。
「グリードは強いんだ。王太子の僕よりもっと」
ハリーがゆっくりとグリードを思い出すように笑った。
「王宮騎士になるべく、幼い時から騎士として鍛え上げられた。今では騎士団の中でも他に類を見ないほど強い。僕はね、そのグリードの師匠と一緒に鍛えられたから。だから、僕も強いよ」
「あの小さかったグリードが、ねえ」
ため息交じりに呟くと、ハリーが面白そうに笑う。
金の巻き毛のあの可愛かったグリードが、そんなに強かったなんて。でも確かにハリーもいかにも王子様然といった姿なのに、強かった。
「うん。彼、背も伸びたろう? 焼けちゃって髪は茶色くなったけどね。そばかすは変わらないけど、逞しくなって、子どもの頃のグリードとは全然違うだろ?」
グリードの話をするハリーはとても楽しそうだった。
「初めは毎日泣いてばっかりだったんだ。僕らを教えてくれた騎士団長はむちゃくちゃ強いし厳しいし――だけど、ある日これじゃいけないって気がついたんだよ。僕もグリードも」
「……何があったの?」
問いかけた後に訪れた沈黙に、爆ぜる火の音と虫の音がやけに大きく聞こえた。火の向こうを見れば真っ暗闇でそれに飲み込まれてしまいそうな気がして、震えた。
「僕は乳母に育てられた。父も母も忙しくて、僕のことは第一王子としか見ていなかった。乳母は悲しいほど愛情に欠けた人でね。僕を第一王子として何でも許して育てた。大切だから願いを叶えてあげたいなんて殊勝な心じゃなくてね、身分の高い王子の言うことを聞いておけば、後々安泰だという打算だったね。そのおかげで我儘なフリードリヒ王子の出来上がりだ。
一方グリードといえば、騎士団長の父親に、6歳になった年に突然騎士団に放り込まれた。泣きながら鍛錬をして一年後、第一王子の剣となるべく王宮に放り込まれたんだ。右も左もわからない王宮で、知り合いもいない。騎士団でも鬼のような騎士団長にしごかれて。鍛錬が終われば、すぐに我儘王子のお守。毎日泣いて暮らしてたよ。
お互い、孤独だったんだよな。心を通わせあうのに、そんなに時間はかからなかった気がするよ」
それからさ、とハリーが話を続ける。
「あんまりにも僕の我儘がひどいから、父も母も心配したんだろうね。僕を一時王宮から遠ざけるようにした。それが、夏のコーンウォルズへの避暑の始まりだ。そして、ナスカに出会った」
ハリーが遠い目をして笑った。あの頃は、楽しかったなあ、ハリーがそう呟く声は本当に懐かしさに満ちていて、その弾んだ声を聴いただけで嬉しくなった。
「あの頃、僕の我儘に本気で違うって窘めて、喧嘩してくれたのはナスカしかいなかった。だから君の存在が面白くて眩しかったんだよなあ」
よく覚えてる。我儘一杯のハリー。こいつムカつく――そう思いながらよくケンカをした。だって、ハリーってば絶対私の言うことにうんって言わないんだもん。
「喧嘩したら、次の日遊ばなきゃいいのに、絶対に迎えに来るんだもんな。あのナスカの姿に僕は何度救われたか」
「ハリーは確かに我儘だったけど、嫌いじゃなかったし。どんなに我儘で腹立つ奴でも、いつも遊んでるのに一人だけ誘わないのは違うと思ったから……」
「うん。その素直さに何度も救われたんだよ」
ハリーがはじけるように笑って、私も一緒に笑っていた。
ひとしきり笑いあってから、ハリーの顔が暗くなった。ハリーが一つ、枯れ木を火にくべる。
「――三年ほど前に、殺されかけたことがあった。その犯人は今でもわからない」
その言葉に目を瞠って、言葉を失ってしまった。
ぱちぱちと爆ぜる音が妙に大きく聞こえた。
「殺されかけたって――」
「僕が13歳になって、立太子した時に毒を盛られたんだ。幸い一命をとりとめたけどね」
ハリーが笑った。そして、少しだけ俯いて、悲しそうな顔をする。
昼間、王妃様は言っていなかったっけ。三年前の事件――それが、ハリーが毒を盛られたことなんだ。
「それから三年間、僕はずっと命を狙われている恐怖と戦っている。そしてグリードも、僕を護れなかった自責の念に駆られている。あれから僕たちは泣くのをやめた。5年後に王位に就くために、できることの最善を尽くそう。二人でそう誓い合ったんだ」
「だから大丈夫だよ。きっとグリードが僕たちを見つけてくれる」
ハリーが自信たっぷりにそう言った。
気がつくと、ハリーの肩にもたれて転寝してしまっていた。ハリーは私が辛くないようにずっと肩を貸してくれていた。気がつくと私の肩にドレスよりも重い上質な生地の上着が掛けられていた。ハリーの上着だった。
ハリーは私が起きているのに気がつかずに、ずり落ちそうになる上着を、私が起きないように体を支えながら掛け直してくれた。その優しさに、もう少しだけ寝たふりをした。
「ナスカ」
声をかけられて、ドキッとした。狸寝入りしていることがばれているのかも。冷や汗をかきながら、今更起きられなくてそのまま寝たふりを続ける。
ハリーの肩に少し力が入った。それからすぐにふっと力が抜けた。
「君を苦しめているのもわかっているんだ。君が一生懸命努力しているのもわかっている。できれば僕がここを飛び出して、コーンウォルズで僕は日がな一日魚を釣って、ナスカは可愛いおかみさんとして、あの村で一緒にいられたらいいのにね。そんな未来がくれば――なんてね。
――でも、無理だよなあ」
ふふっと自嘲するように笑うと、ため息が一つ聞こえた。
「すべてが自由にならない日々の中で、どうしても諦められなくて――もう一度だけ会いたかったんだよなあ」
ハリーの小さな呟きが空しく響く。
……身分が違うって、こういうことなんだ。
努力とかではなくて、生まれた場所も生活も自由も価値観も何もかもが違う。
私にはやっぱり、ハリーの立場はどこまでも遠い。想像なんてできないくらいに。
あんなに悪意にさらされた世界で生きていくなんて、私には無理だ。
あんなに大勢働いている王宮で、ハリーとグリードはたった二人きりだったという。綺麗な服を着て、美味しいものを食べて、幸せがいっぱい詰まっていると幼いころから信じてきたあのお城の中は、二人にとっては冷たくて悲しい場所だった。
私がいた村は貧しいところだったから、冬なんかは食べ物が無くなることもあった。少ない食べ物をひもじい思いをしながら、でも家族で分け合って食べたりした。火を起こせば暖かかったし、みんなで分け合えば少なくてもみんなで我慢できた。
辛いけど、みんな当たり前のことだから惨めではなかった。
家族を思い出した。村の雑貨屋は私がいなくなってお店は大丈夫だろうか。店番、誰かやってくれているのかなあ。みんなの顔を思い浮かべていた。
王宮に連れてこられたときは、すぐに家に帰れる。そう思っていた。それが侯爵家の養女になって……。ハリーは王宮からの使者がちゃんと説明しているからって言っていた。村には幼い妹たちもまだいるから、私がいなくなっても心配はないだろう。むしろ食い扶持が減って安心しているかもしれない。私と引き換えに小金でももらえていたなら、むしろ父さんたちはそのほうが嬉しいだろうな。
寝たふりをしながら、涙がこぼれそうだった。
ハリーの手が、私の頭をそっと肩に寄せた。
「もう僕、死んでもいいかな……」
ハリーの呟きが空に消えていった。まるで宝物を扱うように私の頭を優しく撫でるハリーの暖かい肩にもう少し触れていたいと、思ってしまった。
近くで鳥の鳴き声が聞こえた。
朝になったんだ。ぱっと目を覚ますと、とても近くにハリーの顔があって、思わず飛び起きた。
あの後、また寝てしまったんだ……。
恥ずかしくて、顔が熱くなる。
「おはよう」
ハリーが笑う。
ハリー一人だったら大変だとか言っておきながら、寝ちゃって、しかもハリーの肩にもたれたままで……むしろ私がハリーを大変にさせている。考えたら、穴があったら入りたいくらいだった。
私がいなくなった方の肩を見て、ハリーが少し寂しそうな顔をしてうーんと背伸びをして立ち上がった。
「夜が明けたから、パスカルが僕らを狩りに来る」
ハリーが真顔でそう告げた。
「パスカルが、なんで? だって、同じハリーを護る騎士じゃ……」
「昨日、僕がごろつきを倒している間、パスカルは僕を助けに来なかった。ごろつきどもが涼しい顔をして馬車に並走して僕らを拉致するなんて、手引する奴がいない限り無理なんだよ」
「でも、じゃあ何ですぐにパスカルは私達を殺しに来ないの?」
「騎士は暗殺者じゃないから、夜の闇に乗じて相手を打つということはしない。するとすれば、正々堂々とした殺し合いだ」
ゴキゴキと首を左右に倒して、ハリーが続ける。
「――彼は強い。彼は騎士だから。騎士は、人を殺すために訓練している。そこに躊躇はない。だから、強いよ」
嫌な相手だよ、ハリーがそう続けた。
「いいか、ナスカ。彼の狙いは僕と君だ」
「え? 何で私まで?」
ハリーの言葉に驚くと、ハリーが額に手を当てる。
「だってナスカ、聞いちゃったじゃん。裏庭で」
裏庭――ハリーと喧嘩して忘れてたけど、そう言えばあの近衛兵たちの会話を聞いて――アーノルド殿下に凄まれた。
あ。
「気がついた?」
やれやれといった様子でハリーが呟く。
「今回の主犯がアーノルドだって君の証言で立証できる」
パスカルがアーノルドの配下だったとは気がつかなかったなあ。とハリーが困ったように頭を掻いた。
「ま、お互い頑張ろうか」
え?
「待って、待って! 無理でしょ!? 私にどうやって騎士と戦えと!」
ハリーに食って掛かると、ハリーが意地悪く口の端を持ち上げた。
「ナスカが僕のお嫁さんになってくれるなら、助けてあげてもいいよ?」
満面の笑みで、そんなことを言う。
「今、そんなこと言っている場合じゃないでしょ!?」
食って掛かると、ハリーが笑いだした。
「冗談だよ。流れでうんって言ってくれるかと思ったのに」
「言うわけないでしょ!?」
言い返すと、ハリーは笑いながら私の頭にぽんと手を乗せた。
「大丈夫。ナスカのことは絶対に僕が守る――もしも、僕の命が尽きようとも、君のことだけは、絶対に」
それから、ハリーが真顔になった。
「――もしもナスカが王太子妃にならなくても、悪いようにはしない。ミレーネ侯爵とはちゃんとその話もついている。妃じゃなくても――」
そう言ってから、首を横に振った。
「いや、今はやめておこう」
悲しそうな顔をしたまま笑うと呟いた。




