第六章「惨」
美香が入院するようになって、もう四日が経った。ゆっくりとではあるが、確実に美香のお腹の中の赤ん坊は外に出ようとしている。孝太郎が、美香が赤ん坊につけた名前を知るのはもうすぐだろう。
そんなことを考えながら、穏やかな笑みを浮かべつつ膨らんだ腹部をなでる美香を見つめる。こうして見ると、美香の雰囲気は既にお母さん然としていて、とても妊娠前の新妻っぽさは感じられなかった。
「俺もちゃんと、お父さんしないとな……」
美香がお母さんになるというなら、当然孝太郎はお父さん、ということになる。美香ばかり親らしくなってしまって自分は未だに新婚気分、ではしまりがないし、何よりそんなことでは子育てに支障が出る。
「そーだよー。孝ちゃんはお父さんなんだから、一番しっかりしないと!」
「だよなぁ……」
今の所、一番しっかりしているのは美香のような気がしないでもない。そう思って、尚のことしっかりしないといけないな、と自分に言い聞かせる。
美香のお腹の中の赤ん坊のことを考えると、胸が高鳴るのがわかる。自分にとって初めての子供、自分と美香の愛の結晶。
愛の結晶、は流石に聞こえが臭いが、孝太郎はそれでもそう思いたかった。
男の子だろうか、女の子だろうか。どっちだったとしても幸せだし、考えるだけでも期待で胸がはち切れてしまいそうだった。
これをまだ幸せの絶頂でないというのなら、一体いつになれば幸せの絶頂というものが訪れるのか。案外、幸せの絶頂というものはいつの間にか過ぎ去っていて、後で思い出して幸せだったなぁ、と感じることのことなのかも知れない。
そんなことを、呆けた顔で孝太郎が考えている時だった。
「孝ちゃん、孝ちゃん!」
「え、ああ、何?」
「今すっごい間抜けな顔してた」
美香に指摘されて、自分が口を開けたままボーっとしていたことに気が付き、孝太郎は顔を赤くするのだった。
病院を出、電源を切っていた携帯電話の電源を入れた後、駐車場に駐車しておいた車に乗り込み、孝太郎がエンジンをかけようとした時だった。
「ん……?」
不意に、ポケットの中の携帯が着信音を鳴らしながらブルブルと震え始めた。孝太郎は表示されている「渡部」という名前を確認すると、すぐに電話に出た。
「もしもし……」
『もしもし! 今すぐ来て!』
電話の向こうの渡部の声は、普段の落ち着いた様子からは考えられない程焦った様子だった。
「な、何かあったんですか!?」
『場所は、あの研究所……っ!』
どうやら激しく動いているようで、彼女は息を切らしている様子だった。
『ウィルスが……きゃあっ!』
ガチャリと向こうで携帯の落ちる音がして、それを最後に通話は切れてしまった。
「な……!」
ジワリと。厭な汗が孝太郎の額に浮かんだ。
嫌な予感がする。
「くそ……!」
孝太郎は携帯をポケットにしまい込むと、慌ててエンジンをかけて車を研究所まで走らせた。その時、ポケットに入れた携帯の電池が切れ、警告音を発していたことには気づかないままで。
慣れない道ではあったが、渡部の車に乗せられていた時の記憶を頼りに、孝太郎は研究所へと向かっていた。
――――ウィルスが……きゃあっ!
ウィルス。彼女の言うウィルスとは、恐らくRウィルスのことを指しているのだろう。
「嫌な予感がする……」
脳裏を過る最悪の事態を振り払うようにして、首を左右に振り、孝太郎はアクセルを踏んだ。
急がなければ。
ふと、ドアミラーに走っている白衣の男の姿が見える。この人通りのない場所で、人とすれ違うとは思わなかった。それに白衣……研究所の人間だろうか。研究所で何かあって逃げているのかも知れないが、先程の男は逃げている様子にはあまり見えなかった。
しかし今は、渡部の方が気にかかる。追っているような暇はない。
それから数分、孝太郎が研究所に辿り着く。と、同時に、激しい勢いで研究所のドアが開き、中から逃げるようにしてマスクをした渡部が飛び出してきた。その後を追うようにして、凄まじい形相を浮かべた白衣の男達が飛び出してくる。何事かと孝太郎が目を丸くしていると、渡部はこちらへ駆け寄ってきて車の窓をドンドンと叩いた。
孝太郎がドアを開けようとすると、渡部が必死に開けないで! と叫んだ。状況が巧く理解出来ないまま、孝太郎は窓だけを開く。
「どうかしたんですか!?」
「これを!」
渡部は何も説明しないまま、栓のされた試験管と注射器を孝太郎へ差し出した。
「これは……!」
「完成したワクチンよ! それを注射すれば、感染しても発症前なら何とかなるわ!」
「完成してたんですか……!」
渡部はコクリと頷くと、背後で身を屈めて渡部を睨んでいる研究員達へ顎を向け、孝太郎の視線を促せた。
「活性化したウィルスが漏れて、私以外は全員発症したわ……。私ももうすぐ発症するハズ……」
「な――――ッ!」
孝太郎が驚愕の声を上げたのと、研究員達が渡部へ後ろから飛びついたのはほぼ同時だった。
「閉めてぇっ!」
噛みつかれながらも必死に叫ぶ渡部。言われるままに、孝太郎は窓を閉めていた。
「渡部さんッ!」
ベチャリと。赤い肉片が窓へ飛び散った。
「うわ……あ……!」
倒れ伏す渡部に群がる研究員達は、血肉をまき散らしながら貪っていた――彼女の臓器を。
活性化したウィルス。感染した研究員。外に飛び出した感染者。
目の前の惨状と、脳裏を過るこれから起こるであろう惨事。
「うわあああああああああ!」
孝太郎は、悲鳴を上げながら車を飛ばしていた。
病院へと。
なんてことはない、いつもの昼下がりだった。学校が閉鎖しているせいで退屈していた、南白第三中学校の生徒、平中彩恵は同じく南白第三中の生徒である錦戸雄介と二人で遊びに出かけていた。二人は別に付き合っているというわけではなく、単に幼い時から仲が良かっただけ――所謂幼馴染であり、恋愛感情とは関係なく単純な友達付き合いとして遊びに出かけていた。と、感じているのは雄介の方だけで、彩恵の方は今日こそ想いを伝えようと雄介を遊びに誘ったのだった。
――――言うぞ……言うぞ……!
心の中で何度も言い聞かせ、先程見てきた映画のことを楽しそうに語る雄介の横顔を彩恵は顔を真っ赤にしながら見つめた。
映画も見た、昼食も一緒に食べた。恐らくこの後はいつもの公園に行ってしばらく駄弁って解散、というコースだろう。そこで、想いを伝える。そう決心して、彩恵は雄介と共に公園に向かった。
ベンチに座り、他愛のない話に花を咲かせる。笑いながらも、彩恵はずっとタイミングをうかがっていた。
「そういえばこないだ俺らのこと、また恋人だとか言ってる奴らいたよなー」
不意に、雄介がそんなことを言う。それを聞いて、彩恵はこのタイミングこそチャンスだと判断した。
「あの、あのね……そのことなんだけど……」
彩恵が思い切って話を切り出した――その時だった。
「え――――」
突如、彩恵の目の前で鮮血がまった。
「嘘……」
見れば、雄介の首筋には、何者かが背後から噛みついていた。喉をやられ、言葉を発せなくなった雄介は、口をパクパクさせながらその場へ倒れる。
「ガァァァァァァァッ!」
雄介に噛みついた者……白衣の男は、雄介の身体に馬乗りになると、その腹部へ勢いよく噛みついて、雄介の臓器を貪り始めた。
絶望と赤で染められていく視界に、彩恵は訳もわからないまま悲鳴を上げると、すぐに意識を手放した。
平中彩恵が道を歩いていた中年女性を食い殺すのは、それから数分後のことだった。




