最終章「誕」
大城美香は、担架で分娩室に運ばれていた。赤ん坊が、もうすぐ生まれるのだ。
「孝ちゃん……っ孝ちゃん……っ!」
必死に孝太郎の名を呼ぶが、傍にその姿はない。何度も医師が電話をかけたのが、孝太郎に連絡がつかないのだ。携帯は電池が切れているのか出れないようで、自宅にかけても帰ってきていないようで電話に出てこない。
「孝ちゃぁんっ……!」
今、一番傍にいてほしいのに。
美香の声は空しく廊下に響くばかりだった。
「大丈夫ですよ。必ず来ますから!」
助産師の声に勇気づけられつつも、美香はこれから生まれる赤ん坊のことと、未だに姿を現さない孝太郎のことばかり考え続けていた。
阿鼻叫喚。
孝太郎が窓の外に見る景色は、正に地獄と呼んでも差し支えがない程に悲惨なものだった。
そこら中が赤く染まっており、そこには孝太郎が今まで見ていた平和な町の景色など微塵も残ってはいなかった。うずくまってもぞもぞと動いている人間の下には、決まって人間の身体が敷かれていた。
飛び散った赤がベトリと車の窓を染め、地獄を赤で覆い隠した。
「美香……ッ美香ッ……!」
人のものとは思えない、化け物のような表情で車へ飛びついてくるウィルス感染者達を車で跳ねながら、孝太郎は必死にハンドルを切る。感染者が元は普通の人間で、自分が今していることは人間を車で跳ねていることと変わらない……自覚はあったが、それに罪悪感を覚えているような余裕は塩一粒分も残っていなかった。
既に、孝太郎はワクチンを注射している。ワクチンを全て使わず、半分は美香のために残したままで……。
研究所から病院へ、必死に車を飛ばしてから何時間経ったのかわからない。所々でウィルス感染者が固まって死体を貪っていて邪魔になったり、孝太郎のことを狙って車に飛びついてくる感染者達からの邪魔も入っているせいで、孝太郎は大幅に時間をロストしていた。
あれから何時間経った? 二時間? 三時間? 皆目見当がつかない。休みの日に腕時計をつけない習慣がついてしまっていることを、孝太郎は嫌と言う程後悔した。携帯で時間を確認しようにも、携帯の充電が切れている。これでは病院にも、美香にも連絡を取ることが出来ない。
ただ、徐々に日が暮れ始めていることだけはわかった。
将棋で言えば詰み。チェスで言えばチェックメイト。車内の窓にもミラーにも、絶望ばかりが溢れていた。
今この瞬間にも、美香がウィルス感染者によって貪られているかも知れない。お腹の中に宿っている、孝太郎と美香の赤ん坊と一緒に――
それを少しでも想像する度に、孝太郎は気が遠のくような絶望を擬似的に体感した。
「クソッ……邪魔だ……!」
数メートル先には、倒れている人を無我夢中に貪っているウィルス感染者が数十人程固まっていた。跳ねれば進行に問題はないが、その度に一度スピードが落ちてしまうのが億劫で仕方がない。
苛立ちつつもアクセルを踏み込むが、その瞬間に孝太郎の車に正面からウィルス感染者が飛びついた。
「またかッ!」
感染者に飛びつかれるのはもう何度目かわからない。そろそろ慣れてきてはいるのだが、振り落とすまでの間視界が奪われてしまうのが鬱陶しい。
「クソ……ッ! 美香ァァッ!」
感染者達を跳ね飛ばし、正面に張り付いている感染者を何とか振り落としながら、孝太郎はひたすら病院へと向かう。
病院は、もうすぐ傍だった。
病院の中は、既に感染者だらけになっていた。患者や看護士のような感染者もいれば、中には警官らしき感染者も何人かうろついていた。どうやら事態を沈静化しようとした結果、研究所で活性化したウィルスが感染して感染者と化してしまったのだろう。
孝太郎が病院内に入ると、感染者達はすぐに孝太郎を見つけて飛び掛ってくる。咄嗟に孝太郎は入り口付近に設置してあった消火器を手に取ると、飛び掛ってくる感染者達目掛けて噴射する。消火器によって視界を奪われ、感染者達が動きを止めている隙に孝太郎は美香の病室へと一気に駆け出した。
消火器で感染者達に対応しながらであれば、病室まで行くことは不可能ではない。足りなくなる前に、道中に設置されている消火器を回収すれば良いだけの話だ。
「待ってろ……美香……!」
消火器の噴射を逃れ、孝太郎へと飛び掛ってきた感染者の一人を消火器で殴り飛ばしつつ、孝太郎は呟いた。
何とか美香の病室には辿り着いたが、そこに美香はいなかった。感染者達によって殺されたのかとも思ったが、病室の中に美香の死体はない。感染して動き回っているという可能性もあったが、孝太郎はそれを無意識的に否定した。
もしかすると、この事態になる前に美香はこの部屋を移動したのかも知れない……。移動するとすれば……
「分娩室か!」
すぐに、孝太郎は先程廊下で回収したばかりの消火器を強く握って病室を飛び出した。
愛しい声が聞こえる。
生まれたばかりの生命の声が、耳を通して鼓膜を揺さぶり、伝わってくる。
身体が芯から幸福で満たされかけて、その場にいて欲しかった人がいないことに気付いてほろりとしずくが落ちた。
今抱き締めている生命のことを、あの人と共に喜びたかった。誕生する瞬間を、あの人に見ていて欲しかった。だけどそこに、あの人はいない。
嬉しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのかもわからないまま、ただただ涙は滴り落ちていく。
「孝ちゃん……っ」
呟いた瞬間、乱暴にドアが開けられた。
消火器でなんとか感染者達をまきながら、孝太郎は息を荒げつつ分娩室へと走っていた。道中にあった地図通りなら、この辺りのハズだ。
一部屋一部屋、美香がいるかどうかを確認していくが、そこにあるのは死体ばかりだった。
「クソ……ッ」
孝太郎が悪態を吐いた――その時だった。
「孝ちゃん……っ!」
不意に、妻の声が聞こえた。
すぐさま声の聞こえた方向の部屋へ向かい、開け放たれたままのドアから中へ入ると、そこにはうずくまっている美香の姿があった。
「美香ッ!」
その背中は血に彩られており、そこへ感染者達が噛み付いて血肉を貪っていた。
「やめろォォォォッ!」
絶叫しながら駆け寄ると、孝太郎は感染者達を消火器で順番に殴り倒していく。頭がかち割れん程の勢いで殴られた感染者達は、一様に悲鳴を上げて壁や床に叩きつけられていく。
「美香! 美香ッ!」
うずくまっている美香の身体の下から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。その泣き声の主が、自分の子供だと気がつくのに、さほど時間は必要なかった。
美香の背中はばっくりと抉られており、既にいつ死んでもおかしくない程の重症だった。
「孝……ちゃん……お願い……この子……」
ボロボロの身体で、美香は赤ん坊を抱き上げると、そっと孝太郎へ差し出した。
柔らかな布に包まれた、生まれたばかりの生命。孝太郎は無意識の内に涙を流しながら、その生命を受け取った。
「美香……美香……ッ」
必死に孝太郎が何度も叫んでも、美香は既に死を悟っているのか首を左右に振るばかりだった。
「この子……名前…………」
蚊の鳴くような声で、孝太郎に赤ん坊の名前を告げると、そのまま美香はパタリと動かなくなってしまった。
「美……香……」
返事をしなくなった彼女に対して、涙を流している余裕など孝太郎にはなかった。
命を賭して美香が守った命を……この抱いている赤ん坊を守らなければならない。例え美香と同じように、その命を落とすことになったとしても。
――――孝……ちゃん……お願い……この子……。
美香が最期に残した言葉は、別れの言葉でも愛の言葉でもなかった。我が子を守って欲しい、ただそれだけの純粋な願い。
彼女の最期の願い。それだけは何としても叶えたかった。
「ちょっと……痛いけど、ごめんな……」
孝太郎は嗚咽交じりになりながらも、ワクチンの入った注射器を赤ん坊の柔らかい肌に突き刺してワクチンを注入する。それは危険なことだったし、痛そうに泣き叫ぶ赤ん坊を見るのは孝太郎としても辛かったが、この子を感染者にしないためにはこうするしかなかったのだ。せめて消毒くらい出来れば良かったのだが、生憎孝太郎にはその場にあるもののどれが消毒液なのかもわからなかったし、それを探しているような余裕もなかった。部屋の外では、感染者同士が共食いを始めているのであろう音が聞こえている。
孝太郎は赤ん坊を大切に抱き締めると、分娩室を飛び出した。
必死に病院を抜け出し、外に出る頃には既に日が落ちていた。悲鳴や奇声が響き渡る町の中を、孝太郎は必死に走っている。どこへ向かうともなく、ただただ赤ん坊を抱き締めて逃げ続けていた。
病院前に止めてあった車の周りは感染者だらけで、とても近づけたものではなかったため、こうして走って逃げることしか出来ない。
悲鳴も、奇声も、泣き声も、鳴り止まない。
「ハァッハァッ……」
何時間も逃げ続けているせいで、孝太郎は心身共に限界に達していた。そして疲れ果てて足をもつれさせた孝太郎を、追い掛け回していた感染者が見逃すハズがなかった。
「う……わあああああッ!」
背中から飛びつかれ、咄嗟に孝太郎は赤ん坊を守ろうとうずくまる。その姿は、奇しくも死ぬ直前の美香の姿と重なった。
痛みが全身を駆け巡り、噛み付かれた背中からの出血量が一瞬にして孝太郎へ死を悟らせた。
段々と意識は薄れていき、まともに思考することすらままならなくなり始める。
――――この子だけは……守らないと……
かすれ始めている意識の中、赤ん坊だけは必死に守り通そうと強く抱き締める。例え孝太郎が喰い尽くされた後、この子が喰われることになるのだとしても……たった一秒だけでも長く生きていて欲しい。
「ゆ…………め…………」
軍事用ヘリによって、上空から対Rウィルスワクチンが町全体に散布されたのは、その直後だった。
渡部のいた研究所とは別の研究所の研究員によって、急遽作成された対Rウィルスワクチンは絶大な効果をもたらし、一気に事態を沈静化させ、町中に溢れていたRウィルスはワクチンによって死滅したことにより、これ以上の感染者の増幅は防がれた。しかし感染者は、介入した自衛隊によって射殺されてしまう。
町の中で発症せずに生き残っていた人間は非常に少なく、すぐに自衛隊によって保護され、ワクチンによってRウィルス発症を防がれた後に避難させられたが、その内数人は重症を負っていたせいですぐに死亡してしまった。
保護された人々の中には、一人だけ女の子の赤ん坊がおり、その父親と思しき男性は赤ん坊を必死に守ったせいか重傷を負っていたため、保護された後に一度だけ意識を取り戻したが、すぐに死亡した。
父親が意識を取り戻した際、彼は自分の守った赤ん坊を指差して一言だけ言い残してこの世を去る。
「由愛」
それが彼の……大城孝太郎の最期の言葉だった。
あとがきは活報の方に書きます。




