第九話 未来からのつむぎ
お盆が過ぎて、八月も後半に入ると、夏休みの終わりが、うっすらと見えてくる気がします。
空の青さはまだ真夏のままでも、朝の風がほんの少しだけやわらかくなっていたり、夕方の日暮れが少し早くなっていたり。つむぎはそういう変化に気がつくたび、夏が少しずつ手の中からこぼれていくような感覚を覚えました。
それでも毎日は続きます。
あおいとは相変わらずほぼ毎日のようにメッセージのやりとりをして、工作教室ではみなとと顔を合わせました。みなとの模型は、だいぶ形になってきていました。商店街の通りと、川沿いの道と、坂のあたりが、小さな木の板で丁寧に再現されています。
「すごい。ちゃんとわかる。この坂、わたしが毎日歩いてるとこだ」
「五百分の一だから、実際は小さいけどな」
みなとは言いましたが、口元が少しゆるんでいます。
「図書館のあたりは作るの?」
「作ろうとしてる。でも、正確な場所がまだ確認できてない」
つむぎは少しだけ言葉につまりました。
「この前、見つからなかったから?」
「うん」
みなとはノートを閉じました。
「あの日は、建物がなかった」
「……今日は、あるかもしれないよ」
「建物は、ある日だけ現れるものじゃない」
「でも、行ってみないとわからない」
つむぎがそう言うと、みなとは少し間を置きました。
「……まあ」
それが「行く」ということだと、つむぎにはもうわかっていました。
工作教室の帰り道、三人で未来郵便図書館へ向かいました。
路地を曲がった先に、白い花の咲いた小さな庭が見えました。
つむぎは、思わず足を止めました。
「あった」
あおいが小さく言いました。
「ほんとに、あった」
みなとは何も言わず、ノートを開きました。
でも、いつもより少しだけ、鉛筆を持つ手が止まっているように見えました。
「この前は、なかった」
みなとは言いました。
「うん」
つむぎはうなずきました。
「でも、今日はある」
あおいが、白い花の庭を見つめたまま言いました。
「来られるときに、来られる人が来られる場所、ってこと?」
つむぎは、ユエの言葉を思い出しました。
「たぶん、そういうことなんだと思う」
つむぎがそう答える横で、みなとはノートを開き、坂道の曲がり角を確認していました。
あおいが笑いました。
「みなと、信じてないわりに本気じゃん」
「信じてないから、確認する」
つむぎは、そのやりとりを聞きながら、少しだけ笑いました。
ひとりで来たときとは、坂道の感じがちがっていました。
こわいわけではありません。
でも、自分だけの秘密の場所を、友だちに見せる前みたいに、胸がそわそわしていました。
みなとは建物をじっと見ました。外観を確かめるように、視線をゆっくり動かしています。メモ帳を出して、何かを書きはじめました。
「入らないの?」
あおいが聞きました。
「先に外を確認する」
つむぎとあおいは先に中に入りました。
ユエはいつものように棚の整理をしていました。
「こんにちは。今日、友だちもいっしょに来ました。外にいるんですけど」
つむぎは伝えました。
「どうぞ。来られた方は、みなさん歓迎します」
しばらくして、みなとが入ってきました。ドアを開けて、中を見回して、それから棚に近づいて、また寸法を確かめるように視線を動かしています。
ユエがみなとを見て、言いました。
「はじめまして」
「……はじめまして」
みなとはぶっきらぼうに言いましたが、ユエの方をきちんと見ていました。
「工作が好きなんですね」
みなとは少し目を細めました。
「なんでわかるの?」
「手を見ました。やすりの跡がある」
みなとは自分の手を見てから、またみなとらしい短さで「そう」と言いました。でも、嫌そうではありませんでした。
あおいがこそっとつむぎに言いました。
「なに今の。あの人、観察力すごくない?」
「うん。ユエは、よく見てるんだと思う」
「ユエ?」
「あの人の名前。ここの司書さん」
「司書さん……って、あたしたちと同じくらいに見えるけど」
あおいが首をかしげました。
「うん。でも、ここでは司書なんだって」
みなとは、棚を見たまま言いました。
「司書なら、図書館の管理者ってことか」
「たぶん」
「たぶん?」
「わたしも、まだ全部はわかってない」
みなとはそのあと、黙って棚を見まわりました。
引き出しの並びを確認して、また外に出て、建物の大きさを測って、また戻ってくる。ユエは何も言わずに、みなとがやっていることを妨げませんでした。
つむぎはその様子を見ながら、ユエとみなとが、少し似ているかもしれないと思いました。余分なことを言わない。でも、必要なことはちゃんと見ている。
帰り道、みなとがぽつりと言いました。
「ユエって、何者なんだろう」
「ふしぎな人だよね。でも、なんか安心する感じがする」
あおいが言いました。
「ぼくには、よくわからない」
「みなとでもわからないことあるんだ」
「わからないことの方が多い。ただ、うそはついてなさそう」
つむぎは、その言葉が正しいと思いました。ユエはいつも、はっきりとは答えてくれません。でも、答えないときもちゃんと「今はわからない」と言う。わからないことを、知っているふりはしない人です。
三人で商店街を抜けて、それぞれの方向へ別れました。
その夕方、つむぎはもう一度、図書館へ向かいました。
ひとりで来るのは、今日で何度目でしょう。ユエは「またひとりで来ましたね」と言う代わりに、いつものように静かに迎えてくれます。
棚の前に立ちました。
引き出しが光っています。いつもより、少し強い光のような気がしました。
封筒を取り出して、開きました。
便せんを広げたとき、つむぎは息をのみました。
差出人の欄に、名前が書いてありました。
今までの手紙には、差出人の名前がありませんでした。でも今日の手紙には、はっきりとした字で、名前が書かれています。
あさくら つむぎ
自分の名前でした。
つむぎはしばらく、その名前を見つめました。
手がかすかに震えています。気のせいかもしれないし、気のせいじゃないかもしれない。
便せんの本文を、ゆっくり読みました。
言えないままだと、きっとあとでかなしくなる。
だから、今のわたしが言って。だいじな人に、ちゃんと。
つむぎは何度も読みました。
一度目は、意味がうまく入ってきませんでした。二度目に、少しだけわかってきました。三度目に、胸がぎゅっとなりました。
少し先の未来の自分が、今の自分に書いた手紙。
言えないままだと、あとでかなしくなる。
だから、今のわたしが言って。
つむぎは便せんを持ったまま、しばらく動けませんでした。
「ユエ」
声が、少しかすれていました。
ユエが来ました。便せんを見て、言いました。
「読みましたか」
「うん」
「どう思いましたか」
つむぎは考えました。どう思ったか。
「こわいと思いました」
「こわい?」
「未来の自分が書いた手紙、ということが。つまり、このまま言えないでいたら、未来のわたしが後悔する、ということじゃないですか。それが、こわい」
ユエはすぐには答えませんでした。
「何を言えないでいるか、わかりますか」
つむぎは、うなずきました。
お母さんのことでした。
引っこしてきてから、お母さんはずっと忙しそうで、つむぎはずっとだいじょうぶなふりをしてきました。さみしいと言えば、お母さんに心配をかける。忙しいのに、余計な荷物を増やしたくない。
でも本当は、さみしかった。
朝、お母さんが出かけていく背中を見るたびに。夜、ひとりで電気を消すたびに。夏休みの晴れた日に、どこにも行けないでいるたびに。
ずっと飲みこんできた気持ちが、今日の手紙を読んで、あらためてそこにあることがわかりました。
「お母さんに、言えていないことがあります」
「そうですか」
「さみしいって。でも、心配かけたくなくて」
「言ったら、心配をかけますか」
つむぎは少し考えました。
「かけるかもしれない。でも……かけてもいいかもしれない。わからない」
「わからなくていいと思います。でも、言えないままだと、なくなることばもある、という手紙を、前に受け取りましたよね」
つむぎは、古本屋さんを訪れた日の午後に受け取った手紙を思いました。しまっておくと、なくなることばもある。
「つながってるんですか、手紙が」
「ぼくにはわかりません。でも、つむぎさんが受け取ってきた手紙は、ばらばらではないような気がします」
ユエはそう答えました。
つむぎは便せんを折りたたんで、封筒に戻しました。
今まで受け取った手紙を、頭の中で並べてみました。
ちゃんと「ちがう」って言って。
うまく話せなくても、にげなくていい。
ことばが少ないのは、やさしくないからじゃない。
先に言うのは、まけじゃない。
しまっておくと、なくなることばもある。
たのしい場所にも、こわい気持ちはいっしょに行く。
そして今日、言えないままだと、きっとあとでかなしくなる。
それぞれが、つむぎのそのときそのときに届いていました。でも、こうして並べてみると、どれも同じ方向を向いている気がします。
言葉は、言っていい。言えなくても、逃げなくていい。言えないままにしていたら、いつかなくなる。
そしてそれは、全部、お母さんへの言葉につながっていく。
「まだ、すぐには言えないかもしれないです。でも、言わなくちゃいけないとは、わかった」
「それで大丈夫です。ことばは、準備ができたときに出てきます」
その日の夜、つむぎがお母さんと夕ご飯を食べているとき、お母さんが言いました。
「最近、外に出てることが多いね。友だちできた?」
「うん。あおいちゃんと、みなとくん」
「よかった」
お母さんは、ほっとしたように笑いました。
「引っこしてきてから、友だちができるか心配してたの」
「心配してたの?」
「してたよ。つむぎは、自分から言わないから」
つむぎは、少し驚きました。
お母さんは、気づいていなかったと思っていました。つむぎがひとりでいることも、さみしいと思っていることも、だいじょうぶなふりをしていることも。
でも、心配してたと言いました。
ということは、気づいていたのかもしれない。ただ、どう聞けばいいかわからなかったのかもしれない。
つむぎは、今がその「準備ができたとき」かもしれないと思いました。
でも、言葉が出てきません。
さみしかった、という言葉が、のどのあたりにあるのに、形にならない。
結局その夜は、「うん、心配かけてごめん」とだけ言いました。
お母さんは「あやまらなくていいよ」と言いました。
それだけの会話でしたが、つむぎにとっては、今まで飲みこんできた言葉の、ほんの入口に立てた気がしました。
次の日、あおいから電話がかかってきました。
声が、少しちがう感じがしました。
「ねえ、つむぎちゃん。ちょっと聞いてほしいことがあって」
「どうしたの?」
「実はさ……うちのお父さんが、転勤になるかもしれないって」
つむぎは、何も言えませんでした。
「転勤って、遠くに?」
「たぶん。まだ決まってないんだけど、決まったら引っこしになるって。年内か、来年の春くらいかな、って話で」
来年の春。
五年生になったときのことが、頭に浮かびました。もしかしたら、あおいと同じクラスになれるかもしれない。またいっしょに夏祭りに行けるかもしれない。来年もここで、三人で過ごせると思っていた。
「どのくらい遠くに?」
「飛行機の距離になるかもしれない、って」
つむぎは、胸の中に何かがぎゅっと集まる感じがしました。
さみしい、という気持ちが、今すぐそこにあります。
でも、あおいに「さみしい」と言っていいのかどうか、わかりませんでした。あおいの方が、もっとつらいかもしれないから。
「あおいちゃんは、どうしたいの?」
「どうしたいって言っても……決まったら行くしかないし。でも、なんか、うまく気持ちの整理がつかなくて」
「うん」
「つむぎちゃんも引っこしてきたじゃん。どうだった?」
つむぎは少し考えました。
「最初は、よその国みたいだった。でも、少しずつ自分の町になってきた」
「そっか」
「あおいちゃんがどこに行っても、あおいちゃんはあおいちゃんだと思うし」
「……そういうこと言うんだ、つむぎちゃんって」
「変だった?」
「変じゃない。なんか、ありがとう」
電話を切ったあと、つむぎはしばらく窓の外を見ていました。
あおいが引っこすかもしれない。
来年の夏祭りの約束が、できないかもしれない。
ユエが言っていた言葉が、今になってじわりと広がってきました。
約束は、言葉にしただけでは届かないこともあります。
あの夜、三人で来年もここに来ようと言いました。でも、言葉にしただけでは、届かないこともある。
つむぎはひざを抱えて、少し考えました。
届かせるために、できることが、あるのでしょうか。
夕方、つむぎは坂道を歩いて、未来郵便図書館へ向かいました。
今日はユエに話を聞いてもらいたいと思っていました。あおいのこと、お母さんのこと、未来の自分からの手紙のこと。
路地に入って、庭の前に来ました。
いつものように、ドアを開けました。
ユエはカウンターのそばに立っていました。つむぎを見て、いつものように「いらっしゃい」と言いました。
つむぎは棚の方を見ました。
あの、ラベルのない引き出し。
今日は、光っていました。
はじめて見たときは光っていなくて、次に来たときは白い紙のかどが少し見えて。今日は、やわらかな光がにじみ出ています。
「ユエ、あの引き出し、今日は光ってる」
「そうですね」
「開けてもいいですか?」
ユエはしばらく、引き出しを見ていました。
「今日は、まだかもしれません」
「まだ?」
「届く準備が、もう少しだけ必要みたいです。でも、もうすぐだと思います」
つむぎはその引き出しを見つめました。
光はやわらかくて、でも今日はたしかにそこにあります。
もうすぐ、あの中の手紙の差出人と受取人が、わかるのかもしれない。
「ユエ」
つむぎはもう一つのことを聞きました。
「今日、友だちから聞いた話があって」
「あおいさんのことですか」
つむぎは少し驚きました。
「知ってるんですか」
「はい。あおいさんも、言えないことを持っているとは感じていました」
あおいも、言えないことがある。転校になるかもしれないことを、つむぎにもみなとにも、ずっと言えないでいたのだとわかりました。
「あおいちゃんに、何か言えることがあるでしょうか」
「つむぎさんが言える言葉が、いちばん届くと思います。手紙の言葉ではなく、つむぎさん自身の言葉が」
つむぎはうなずきました。
自分の言葉。
それが何かは、まだわかりません。でも、考えてみようと思います。
帰り際、つむぎはもう一度、ラベルのない引き出しを見ました。
光は、さっきより少しだけ強くなった気がしました。
あの中に何があるのか、もうすぐわかる。
つむぎはそのことが、なぜかとても大事なことのような気がして、引き出しをもう一度だけ見てから、図書館をあとにしました。
坂道を下りながら、空を見上げました。
夏の終わりの夕空は、昼間の青より少し深い色をしています。
言わなくてはいけないことが、いくつかあります。お母さんに。あおいに。
でも、言葉はまだ準備中です。
もう少し。もう少しだけ、時間をください。
つむぎは空にそう言いながら、家への道を歩きました。




