第十話 図書館が消える日
八月の終わりが、だんだん近づいて来ていました。
夏休みの宿題を確認すると、まだ読書感想文が残っていました。つむぎは風見書房で買った詩集を選ぼうと思いましたが、読み返してみると感想文に書きたいことがありすぎて、逆に困ってしまいました。言葉がたくさんあるのに、どれを選べばいいかわからないというのは、つむぎらしい悩みかもしれない、と自分でも少しおかしくなりました。
あおいは転校の話を、まだみなとに言えていないようでした。つむぎとのメッセージのやりとりの中で、『みなとに言った方がいいかな』と書いてきたことがあって、つむぎは『いつかのタイミングで』と返しました。それが正しかったかどうかはわかりません。でも、あおいが自分で決めることだと思っていました。
みなとは工作教室で、模型の仕上げに入っていました。未来郵便図書館のあたりも、ちゃんと形になっています。つむぎが「ここが図書館?」と指さすと、みなとは「そのへん」とだけ言いました。正確な位置がまだ測り切れていないのかもしれませんが、それでも、あの路地の雰囲気はなんとなく出ていました。
そんなある日の昼過ぎ、つむぎは図書館へ向かいました。
ドアを開けると、ユエは窓のそばに立っていました。外を見ているのかと思ったら、そうではなくて、ただそこに立って、何かを考えているようでした。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
ユエは振り返りました。
その日のユエは、いつもより口数が少なかった。
本を整理する手も、どこかゆっくりしていました。
つむぎが見ていると、ユエは一冊の本を棚に戻したあと、しばらくその背表紙から手を離しませんでした。
帰ろうとしたとき、ユエが声をかけてきました。
「今日は、少し話があります」
「話?」
「つむぎさんに聞いてほしいことが」
つむぎは少し驚きました。いつもは、つむぎが話してユエが聞く側です。ユエの方から「話がある」と言ってくるのは、はじめてのことでした。
ユエはカウンターのそばに来て、聞きました。
「この図書館は、いつまであると思いますか?」
つむぎは、少し前にも似たようなことを考えていたことを思い出しました。風見さんの話を聞いたあの日。
「ずっとはない、と思っています」
「そうです。この町の手紙が、ちゃんと届くようになったら、ここは役目を終えます」
つむぎは、その言葉をゆっくり受け取りました。
「役目を終えたら、消えるんですか」
「消える、というより、必要がなくなる、ということだと思います。ただ、結果として、ここはなくなります」
「ユエも、いなくなるんですか?」
ユエはしばらく黙っていました。
「ここが必要なあいだ、ぼくはここにいます。ここが必要でなくなれば、ぼくもいなくなります」
つむぎは、それを聞いて、胸の中に何かが落ちてくる感じがしました。
重くはないけれど、やわらかくもない。
「なくなるのは、いやですか?」
ユエが聞きました。
「いやです。ユエにも会えなくなるし、図書館も、好きだから」
「そうですか」
「ユエは、いやじゃないの?」
ユエは少し考えてから答えました。
「ぼくには、その感覚がよくわかりません。でも、役目が終わることは、悪いことではないと思っています。手紙がちゃんと届くようになった、ということだから」
つむぎは、ユエの言葉をじっと聞いていました。
「いつ、役目が終わるんですか?」
「それはわかりません。でも、近づいているとは思います」
近づいている。
つむぎは棚の方を見ました。引き出しが並んでいます。あのラベルのない引き出しは、今日も光っていました。前よりさらに強い光です。
「なくなるのは、悪いことではない」
つむぎはユエの言葉をもう一度口にしました。
「それって、本当にそう思ってるの?」
「本当に。ことばは、届いたとき、いちばん輝く。届いたあとは、ここにしまっておく必要はありません。だから、ここがなくなることは、言葉がちゃんと届いたということで、それはとても、いいことです」
つむぎはしばらく黙っていました。
ユエのことばは、いつも少しだけ詩みたいだと思います。短くて、でもその中にたくさんのことが入っている。
「わかった。でも、なくなる前に、ちゃんとさよならを言わせてください」
「もちろんです」
その夜、あおいから電話がかかってきました。
声が、泣いたあとのような、少しかすれた感じでした。
「つむぎちゃん、ちょっといい?」
「うん、どうしたの」
「転校のこと、決まりそうで」
つむぎは息を止めました。
「いつ?」
「来年の三月。春に向こうの学校に転入するって。お父さんが、今日確認してきたって」
三月。今年の冬が終わったら、あおいはここにいない。
「あおいちゃん……」
「ごめんね、前から言えなくて。なんか、言ったら本当になりそうで、ずっと言えなかった」
「あやまらなくていいよ」
「でも、つむぎちゃんには早く言いたかったのに。言えなかった」
つむぎは、あおいの声を聞きながら、自分の胸の中にさみしさがあるのをわかっていました。
でも今は、自分のさみしさを先に言う場面じゃないと思いました。
「来年の三月まで、まだあるよ。夏休みもまだ少しあるし、二学期も丸々あるし」
「うん」
「あおいちゃんがどこに行っても、わたしたちは友だちだよ。引っこしたくらいで、なくなるものじゃないと思う」
「……うん」
あおいの声が、少し詰まりました。
「ありがとう、つむぎちゃん。あと、みなとにも言わなきゃいけないんだけど、なんか、怖くて」
「みなとくんは、ちゃんと聞いてくれると思う」
「そうかな」
「うん。みなとくんは、言葉が少ないけど、ちゃんと聞いてる人だから」
しばらく沈黙がありました。
「明日、工作教室行く?」
あおいが聞きました。
「行くつもり」
「じゃあ、明日、みなとに言ってみる。つむぎちゃんもいてくれる?」
「いるよ」
「ありがとう」
電話を切ったあと、つむぎは部屋の中でしばらく動かずにいました。
あおいが来年の春にいなくなる。
それはたしかなことで、言葉にするとずっしりとした重さがあります。
でも今は泣かないでおこう、と思いました。自分のさみしさは、もう少しあとで、ちゃんと言葉にしよう。まずあおいの話を聞いた。次は、みなとのそばにいる。それからでいい。
つむぎは窓を少し開けました。
夜の風が、夏にしては少し涼しく感じました。
次の日、工作教室でのことでした。
あおいは最初、なかなか切り出せませんでした。つむぎの隣に座って、絵を描くふりをしながら、みなとの方をちらちら見ています。
つむぎは、あおいが自分で言えるのを待ちました。
しばらくして、あおいが言いました。
「みなと、ちょっと話があるんだけど」
みなとは手を止めました。模型の細かい部分を仕上げていたところでした。
「なに」
「まだ、みなとには言ってなかったんだけど」
あおいは、手元の色鉛筆をころころ転がしました。
「あたし、来年の春に引っこすかもしれなくて」
みなとはあおいを見ていました。それから、少し間を置いて言いました。
「遠く?」
「うん、飛行機の距離」
また沈黙がありました。
つむぎはみなとの顔を見ました。みなとはいつもと変わらない、すました顔をしていますが、手がいつもより動いていません。
「そうか」
みなとは、模型の細い屋根に視線を落としました。
「そうか、って……怒ってないの? 言うの遅くなって」
「怒らない」
みなとは模型の方に目を戻しました。
「早く言えないことは、わかる」
あおいが少し目を赤くしました。
「みなとって、やさしいじゃん」
「やさしくない」
みなとは言いましたが、その声はいつもよりわずかに低かったです。
つむぎは、みなとが何か言いたいことを持っているのだと思いました。でも、今すぐは言葉にできないのかもしれない。それでいい、とも思いました。みなとにはみなとの時間があります。
「来年の祭り、来られるなら来いよ」
みなとがぽつりと言いました。
あおいが驚いた顔をして、それからすぐに、やわらかく笑いました。
「行く。絶対行く」
「絶対は無理だろう」
「行くってば」
つむぎも、その二人を見ながら、少しだけ笑いました。
工作教室の帰り道、三人でしばらく並んで歩きました。
いつもならあおいがしゃべり続けて、みなとが短く返して、つむぎが間を歩いているのですが、今日は三人ともあまりしゃべりませんでした。
でも、それが苦しくはなかったです。
三人とも、胸の中に考えていることがありました。
あおいは転校のこと。みなとは、それを今日初めて聞いたこと。つむぎは、お母さんにまだ言えていないこと。
だから、静かなままでも苦しくありませんでした。
商店街の手前で、あおいが「またね」と言って手を振りました。みなとは「ああ」と言って反対方向に歩きはじめました。
つむぎはしばらく、その二人の後ろ姿を見ていました。
あおいは来年の春にはいない。
みなとはそのことを、今日はじめて聞いた。
みんな、言えないことを持っている。あおいも、みなとも。つむぎも。
つむぎはそのとき、自分がここに来た夏のことを思いました。
知らない町で、友だちもいなくて、言いたいことがのどにつかえたまま毎日過ごしていた。
それが今は、こんなふうになっている。
まだ言えていないことがあります。お母さんへのこと。でも、言わなくちゃいけないとはわかっている。
それだけで、来たときとはずいぶんちがう気がしました。
夕方、つむぎは未来郵便図書館に寄りました。
ユエに、今日のことを話しました。あおいがみなとに転校の話を伝えたこと。みなとが「来年の祭り、来られるなら来いよ」と言ったこと。
ユエはじっくり聞いていました。
「みなとは、ちゃんと聞いていましたね」
「うん。言葉は少ないけど、ちゃんとそこにいてくれた」
「つむぎさんも、そこにいましたね」
「わたしは何もしてない」
「そこにいることが、大事なこともあります」
つむぎは、それを聞いてすこし考えました。
そこにいること。何か言わなくても、何か助けなくても、そこにいるだけで届くことがある。
ユエがそう言うなら、そうかもしれない。
つむぎは棚の方を見ました。
ラベルのない引き出しが、今日は今までで一番強く光っていました。
「ユエ、あの引き出し」
「見えますか」
「今日、すごく光ってる」
「そうですね。もうすぐ、届く準備ができると思います」
「中身が、わかる?」
「今夜、わかるかもしれません。でも、今日ではない気がします」
つむぎはその引き出しをじっと見ました。
光は、やわらかく、でもたしかに強くなっています。あの中に誰かの言葉が入っていて、届くべき人を待っている。
「図書館が消えるのも、近いですか?」
つむぎは聞きました。
ユエは少し間を置きました。
「近づいています」
「そう」
つむぎはうなずきました。
こわい気持ちはあります。でも、こわい気持ちはいっしょに行く、と手紙が言っていました。こわいままでも、前に進める。
「ユエ、一つだけ聞いてもいいですか」
「はい」
「ユエは、さみしくないですか? 図書館がなくなっても」
ユエはしばらく黙っていました。今日いちばん長い沈黙でした。
それから言いました。
「ぼくにも、よくわかりません。でも、つむぎさんたちと話せたことは、よかったと思っています」
それだけでした。
でも、つむぎにはそれが、ユエなりの正直な言葉だとわかりました。
「わたしも、よかったと思ってる。来て、よかった。この夏に」
つむぎがそう言うと、ユエはかすかに笑いました。
「ことばは、ちゃんと届くときがあります」
それがいつものユエの言い方でしたが、今日は少しだけちがう響きに聞こえました。
つむぎはユエに「また来ます」と言って、図書館を出ました。
坂道を下りながら、夕暮れの空を見上げました。
西の方が赤く、東の方はもう藍色に近くなっています。
夏が、終わろうとしています。
でも、まだ終わっていません。
つむぎには、まだやることがあります。お母さんに、言わなくてはいけないことがある。
言えないままだと、きっとあとでかなしくなる。
未来の自分が書いた手紙が、今もつむぎの手さげの中にあります。
もうすぐ。もうすぐ、言える。
つむぎは足を速めて、家へ向かいました。




