第八話 夏祭りの夜の約束
八月の半ば、商店街に提灯が並びはじめました。
色とりどりの提灯が、商店街の入口から奥まで連なって、昼間でも祭りの気配が漂っています。つむぎは買い物のついでにその道を歩いて、去年は台風で中止になったというこのお祭りが、今年はどんなふうになるのだろうと想像しました。
あおいはお祭りのことになると、声がひとまわり大きくなりました。
「屋台がね、商店街の端から端まで出るんだよ。たこ焼きとか、かき氷とか、金魚すくいとか。あと、川沿いで花火もあって」
「花火も?」
「小さいやつだけど、すごくきれいなんだよ。去年見られなかったから、今年こそって思って」
工作教室でも、祭りの話になりました。
あおいがみなとに「みなとも来るでしょ」と言うと、みなとは手を動かしたまま「べつに」と言いました。
「べつに、って来るってこと? 来ないってこと?」
「どっちでもいい」
「どっちでもいいって言う人は、たいてい来たい人だよ」
「そんなことない」
つむぎには、みなとが本当は来たいのだと、なんとなくわかる気がしました。
みなとの目は、祭りの話をしているあおいの方を向いていたからです。
つむぎはというと、人の多い場所が少し苦手で、正直なところまだ迷っていました。でも、あおいやみなとといっしょなら、ひとりで行くよりずっとちがうかもしれない。
いっしょに商店街に行ったあの日、あおいに「うまく話せなくても、にげなくていい」と言えた。
今度も、にげなくていいかもしれない。
祭りの前日、つむぎは未来郵便図書館に行きました。
いつもの棚の前に立つと、引き出しのひとつがほのかに光っています。
封筒を取り出して、開きました。
たのしい場所にも、こわい気持ちはいっしょに行く。
つむぎはその言葉を読んで、少し笑いました。
こわい気持ちを消してから行かなくていい、ということかもしれません。こわいまま、それでも行く。それが、にげない、ということなのかもしれない。
「ユエ」
つむぎは呼びました。
「はい」
「明日、夏祭りがあって。人が多くて、少し苦手なんですけど」
「でも、行きますか」
つむぎは少し考えてから、うなずきました。
「行きます」
「それがいいと思います。こわい気持ちは、行った先でも続くかもしれません。でも、行かなかったときの気持ちとは、ちがうと思いますから」
つむぎはその言葉を、手帳の端にそっと書いておきました。
お祭りの夜、つむぎは少し早めに家を出ました。
商店街の入口でしばらく待つと、あおいが走ってきました。浴衣ではなく、夏らしい白いワンピースです。
「来た来た! 待ってたよ、つむぎちゃん」
「ごめん、早すぎた?」
「ううん、あたしも早かった。みなとは?」
「まだじゃないかな」
しばらくして、みなとがやってきました。半袖のシャツに、いつもの落ち着いた顔です。手には、小さなメモ帳を持っていました。
「なんでメモ帳持ってくるの?」
あおいが聞きました。
「灯りのしかけ、気になるから」
「やっぱり来たかったじゃん!」
「来たかったとは言ってない」
でもみなとの目は、提灯の並ぶ商店街の奥を、もうじっと見ていました。
三人で商店街に入りました。
人は、思っていたより多かったです。浴衣の人、小さな子どもを連れた家族、友だち同士のグループ。通り全体が、話し声と屋台の呼び込みと、どこかから流れてくる笛の音で満ちています。
つむぎは最初、少し息が詰まる感じがしました。人にぶつかりそうになって、よけて、また人の波に押されそうになって。でも、あおいがすぐ横にいて、みなとが少し前を歩いていると、それだけで少し落ち着きます。
「たこ焼き食べよ!」
あおいが言って、屋台に走っていきました。
つむぎはみなとと並んで、あとからついていきました。
「混んでるの、苦手じゃないの?」
つむぎはみなとに聞きました。
「人はうるさい。でも灯りは好き」
みなとは提灯を見上げながら言いました。
「あの電球の並べ方、計算してある」
「そうなの?」
「間隔が等間隔じゃなくて、真ん中から端に向かって少し広げてある。そうすると、真ん中が明るく見える」
つむぎも見上げました。言われてみると、確かに中心の辺りが少し明るい気がします。
「よく気づくね」
「気になるから」
みなとはいつものように短く言いました。
でも、その短い言葉の中に、本当に好きなのだという気持ちが入っているとわかります。みなとの言葉の少なさに、つむぎはもう慣れていました。
たこ焼きを食べながら、三人で奥へ進みました。
金魚すくいには、長い列ができていました。
「やりたい」
あおいが言いました。
「並ぶのは嫌だ」
みなとが言いました。
「じゃあ見ててよ」
あおいはそう言って、列に並び始めました。
つむぎとみなとは、少し離れた場所でそれを見ていました。
人の流れが、一瞬つむぎとあおいのあいだを分けました。
「あおいちゃん」
あおいの背中に向かって言いかけて、声が人ごみに消えてしまいました。
いつもならそのまま、流れに押されて離れてしまうところです。
でも、つむぎは「待って」と言いました。
思ったより大きな声が出て、自分でも少し驚きました。
あおいが振り返りました。
「つむぎちゃん、どうした?」
「はぐれそうになったから」
「あ、ごめんごめん! くっついてて」
あおいがつむぎの腕をつかんで引き寄せました。みなとも無言でそのそばに並びました。
つむぎは「待って」と言えたことが、まだ少し心臓に残っていました。
たった一言です。でも、言えました。
言えなかったら、人ごみに流されて、ひとりになっていたかもしれない。
あおいは金魚すくいで、三回挑戦して全部失敗しました。
「なんで! 絶対うまくいくと思ったのに」
「ポイの持ち方がちがう」
みなとがぼそっと言いました。
「え、わかるの?」
「前の人見てた。紙が破れるのは、水に対して角度がついてるから」
「じゃあ教えてよ!」
「もう終わった」
「ちょっと!」
つむぎはそのやりとりを聞きながら、おかしくて少し笑いました。
三人でかき氷を買って、川沿いへ向かいました。花火が始まるのは八時からだと、あおいが教えてくれました。
川沿いは、商店街より少し人が少なく、風が通っていました。草の上に腰をおろして、三人で花火を待ちます。
空がだんだん暗くなっていきました。星が、ひとつ、またひとつと出はじめます。
「ねえ、来年も、三人でここに来よう」
あおいが言いました。
つむぎは少し驚いて、あおいの顔を見ました。あおいは川の方を向いたまま、でも声はやわらかかったです。
「来年の夏も、この祭りがあったら。また三人で来ようよ」
「いいね」
つむぎは言いました。素直にそう思いました。
みなとは黙っていました。あおいが「みなとは?」と聞くと、みなとは少し間を置いてから言いました。
「……来られたら、来る」
「それ、来るってことだよね」
「来られたら、と言った」
「来るってことじゃん」
そのとき、パンッという音がして、空に赤い花が開きました。
花火です。
つむぎは空を見上げました。小さいと聞いていたけれど、夜空に開く光は、思っていたよりずっときれいでした。赤、青、金色、白。光が広がって、川の水面にも映って、二重に見えます。
あおいが「わあ」と声を上げました。みなとは黙って見ていましたが、メモ帳をしまって、ただ空を見ていました。
つむぎも、ただ見ていました。
こわい気持ちは、まだ少しありました。人が多くて、音が大きくて、疲れた部分もあります。でも、来てよかったとも思いました。手紙の言葉のとおり、こわい気持ちはいっしょに来たけれど、それより大きな何かも、いっしょに来てくれていた気がします。
花火が終わって、三人で帰り道を歩きました。
商店街はまだ賑やかでしたが、川沿いは静かで、虫の声が聞こえます。
さっきの花火の光が、まだ目の奥に残っているようでした。
「来られたら、来る、だって」
あおいが、思い出したように笑いました。
「みなとらしいよね」
「来ると決めたわけじゃない」
みなとは、川の方を見たまま言いました。
「でも、覚えておくってことでしょ」
「……それは、そう」
それは、みなとにしてはかなり前向きな返事でした。
つむぎは二人のやりとりを聞きながら、胸の奥が少しあたたかくなるのを感じました。
来年も、三人で。
その言葉は、花火が消えたあとも、つむぎの中に残っていました。
商店街の角で、あおいとみなととは別れました。
「また連絡するね!」
「また」
あおいが大きく手を振り、みなとは小さく手を上げました。
つむぎは一人で、坂道の方へ歩きました。
お祭りの音は、少しずつ遠くなっていきます。さっきまで隣にいた二人の声も、今はもう聞こえません。
でも、さみしい感じはしませんでした。
手の中に、まだ花火の光が残っているような気がしました。
そのとき、路地のそばから声がしました。
「お祭り、楽しめましたか」
つむぎは立ち止まりました。
振り返ると、ユエが立っていました。白いシャツに古いベスト。お祭りの夜には、少し場違いなような、でもなぜかしっくりくるような格好です。
「ユエ。来てたの?」
「少しだけ」
ユエはそう言って、商店街の方を見ました。
遠くで、まだ祭りの明かりが揺れています。
「来年も、三人で来ようって話してたんだ」
つむぎは言いました。
「来年も、あおいちゃんと、みなとくんと」
ユエは少しだけ笑いました。でも、すぐにいつものすました表情に戻って、どこかへ続く道を見ました。
「約束は、言葉にしただけでは届かないこともあります」
つむぎはその言葉を聞いて、胸の中に何か小さな引っかかりを感じました。
約束は、言葉にしただけでは届かない。
どういう意味でしょう。
来年のことは、わからない、ということ?
それとも、もっと別の意味があるのでしょうか。
「どういうこと?」
つむぎが聞くと、ユエはゆっくりと答えました。
「今日の話です。今夜のことは、ちゃんと届きましたよ」
それだけ伝えて、ユエは「おやすみなさい」と言い、路地の方へ歩いていきました。
つむぎは、しばらくその背中を見ていました。
ユエの姿は、路地の暗がりにゆっくりまぎれていきます。
約束は、言葉にしただけでは届かないこともある。
その言葉が、なぜか、ずっと心のすみに残りました。
家に帰って、布団の中でつむぎはその言葉を考えました。
来年の約束。
三人でまたここに来る約束。
来年のことは、今はわかりません。
それぞれに、来年どうなっているかはわからない。
でも、約束は言葉にしただけでは届かない、という意味が、つむぎにはまだよくつかめませんでした。
今夜のことは、ちゃんと届きましたよ、とユエは言いました。
それはつまり、今夜の三人の気持ちは、ちゃんと伝わった、ということでしょうか。
つむぎは目を閉じました。
花火の光が、まぶたの裏にまだ残っている気がします。
赤と、青と、金色。川に映った光。
来年も、見られたらいいと思いました。
三人で。
そのためには、何かしなくてはいけないのかもしれない。
言葉にするだけじゃなくて。
でも今夜は、それだけで眠れそうでした。
窓の外で、祭りの名残の声が、遠くからかすかに聞こえていました。




