第六話 雨の日の「ごめんね」
七月の終わりから八月の初め、梅雨が戻ってきたような雨が続きました。
三人で坂の上の古い図書館を探しに行く約束は、その雨で、少し先のことになりました。
三日間、ほとんど外に出られない日が続いて、つむぎは家で本を読んだり、お母さんに頼まれた家のことをしたりして過ごしていました。
雨の音を聞きながら読む本は、晴れた日とは少しちがう感じがします。しっとりと、物語が体に染みこんでくるような気がする。それはそれで好きでした。
でも、三日目の昼すぎ、あおいからメッセージが来ました。
『ねえ、ちょっと聞いてほしいことがあって』
つむぎは少し驚きました。あおいから『聞いてほしい』と言われるのは、はじめてのことでした。
『どうしたの?』
『実はさ……近所の子とけんかしちゃって』
電話で話すことになりました。
あおいの声は、いつもより少しだけ小さかったです。
「ひなちゃんっていう、近所の二年生の子で。あたしがたまに面倒みてたんだけど、昨日ちょっとしたことで言いすぎちゃって」
「どんなことがあったの?」
「ひなちゃんが、あたしの消しゴム勝手に使ってて。それで、使うなら一言言ってよ、って言ったら、ひなちゃんが泣いちゃって。あたしも、もうちょっと言い方あったかなって思うんだけど……でも、やっぱり勝手に使うのはよくないと思うし」
「うん、それはそう思う」
「でしょ。だから間違ってたとは思ってなくて。でも、泣かせちゃったのは、やりすぎだったかな、とも思って。どうすればよかったのかわかんなくて」
つむぎは、少し考えました。
あおいが言っていることは、両方本当のことです。消しゴムを勝手に使うのはよくない。でも、泣かせてしまったのは言いすぎだったかもしれない。どちらかが完全に悪いわけではなくて、でもだからこそ、どうすればいいのかわからなくなる。
「ひなちゃんとは、今どういう感じ?」
「今日は会ってない。つぎ会ったときどうしようかなって」
「あおいちゃんは、仲直りしたい?」
電話の向こうで、あおいが黙りました。
少ししてから、「……したい」と言いました。
「でも、あたしが全部悪かったわけじゃないから、全部あやまるのも、なんかちがう気がして」
「全部あやまらなくていいと思うよ」
「え?」
「言い方がきつかったことはあやまれる。でも、消しゴムのことは、一言言ってほしかった、って気持ちは本当のことだから、そっちはあやまらなくていいんじゃないかな。ふたつ、別々のことだと思う」
あおいがまた黙りました。
今度は少し長い間があって、それからゆっくりと落ち着いて言いました。
「……そっか。そうだね。言い方については、ごめんねって言える。でも、一言言ってほしかった気持ちは、本当のことだもんね」
「うん」
「それでいいのかな?」
「いいと思う」
電話を切ったあと、つむぎはしばらく雨音を聞いていました。
自分では気づかないうちに、あおいのことを「わかる」と思っていました。あおいは元気そうで、何でもすぐに言えて、困らないように見えます。でも、言いすぎたことをひきずって、どうすればいいかわからなくなることが、ある。
だれでも、言葉がうまくいかないことはあるのだと、つむぎは思いました。
次の日、雨は昼ごろに上がりました。
つむぎは坂道を歩いて、未来郵便図書館へ行きました。
ユエはめずらしく、テーブルのそばに立って、窓の外を見ていました。雨上がりの空が、ガラス越しに白く光っています。
「今日は雨が上がりましたね」
ユエは言いました。
「うん。やっと」
つむぎは棚の方を見ました。
引き出しのひとつが、やわらかく光っています。
今日の手紙を、開きました。
先に言うのは、まけじゃない。
つむぎは、その言葉をゆっくり読みました。
先に言うのは、まけじゃない。
すぐにあおいのことを思いました。
あおいは「全部あやまるのはちがう気がする」と言っていました。あやまることが、負けを認めることみたいに感じているのかもしれない。でも、先に言うのは、まけじゃない。
「ユエ、この言葉を、友だちに伝えてもいいですか?」
「手紙は、受け取った人のものです。どう使うかも、つむぎさんが決めることです」
つむぎはしばらく考えました。
手紙の言葉をそのまま伝える、というのは、なんかちがう気がします。つむぎの言葉じゃないから。
じゃあ、自分の言葉で、言えるかな。
つむぎはあおいにメッセージを送りました。
『雨上がったね。ひなちゃんに会えそう?』
すぐに返信が来ました。
『さっき外で見かけた。でも、なんか声かけそびれちゃった』
『あおいちゃん、ほんとうは仲直りしたいんじゃない?』
既読がついて、しばらく返信がありませんでした。
一分ほどして、メッセージが来ました。
『……したい。でも、どっちから言うかとか、考えすぎちゃって』
『先に言っても、まけじゃないと思うよ』
また間がありました。
今度はもう少し長くて、つむぎは少し心配になりました。
でも、やがてあおいから短いメッセージが来ました。
『行ってくる』
ユエは、小さな布で引き出しのつまみを一つずつ磨いていました。
誰かがいつか手紙を受け取りに来たとき、すぐに開けられるようにしているのだと、つむぎは思いました。
つむぎは図書館で本を一冊借りて、帰り道をゆっくり歩きました。
雨上がりの道は、アスファルトが濡れていて、空の色を映しています。白い雲と青空が、足元に広がっているみたいでした。
家に近づいたころ、あおいからまたメッセージが届きました。
『言えた』
それだけでした。
つむぎは『よかった』と返しました。
しばらくして、もう少し長いメッセージが来ました。
『ひなちゃんちの前で待ってたら出てきて、言い方きつくてごめんって言ったら、ひなちゃんも「わたしも勝手に使ってごめんね」って言ってくれた。なんかあっさり終わっちゃった』
『よかったね』
『うん。つむぎちゃんが言ってくれたおかげ。先に言っても、まけじゃないって。そのとおりだった』
つむぎはメッセージを見ながら、少し考えました。
あおいが仲直りできたのは、あおい自身が声をかけたからです。つむぎが言ったのは、ほんのひとことだけでした。
手紙がくれた言葉を、自分なりに置き換えて、あおいに伝えた。それだけです。
でも、それだけでよかったのかもしれません。
『あおいちゃんがちゃんと言えたんだよ』とつむぎは返しました。
『二人でちゃんと言えた、だよ』とあおいは返してきました。
つむぎは、スマートフォンを手に持ったまま、しばらく空を見ていました。
雨上がりの夕方の空は、水色とだいだい色が混ざって、やわらかな色をしていました。
その夜、つむぎはベッドの中で今日のことを考えました。
言葉は、こわいものだと思っていました。言ったら変に思われる。言ったらもめる。だから飲みこむ方が安全だと、ずっと思っていました。
でも、あおいがひなちゃんに「ごめんね」と言ったら、ひなちゃんも「ごめんね」と言ってくれた。あっさりと、それだけで終わった。
言葉が、場所を軽くすることがある。
言ってみてはじめて、それがわかります。
つむぎは天井を見つめました。
お母さんには、言えていないことがあります。
さみしい、ということ。
お母さんが仕事で出かけるとき、ひとりになる部屋が、たまに静かすぎること。でも、心配をかけたくないから、ずっとだいじょうぶなふりをしています。
先に言うのは、まけじゃない。
でも、お母さんに言うのは、もう少し先のことでいいかな、とつむぎは思いました。まだ、言葉が見つかっていません。
いつか、ちゃんと見つかったら。
そのときに、言おう。
つむぎは目を閉じました。雨上がりの夜は、虫の声がいつもより少し大きく聞こえました。
窓の外で、夏がまだ続いています。




