第三話 友だちになりたい日の手紙
夏休みが始まって五日目のことでした。
つむぎはあの日から、みつきたちと公園でもう一度遊びましたが、それ以外の時間は、あいかわらずひとりで過ごしていました。
お母さんは今日も朝からお仕事です。テーブルの上には、ラップをかけたおにぎりが二つとサラダ、麦茶の入ったポットが置いてありました。
つむぎは朝ごはんを食べてから宿題をして、本を一冊読んで、それから窓の外を見ました。
空は青く、雲がゆっくり動いています。
こういう日は、外に出た方がいいとわかっています。でも、どこへ行けばいいのかが、まだよくわかりませんでした。
みつきたちは今日、家族で出かけると言っていました。公園に行っても、知り合いはいないかもしれません。
つむぎは本を閉じて、立ち上がりました。
とりあえず、歩いてみよう。
それだけ決めて、外に出ました。
商店街の入口のあたりまで来たとき、声をかけられました。
「あ! つむぎちゃんだ」
ふりかえると、女の子が手をふっていました。
三つ編みの髪が、走るたびに肩のあたりでぴょんぴょん揺れていました。
麦わら帽子をかぶっていて、日に焼けたほほが、元気そうに赤くなっています。
でも、つむぎには見覚えがありませんでした。
あれ、と思ったとき、女の子はもう走ってきていました。
「つむぎちゃんだよね? 朝倉つむぎちゃん。四年二組の」
「え、うん……そうだけど」
「やっぱり! あたし、石崎あおい。隣のクラスの一組だよ」
石崎あおい。
つむぎは、その名前を聞いて思い出しました。同じ学年で、いつも声が大きくて、だれとでも話しているような女の子。つむぎが本を読んでいるのとは反対側のほうで、いつも笑っていた気がします。
「知らなかった? あたし、つむぎちゃんのこと知ってたんだけど」
「あ……ごめんなさい」
「あやまらなくていいって! つむぎちゃん、いつも本読んでるじゃん。話しかけるタイミングがわかんなくて」
あおいはそう言って、少し照れたように笑いました。つむぎは、少し驚きました。あおいみたいな子でも、話しかけるのに迷うことがあるのでしょうか。
「あおいちゃんは、今日はひとりなの?」
つむぎが聞くと、あおいは首をふりました。
「おつかい! お母さんに頼まれて。みりんが切れたんだって。でもお店寄り道していい? あたし、この商店街のたい焼き屋さんが好きで」
「たい焼き……」
「食べたことある? つむぎちゃん、この町、まだあんまり知らないよね? 引っこしてきたばかりって聞いたよ」
つむぎはうなずきました。知り合いもいないのに、どこで聞いたのだろうとも思いましたが、あおいにはそういう、自然と情報が集まってくるようなところがある気がしました。
「じゃあ、いっしょに来る? ちょっとだけ!」
つむぎは、少し迷いました。
でも、あおいの「ちょっとだけ」という言葉が、なんとなく気楽でよかったので、「うん」とうなずきました。
たい焼き屋さんは、商店街の奥のほうにありました。古い看板と、狭い間口。でも、前に五人ほど並んでいます。
「人気なんだね」
「いつもだいたい誰か並んでるよ。あんことカスタードがあって、あたしはあんこ派」
「わたしはどっちでも……」
「じゃあ、カスタード食べてみてよ。そっちの方があと引くから」
あおいはそうきっぱり言ってから、列に並びました。つむぎもそのとなりに立ちます。
しばらく待つあいだ、あおいはいろいろなことを話してくれました。商店街のどの店がおいしいか。どの道を通ると公園まで近道か。校長先生が飼っているネコの名前がモチだということ。
つむぎは聞きながら、相づちを打っていました。でも、何か自分から話そうとすると、途中でつまってしまいます。
「あおいちゃんって、この町、長いの?」
どうにかそれだけ聞きました。
「うん、生まれたときから。だからだいたいのことは知ってるよ。つむぎちゃんはどこから引っこしてきたの?」
「隣の市。電車で三十分くらいのところ」
「え、そんな近いの? なんで引っこしてきたの?」
「お母さんの仕事の都合で」
「お母さん、どんな仕事してるの?」
質問が次々に来ます。あおいは悪気があるわけではなくて、本当に知りたいから聞いているのだとわかります。でもつむぎは、どんどん答えていくのがすこし苦しくなりました。
言葉が出てこなくなったとき、ちょうど自分たちの番になりました。
「あんことカスタード、一個ずつ」とあおいが元気よく言いました。つむぎは少しほっとしました。
たい焼きを食べながら、二人で商店街をぶらぶら歩きました。
あおいのカスタードは正しくて、つむぎのたい焼きはたしかにあとを引く味がしました。
「おいしい?」
「うん、おいしい」
「でしょ!」
あおいはとても嬉しそうに笑いました。つむぎも、笑いました。
でも、すぐにまた会話がとぎれます。つむぎはいつも、こういうときが苦手でした。何か言わなくてはとは思うのだけれど、何を言えばいいのかわからなくなります。
あおいが「夏祭り、行く?」と聞いてきました。
「え」
「来月、この商店街でやるんだよ。屋台がいっぱい出て、花火もあって。去年は台風で中止になっちゃったんだけど、今年はやるって話」
つむぎは頭の中で、ちゃんと答えを探しました。夏祭り。行きたい、と思うかどうか。知らない町の知らないお祭りに、行ってみたい気持ちはあります。でも、大勢の人のいる場所は少し苦手で、うまく楽しめるかどうかわかりません。
「……どうしようかな」
つむぎはつぶやきました。
「どうしようかな、って、迷ってるってこと?」
「うん、なんか……人が多いのが少し苦手で」
言ってから、しまった、と思いました。誘ってくれているのに、こんなことを言ったら、あおいをがっかりさせてしまうかもしれません。
でも、あおいは「あー」と言っただけで、がっかりした様子はありませんでした。
「わかる、混んでると大変だよね。でも夜になると少し人がはけるよ。あとで連絡先、教えてくれる? またゆっくり話しようよ」
つむぎは、少しだけほっとしました。
でも同時に、また黙ってしまった自分のことも、わかっていました。夏祭りについて、もう少し言えることがあったはずです。行ってみたい気持ちがある、とか。この町のことをまだ知らない、とか。
言えなかった。また、飲みこんでしまいました。
あおいとはそこで別れました。
「またね!」と、あおいは大きく手をふって商店街の方向へ走っていきました。
つむぎはその背中を見ながら、なんとなく、立ちつくしてしまいました。
楽しかった。それは本当のことです。でも、もう少し話せたら、もっと楽しかったかもしれない。
うまく話が続けられない。
それが、つむぎのいちばんの苦手でした。
帰り道に、つむぎはまた坂道を歩きました。
足はとぎれとぎれに動いて、気がついたら路地の入口のそばに来ていました。
あの図書館は、今日もあるのでしょうか。
つむぎは路地に入りました。歩いていくと、白い花のさいた小さな庭と、やわらかな灰色の壁が見えてきます。
看板も、そのままです。
未来郵便図書館
ドアを開けると、木と紙のにおいがしました。
「いらっしゃい」
ユエはカウンターのうしろに座って、本の背表紙をノートに書き写していました。つむぎが来ても、急がずに一つ書き終えてから、顔を上げます。
「また来てくれましたね」
「来てもいいですか」
「いつでも。ここは、来られるときに来られる人が、いつでも来られる場所です」
つむぎはドアを閉めて、奥の棚のほうへ歩きました。
引き出しのひとつが、またほんのりと光っています。前とちがう場所の引き出しでした。
「また、光ってる」
「そうですね」
つむぎはその引き出しを引きました。やっぱり、白い封筒が一通だけ入っています。
封を開けて、便せんを広げました。
うまく話せなくても、にげなくていい。
つむぎはしばらく、その文字を見つめていました。
うまく話せなくても。
今日のことを思いました。あおいとのこと。夏祭りのこと。言えなかったこと。
でも、にげなくていい、という言葉が、じわじわと胸にしみてきます。
「あの」
つむぎはユエに聞きました。
「うまく話せなくても、というのは、どういう意味だと思いますか?」
ユエはすこし考えてから答えました。
「ぼくには、読んだ人が感じることの方が大事だと思っています。つむぎさんは、今日何かありましたか」
つむぎは、あおいのことを話しました。同じ学年の隣のクラスの子で、話しかけてくれて、いっしょにたい焼きを食べたこと。でも、途中でうまく話せなくなってしまったこと。
「嫌いじゃないんです。楽しかった。でも、言葉がつまってしまって」
「言葉がつまると、逃げたくなりますか」
「……なります。話を変えるか、早く終わらせようとするか」
「それが、にげる、ということかもしれませんね。この手紙は、にげなくていい、と言っています。うまく言えなくても、そこにいていい、ということかもしれません」
つむぎはもう一度、便せんを見ました。
うまく話せなくても、にげなくていい。
うまく話せることと、にげないこととは、ちがうのかもしれない、とはじめて思いました。つむぎはずっと、うまく話せないから、そこから逃げてしまっていた。でも、うまくなくていいなら、逃げなくてもよかったのかもしれません。
「次に会ったとき、ためしてみます」
「それがいいと思います」
ユエは、また本の背表紙を書き写す作業に戻りました。
つむぎはしばらく本棚を見てまわりました。今日は一冊、背表紙に気になるタイトルの本を見つけました。『言葉をなくした日の話』という、薄い本です。
「これ、借りてもいいですか」
「もちろん」
つむぎはその本を借りて、図書館をあとにしました。
次の日の朝、つむぎのスマートフォンにメッセージが届きました。
あおいから、でした。
昨日、帰り際に連絡先を交換していたのです。
『今日ひまー? 商店街のかき氷屋さん、今日から新しい味出るんだけど、いっしょに行かない?』
つむぎは、メッセージを読んで、少し考えました。
こういうとき、つむぎはいつも返信が遅れます。なんて返したらいいかわからなくて、考えているうちに時間が過ぎてしまうのです。
でも今日は、手紙の言葉を思い出しました。
うまく話せなくても、にげなくていい。
つむぎは返信を打ちました。
『行きたい。何時がいい?』
すぐに既読がついて、あおいから返信が来ました。
『やったー! 十時に商店街の入口で!』
つむぎはスマートフォンを置いて、時計を見ました。九時二十分です。
早めに準備しよう、と思いました。
商店街の入口でお互いを見つけたとき、あおいはぱっと顔を明るくしました。
「来てくれた! 連絡してよかった」
「うん。誘ってくれてよかった」
かき氷屋さんは少し並んでいましたが、そんなに長くはありませんでした。新しい味はびわシロップで、つむぎは食べたことがありませんでしたが、甘くてほんの少し酸っぱくて、夏の日差しにちょうどよい味でした。
「おいしいね」
「でしょ! 毎年新しい味が出るんだよ。去年はぶどうだった」
二人でかき氷を食べながら、ベンチに座りました。
昨日より、少し会話がしやすい気がします。お互いにもう少しだけ慣れてきたからかもしれません。
あおいがぽつりと言いました。
「つむぎちゃんって、あんまり自分のこと言わないよね」
つむぎは少し驚きました。
「そう……かな」
「うん。聞いてることには答えてくれるんだけど、自分から話すのはあんまりしない感じ。なんか、理由あるの?」
つむぎは、かき氷のスプーンを持ったまま、少し考えました。
正直に言っていいのかわからない。でも、にげなくていい、という手紙の言葉が、頭の中にありました。
「……うまく話せないのが苦手で。途中でつまってしまって、そうなると、早く終わらせようとしちゃうんだよね」
「あ、そうなんだ」
あおいは、責めるふうでもなく、ただそう言いました。
「それは別にいいんじゃない? つまっても」
「えっ」
「つまったら待つよ、あたし。あんまり気にしないで」
つむぎは、あおいの顔を見ました。あおいはけろっとしていて、すでにかき氷のびわシロップのいちばん甘いところを食べています。
「そういうもの?」
「そういうものだよ。みんな話すの得意なわけじゃないし。あたしは逆に話しすぎて、うるさいって言われることあるし」
「……あおいちゃんが、うるさいって言われるの?」
「たまに!」
あおいは笑いました。
「あたしも苦手なことあるじゃん。お互いさまだって」
つむぎは、少し肩の力が抜ける感じがしました。
うまく話せなくても、にげなくていい。
にげない、というのは、つまっても、その場にいていいということでした。そうすれば、あおいみたいに「待つよ」と言ってくれる人が、いるかもしれない。
「わたし、この町のことまだよく知らなくて。昨日、夏祭りって言ってたけど、この辺、他にどんなところがあるの?」
昨日、飲みこんでしまった言葉の代わりのようなものでした。夏祭りに行くかどうかはまだわからないけれど、知りたい、という気持ちは本当のことです。
「え! 聞いてくれるの、うれしい」
あおいは目を輝かせました。
「じゃあ教えてあげる。まず商店街を抜けたところに川があって、夕方はすごくきれいで……それからね、坂の上の方に、古い建物があるんだって」
「古い建物?」
「うん。図書館みたいな、本屋さんみたいな。あたしはちゃんと見たことないんだけど、おばあちゃんが、小さいころはあの辺に本を預かる場所があったって言ってた」
つむぎは、スプーンを持つ手を止めました。
坂の上。古い建物。図書館みたいな場所。
胸の奥が、少しだけどきっとしました。
「……今もあるの?」
「さあ。たぶんないんじゃないかな。風見さんの古本屋ならあるけど、その近くって聞いたことある」
「風見さん?」
「古本屋のおじいさん。変な本とか、昔の地図とか、いっぱい持ってるんだって」
あおいの話は、かき氷が溶けきるころまで続きました。
つむぎは相づちを打ちながら、途中でいくつか質問をしました。全部うまく言えたわけではありませんが、にげませんでした。
別れるとき、あおいは「また連絡するね!」と言いました。
「うん」
帰り道、つむぎはゆっくり歩きました。
うまく話せなくても、にげなくていい。
試してみたら、思っていたよりずっと、大丈夫でした。あおいは待ってくれました。つむぎがつまっても、変な顔をしませんでした。
手紙は、どうすれば友だちができるか、は教えてくれませんでした。どんな言葉を言えばいいかも、書いていませんでした。
ただ、にげなくていい、と言っただけです。
でも、それだけで、今日は昨日より少しだけ前に進めた気がします。
つむぎは空を見上げました。夏の青い空に、入道雲がひとつ浮かんでいます。
手紙は、答えをぜんぶくれるものじゃない。
そういうことなのかもしれないと、つむぎはぼんやり思いました。
ほんの少しだけ、背中を押してくれるもの。
最後に一歩を踏み出すのは、自分自身でした。
それでいい、とはじめて思えた日の午後、商店街から家へ続く道は、少しだけ「自分の町」に見えました。




